2011年7月31日日曜日

終戦物語 長崎と満州での終戦物語 続き

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 宮崎県   大牟田 一成様
原子爆弾 威力     長崎の原子爆弾の爆発により放出されたエネレギ-は、熱線35%/ ・放射線15%・ 爆風50% と推定されている。長崎の原爆の放出された熱線は爆心地から一、二キロメートル以内は人体には致命的となり、

重傷者は表皮は焼けただれてはがれ落ち、皮下の骨まで露出するほどであつた。爆心地から約4キロ離れた地点でも。、野外の人は重傷を負った。又熱線は大規模な火災を起こした。爆風は爆心地から一キロ以内の一般家屋を破壊し、強烈な爆風は人や動物まで吹き飛きとばし殺傷した、。放射線を1キロ以内で被爆して無傷であった人てもその後多くが死亡した。また被爆直後から嘔吐。下痢。発熱。皮下出血などの症状が重なり、一週間たつた頃から死亡者が増加した。 

九死に一生をえて幸いに生きのこった人に、放射線は今もなお人体に影響を与えつっ゛けていて、白血症や悪性腫瘍など様々な症状を引き起こしている。「原爆被爆災記録写真より」

宮崎県では、昭和35「1960」年に宮崎県原爆被害者会が発足した。昭和45「1970」年には「閃光は今もなお」を編集、鉱脈社から発行。昭和62「1987」年に「続・閃光は今もなを」 を編集平成2「1990」年に宮崎県原爆被害者の会延岡支部は「熱い**水をくれ」を編集発行、平成8「1996」に同日南支部は「閃光のかなた」を編集発行。被爆の思いをつなぐ会は「遺言、宮崎のヒロシマ・ナガサキ」編集、鉱脈社から発行。同8年には西諸六九会は「原子爆弾 被爆体験記集」を編集発行、県原爆被害者の会は、戦後65年悲惨な被爆体験を風化させないように、次世代へとつたえていかなければとの被爆者の願い思いから、是まで出版された記録に新たな証言・記録を集めて「ヒロシマ・ナガサキ 宮崎から証言」 「県内146人の65年間にわたる証言集」 として今年平成22年に鉱脈社から発行した。


引用元***「えびの第45号」   (えびの市史談会発行)

************未だ続きます****************

放射線の被害の怖ろしい事は、今 福島にての事故 東北の人達の思いもしない、放射の被害に言葉も有りません、一日も早く元の生活が出来る事を祈るばかしです

2011年7月29日金曜日

終戦物語 足に銃弾を受け松葉杖でかえってきた

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現住所で終戦迎える、夫は中国での戦闘で地で足に銃弾を受け松葉杖でかえって来
た.覚悟はしていたが慣れない農作業に大変だつたが、御国のためとがんばった。

明石仁絵門様から其の頃では大変貴重な自伝車をいたただき、夫の足となり何より
も有難い事だった、三世帯同じ屋根の下で暮らした。其の頃の苦労は今の生活にもおおいに為に成っています、戦争は負けるとは思いもしなかった。
夫はその後役場に勤め、傷痍軍人としてその他おおくの役職を無事勤めさせて
だき老後を過ごさせていただきました。 私 終戦当時 25歳でした

************ここまで**************



引用元[私の終戦]  (長谷敏通発行)

2011年7月26日火曜日

終戦物語 私は気が遠くなり

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佐賀県    高橋 八依様

花冷えの暗い駅で、夫は長女をちぎれる程に抱いていました。私達は黙って列車の窓を叩き合って別れました。蛙の鳴き止まぬ夜、夫の訃報、夫は大阪・生野区の消防署員で、6月に殉死しました。私は佐賀県佐賀郡諸富町上下佐賀線筑後鉄橋の見える実家におりました。爆音の最中、老産婆とあわて来る母は、赤子の啼声に仰天、私は気が遠くなり***その子も短い生涯でした。

夏衣の夫 走り寄り来ぬ夢枕


熊本県   松本 一枝様

私は、熊本県鹿本郡六郷小学校勤務、当時沖縄から学童疎開が、学校の裁縫教室に住む。当日険しい八方ケ岳に砲台を備える為、学校に一泊した兵隊に、いも弁当をてっだう。見送った後、すぐ終戦の玉音を賜る。那覇の学童悲喜交々に咽び泣く。

終戦や 悲喜交々の那覇の子等

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引用元  【昭和万葉俳句前書集 】  「高木二朗」

終戦物語 ソ連より引きあ

説明を追加
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いまぞ帰る ・ソ連管理下の大連からの

引揚船 1船「辰日丸」は21年12月8日   

佐世保に入港 奥地からの避難者が多く
 

 
着のみまま 哀れな姿がめだった。

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引用元 「1億人の昭和史」

2011年7月25日月曜日

終戦物語 苦難を背負って

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終戦物語 外地より引き揚

推定57万5000人のソ連
抑留者はシベリヤへおくられた。21年12月 米 ソ協定で始まった引き揚は25年4月、戦犯などを残し中絶、28年11月赤十字協定で再開し、31年10月の日ソ共同宣言により、戦犯も全員釈放となった、、ナホトカから舞鶴へのソ連帰還者45万3849人

韓国からの引き揚婦人には、国際結婚に破れた人も多かった、25年6月28日〔会福丸」で門司に帰って来た婦人は 服装もイタについていた。

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引用元〝〟【1億人の昭和史 】

私も23年6月27日 信濃丸で舞鶴港に復員しました 長谷

終戦物語 長崎と満州での終戦 続き

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宮崎県     大牟田 一成様

宮崎県都城で小林中学校【現小林高校】学生が昭和20年5月8日午前7時20分、都城の川崎航空機製作所の工場に動員中、爆撃によって3年生10人の若い命が奪われた。加久藤小学校で一緒だった松原区の川野利光君、私の母方の親戚の西小林の山下四郎君も犠牲者の一人であつた

終戦直前の8月10日午前9時頃、勤労奉仕作業地に向かって西小林小学校を出発した児童・生徒達が、西小林駅近くにさしかかった時、都城方面から吉都線そいに飛来したグラマン3機の機銃掃射によって、小学生8名と小林高女「現小林高校」3年生2名計10名が犠牲となり、18人が負傷を負った、7歳から15歳の少女の命が失われている。

小学生8名の中の2人は疎開中の沖縄出身者であり、小林高女3,年生の白川清子【真幸出身で当時は父君が西小林小学校校長の為西小林に在住】と 中村政子さん【大島出身で西小林に疎開中】の2名は、小学生と同じ作業地の為引率補助として手伝っていた。【当時小林高女3年生は在住校区での勤労奉仕作業であった】。

続いて飯野駅で死亡者1名・負傷者1名、加久藤小学校生徒負傷者2名の犠牲者がでている。民間人への無差別攻撃であつた
此の項はこれで又続きを

**************あとがあります*************

引用元  「えびの史談会 えびの45号」「えびの史談会発行」

2011年7月24日日曜日

終戦物語 乳がでないので子は唯細るばかり

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山口県   磯部 道子様

当日、北九州市小倉、空襲で即死した友の墓前でした。虫のしらせか19年の末、乳のみ子を抱き親子3人帰国【満州奉天より】。夫は即出征、兄も出征中、病身の父は頼りにならず。満州より送った荷物は届く筈もなし、文字どおり着のみ着のまま、口に入れる物が無く、乳が出ないので子はただ細るばかり、地を這いずるな毎日でした。

一合の山羊乳に 並ぶ炎天下


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埼玉県  末松  優様

昭和20年8月15日、猛暑快晴、九州佐賀県唐津市郊外の有浦村の山にかこまれた農村。玉音も跡切れ勝ち。海軍設営800名の特攻基地づくり兵一同襟を正して整然と拝聴。米軍上陸の噂たちまち広がり、村民蚊帳と鍋釜を持って山へ逃げる。海軍529設営主計長 海軍主計小尉

山間の蚊帳のテントに炊く煙り

************ここまで*************

引用元  「昭和万葉俳句前書集」

終戦 前後はいろんなデマが飛びかい 其のあわてぶりがうかがい知る事が分かります、嘘のようなほんとの話です。

2011年7月22日金曜日

帰還した御遺体を茶毘にふされました 嗚呼 声なし

佐世保郊外で茶毘に伏された 並べられた多くの遺体、涙無くして見られません。

終戦物語 無言の帰国と

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引き揚げは 生還者だけでははなかつた 戦没者あるいわ引揚げ途上で死亡下者もすくなくなかった 其の[゜未火葬」・遺骨もかえってきた、激戦地だったマニラから 戦没遺体が遺族に還されることになった。24年1月9日 佐世保へ帰港した 「ボコダ丸」の一般人を含む遺体は佐世保郊外 ・野天火葬場で茶毘に賦された火葬後 遺体は氏名不詳者を除き 家族に引き渡された 海外戦没者の本格的な遺骨収集は28年から始まり 現在もなおおこなはれている

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引用元【一億人の昭和史】

2011年7月21日木曜日

終戦 物語 満州 吉林にて応召

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青森県   松山 清一様

旧満州吉林国立師道大学勤務中、突然応召。北満州孫呉15202部隊重機関銃隊に入隊、厳しい訓練を受け、ソ満国境興安嶺の山深く入り、戦車壕を掘る作業中
、突如ソ連が参戦し、毎日機銃掃射を受け、多数の犠牲者が出る。停戦ついに捕虜となる。


白旗や 兵 月に悲喜の顔  「兵はつわも}

**********ここまで*************

引用元 ;  「昭和万葉俳句前書集」 【高木二朗発行】

終戦物語 防空壕で暮らす人達

地方に避難したくても親族・知人無い人達は 都市に留まる寄り方法が無く 防空壕に焼けトタンで雨 露をしのいだ。
[日時 不明]
*************[一億人の昭和史]寄り******************

2011年7月20日水曜日

終戦物語 台湾にて

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東京都  渋沢 均様

昭和18年、第1回学徒動員応召、比島から転戦して、台湾の基隆要塞司令部の見習士官として、終戦を迎えた。日盛りの衛庭に流れる詔勅のラジオは、あたかも万里の波濤を越えたる如き雑音を伴って胸にせまった。20歳の夏であった。

灼くる 身を軍帽深く 町にでる


東京都  真芝 真文様

昭和20年8月15日台湾台中市草屯飛行場に展開中。我が飛行第58戦隊も南方および中国大陸等歴戦に継ぐ歴戦にて犠牲多く、ついに三個中隊が二個中隊の戦力となり、南方飛行団台湾集結後、沖縄総攻撃の「神翔特攻隊」として戦隊全機特攻訓練の明け暮れ。数日を経ずして玉砕の身だった。感無量、嗚呼。

夏空に御わします戦友吾と咽け

************** ここまで*************

引用元 ;  「昭和万葉俳句前書集」  [高木二朗発行]

東京への爆弾

銀座4丁目、三越付近に爆撃が集中、数奇屋敷へと避難する親子、後方ビルは服部の時計台、中央列柱のヒルは昼夜銀行「昭和1月27日
写真提供  「一億人の昭和史」
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2011年7月19日火曜日

終戦物語 パラオ島より 帰国

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 兵庫県   谷川 和子様

20年8月15日、兵庫県赤穂市の実家に住む、婦女子引き揚げにて、サイパン玉砕寸前パラオ島より「長女6歳」とともに帰国。8月15日の放送を聴く、しかし陛下のお声は聞き取りにくく、現地召集の夫の身を案じ、落ち着かぬ日びであった、なを、19年5月五頃パラオ出航当夜魚雷を受ける。

狙わるる 深夜飛び込む夏の海


大阪府  八田 文枝様

終戦の放送を、奈良県生駒郡孔舎衛村の農家の一部屋で聴いた、私は破れたモンペの膝を正、そばに姑が中風で休んでいた。結婚してすぐ出征し行方しれず、家は全焼して農家に住まわせてもらい、其の手伝いをしていた。今までは勝ためとすぺてを我慢し続けてきた。明日からの生活を考え、姑を抱えて涙よりも強く生きようと決心した。

病む姑の 汗をふきつつわれ涙

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引用元゛「昭和万葉俳句前集」 「高木二朗発行」

戦争で夫が戦に召され、残された妻の苦労がいかほどであった事か、私の母も
父が応召して父の田舎にかえり慣れない農家の手伝いに追われていました、歳をとった今そのころの母を思い、母の苦労を思い胸が痛む思いです。「長谷」

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終戦物語 空襲

やっと持ち出したフトンとわずかな家財、雨、露をしのぐ場所もなくなった。焼け出された朝、七輪の煙が目にしみる
20年5月11日 。「一億人の昭和史」より抜粋

2011年7月18日月曜日

長崎と満州での終戦

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宮崎県  大牟田 一成様

{終戦から65年。}今年は第二次世界大戦「15年戦争・太平洋戦争」の終戦から65年になる。今年8月は、広島、長崎の夏原爆記念日や終戦の日中心にして、テレビ、や新聞、雑誌などは戦争のもたらした悲惨な事実を、多方面から追求し、報道し、戦争の罪悪と平和の大切さを訴えていた、原子爆弾は、多数の罪無き民間人の命を奪っている、一発の爆弾は壊滅的な打撃をあたえた。

広島では被爆なら65年の「原爆の日」の6日に「原爆死没者慰霊式並びに平和記念式」があり、文国連事務総長、原爆を投下したアメリカ、 核保有国のイギリス、フランス、ロシアなど過去最多の74カ国代表が参加している。9日被爆の長崎市
「長崎原爆犠牲者慰霊平和記念式典」に「核のない世界」に向かって協議が進んでいる事がを印象づけた。しかし「核兵器禁止・核のない世界」への歩寄りは、核開発国・核保有国など各国の立場の違いから停滞している。

広島では今年一年で5501人の死亡が確認され、死亡者の累計は26万9446人という。又今年3月までの被爆者手帳を持つ人は22万7565人、前年比では8004人の減になり、長崎では、今年一年で3114人の死亡が確認され、死亡者の累計は15万2276人と発表された


***********引用元 「えびの市史談会発行45号)前文」*********
また秋葉広島市長は、平和宣言で「こがあな いびせえ」 「こんな怖ろしい」こたあ ほかの誰にもあつちやいれん」と被爆者の声を広島の方言で紹介され、核廃滅の 
ためには「被害者の本願「を世界に伝える事だと訴えられたと報道された。
*****************続きます宜しく**************

2011年7月17日日曜日

20年511日市の東部と武庫郡 御影町・住吉村・本庄村「現東灘区」の空襲では、焼夷弾・爆弾の雨を降らせ 木造家は倒壊した。 持てるだけの物を持ち避難する人。
「1億人の昭和史」より抜粋

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まだ死臭と瓦礫の有様てけした

長崎県 後藤 なせ様

昭和20年8月15日は、鳥取県三保海軍基地に、主人 葉

終戦物語 大勢のアノリカが来て私達を取り囲みました。

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宮崎県  七帖祐七様 当時16歳

終戦は福岡県田川郡、職場で陛下の放送を聞く16歳であつた,良く聞き取れずとぎれがちの声だったが、戦争は負けた何でだと腹がたつた。ほしがりません勝つまではと、耐え抜いた気持ちが空しくなった。寮も動揺が広がり無断で帰郷する様になりました。私は兄が近くにいたのでたよつて避難しました。食べ物が無くて何時も空腹だった事がきつかつた。良く仲間と畠荒らしで持ってきたカボチヤに塩を振りかけたべていました。

ある日兄貴の家に大勢のアメリカ兵が来て私達を取り囲みました、あの時は怖ろしく生きた心地はしませんでした。アメリカ兵は家の後ろが蜜柑山でしたので蜜柑を分けてくれとの様でした。兄は自分の山で無いまだ小さいと手ぶり話ましたが、通じる分けはありませんでした。後日仕事先から賃金が送られて来ました。当時としては多額であつたので父が喜んでくれた事がおもいだされます。

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街で拝聴しょうと思っていたので街にでた-----人々粛然と頭をさげ 一瞬 街は静かな事***玉音は心に染み渡り ゜「抜粋一億人の昭和史」より
引用元ー「私の終戦」 「長谷敏通著」

2011年7月16日土曜日

終戦物語 紙の爆弾

紙の爆弾、宣伝ビラは伝単し呼ばれ、こりを拾ったら、すぐ警察へ届けなければならなかった、20年216日、関東、東海に投下されたのがさいしよで、終戦の8月15日までに計453万4000枚
に達した

************引用元ー「一億人の昭和史」、*************

20年5月11日 市の東部と武庫郡御影町、住吉村、本庄村 「現東灘区」の空襲では、焼夷弾、爆弾の雨を降らせ 木造家屋は爆風で倒壊し持てるたけの物を持ち避難する人。

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長崎県  後藤 なせ様

昭和20年8月15日は、鳥取県三保海軍基地に、主人は海軍小尉として勤務、私は長男、長女と基地近くに住む、8月9日故郷長崎に原爆が投下され、母、姉、従兄、叔父、叔母、8名犠牲となる、基地は幸いに余り動揺なく、皆帰郷の準備、帰崎は終戦一ケ月日の まだ死臭と瓦礫の有様でした。

水欲りて 阿鼻叫喚の夏を逝き

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引用元ー「昭和万葉俳句前書集」「高木二朗発行」

長崎では23、753人が死亡、行方不明 1927人、重軽傷 40933人の散状となりました、放射線の権威、永井隆博士もその一人だった、博士は
「長崎の鐘」などおおくの手記、記録を残し、原爆の恐怖を後生に伝えられました。

「一億火との昭和史」より 抜粋   「編集者 長谷敏通」
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2011年7月15日金曜日

終戦物語 終戦無は其の翌日であった

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大阪市  宗元 宗春様
  
「又負けたか 大阪八連隊」と野次られ、後に「22連隊」と改名された軍隊に、未だ18歳の私が学生の身のまま臨時召集に狩り出された。終戦は其の翌日であった

怖ろしき 原爆に似し入道雲


兵庫県   高井 シヅ様

母と私は、兵庫県高砂市米田町の田舎にいた、それに、7月3日の大空襲で父祖の地姫路で全焼させられて、命からがら逃れて来た。そこで毎日毎日「疎開者」といぅ不当な圧力と苦しみに、日々疲れ果てていた、戦況も、中小都市も焼き尽くした米軍は、こんな田舎まで狙い初め、疎開している家の屋根を覆った老楠の枝をかすめて機銃掃射、「いよいよ戦争も最後」との思いが肌に感じる日々だった

すべて焼かれ 我に生命あり八・一五

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引用元 「昭和万葉俳句前集」    [ 高木二朗発行   」

空襲は私達田舎の村まで8月10日クラマン機が作業に出る子供の列に銃撃をうけて10人の子供達が亡くなりした大惨事がありました。
引用元゛「私の終戦」 「長谷敏通」

2011年7月14日木曜日

終戦物語 私の目から初めて、涙が溢れ落ちた

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神奈川県  内田 正夫様

銀河隊、米子基地は編成中で、愛機6機、迷彩され翼を休めていた。玉音放送のあった午後、私は夏草に座り放心していた。パンパンと拳銃が鳴り、整備兵がタイヤを打ち抜いていた。私の目から初めて、涙が溢れ落ちた。

夏草に 魂抜けし愛機かな


島根県  藤後 登美子

尋常高等小学校高等科の私達学徒動員30人のグールプは、島根県の静間海岸に臨時の塩田ガつくられ、其の作業に、静間神社社務所を宿泊所に起伏しておりました、朝5時起床で、塩田に海水を汲んではかける仕事を、勝つためと言われる先生かたを信じて、頑張ってっておりました。

塩田の 地肌あらはに大西日

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引用元゛「昭和万葉俳句前書集 」 「高木二朗発行」

私の故郷 宮崎県でも塩田造りがありましたが、グラマン機の旋回でできなかったと記録があります。    「長 谷 敏 通」

終戦物語 父が戦死した日であつた

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兵庫県 富士原 美佐子様
 
蝉時雨の中、人通りの全く絶えた昼下がりでした。国民無学校2年生の私は、其れが終戦を告げる玉音放送であったことを後で知りました。そして3年後の公報により、その日父が中支にて戦死した日で在ることを知らされました。父33歳。其れから8年後、幼い私達兄弟4人を残して母も病死しました。

終戦物語 ソ連軍の進撃



  ソ連の機械化部隊と其の移動「ソ連軍進攻と日本軍」著者 中山 隆志様 抜粋

アメリカ軍の「グラマン」


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昭和20年8月10日、朝早く、志布志湾沖の海上にいた航空母艦を飛びたつたアメリカ軍の「グラマン」という飛行機、3機は、吉都線(都城から吉松までの鉄道線路)ぞいに飛んできて、高原と小林の境にある広原という地区のふみきり付近で、男女4人のひとを機関銃で射殺し、また、西小林の駅前では、奉仕作業に行く途中の小学生の四列縦隊に並んだ列のまんなかに、子供たちと知りながら、機関銃弾を射ち込み、十名を死亡させ、十八名に重軽傷を負わせるという、ひどいことをしました。***********市田寛幸編集 「中・小学生のための えびのと太平洋戦争」より引用 


米軍機グラマンは、さらに西へすすみ、加久籐小学校をおそいますい。8月10日とい
えば、お盆まえの学校は夏休みのはずですが、戦いの激しくなった昭和20年生徒たちも、のんきに夏休みを楽しんでいられる時代ではありませんでした。加久藤尋常高等学校{当時は国民学校}でも、上級生たちは{祖国振興隊員}として、休みも返上して勤労奉仕(パランティヤ))にはげんでいました。其の日は、栗下の長谷さん宅ふきんに国のアルーコル工場が建てられる事になり、其の整地作業にでていました。
(中 略 )其の日、高等科2年生(今の中学生))の稲留 淳さんと、ほか3、4名の生徒体のちょうしが悪いなどの理由で、作業に出られなくて、教室にのこっていました。
稲留さんの教室は二階のはしから二番目の教室だったそうです。急にバリ バリ 
バリと機銃のおとが聞こエルト、ガツ ガツ ガツ     

2011年7月13日水曜日

終戦物語 終戦後ハイラルのある日

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熊本県   田上千尋様

武装解除後、陣地を降り兵器廠に収容された、厳しい軍隊生活を終わる事になるが、絶望の虚しい抑留者としての生活がここにあった。日本はとうなったであろう過か将来はどんなになるであろうか、故郷の家族らはどうしているだろうか。

慰霊祭が執りおこなはれた。亡くなった戦友達の冥福を祈る。其の中には親しくしていた幾人の戦友もあった。ハイラルの戦闘で亡くなつた戦友は1、000人近く、全体の五分一か、連日10日間織烈な戦闘であったが、割に弾は当たらないものだと思った。

ハイラルでも毎日使役に出る。亡くなった戦友達の埋葬,物資の少ないソ連は、ありとあらゆる一切の物を貨車に積み込み国内にはこんだ。其の積み込み作業。ある日4名ひと組で、陣地に散った戦友の埋葬にでる。陣地の夏草の中に3名の知らない部隊の戦友の屍を探し埋葬した。野辺の花を一輪さして別れることになるが、これを最後に尋ねるものとて一人もあるまい。その墓辺は夏は夏草が生い茂り、冬は永い永い雪と氷の中に途絶されて、深い眠りを続ける戦友よ、安らかに眠り給え。

晴れた良い天気の朝、使役の為の作業整列、兵器廠の門内に5台のトラックに文乗出発を待った。ソ連の歩哨が門前を動衝していた。其のソ連兵が穴をみっけ、何かめづらしい物を発見したかのように、別の保の歩哨に声をかけて呼び寄せた、2人で暫くのぞいていたが、一人が銃で穴を中をつついたいた。瞬間もの凄い爆発音が耳をつんざいた。2人のソ連兵の姿は見る影もなく消え失せてすいた。私達はトラックの中にふせたが、立っていた戦友の剣つりに飛びちつたソ連兵の肉塊がぶらさがっていた。

一瞬の出来事に騒然となった。ソ連の上官が出てきて大問題となつた、作業も中仕された戦闘間に兵器廠の門の前に濠を堀り、敵戦車の進行に備えた急造爆雷がそのまま放置されたものであった。それをみっけたソ連兵、そして呼び寄せラレタソ連兵の命運を絶った一場面であった。日本軍との終戦を迎え、永い戦雲が全く晴れ全世界に平和の鐘が響いているとき、しかも戦勝国としての誇りもあり、吾々が明日もしれない抑留の身と事と異なり晴れの帰還をまつ故郷と其の肉親ガあつたソ連兵2人、つい先日ま敵兵であったが今考えるとかわいそうなまだうら若い2人のソ連であった。

シベリヤ抑留体験記 発行者城田敬助発行所全抑留中央連合会より引用

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昭和60年6月16日求む 私の人生の支えになりましたみ。
23年 スホトカに3年の抑留 舞鶴港り復員 86歳  宮崎県 長谷

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2011年7月11日月曜日

終戦物語 死ぬこととは

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新潟県 金子 しんや様

戦争程悲惨なものはない、聞けわだつみの声、平和程尊いものはない。平和の守り手、若人に老いの身が印し残しおく、正直のところ迷いながら敗戦の記録をしるす。

北鮮に程ちかい東満、延吉の第28歩兵部隊収容所での悲惨な状況、師団司令部で埋めた死体わ1週間で78遺体、部隊の丘に掘られた大きな穴に逃亡を計つて捕られた仲間達が、マンドリンで銃殺されてほりこまれた下士官、兵7名此の眼底に焼きついている。富濠では工場の内にいた千人余りの内、生きのこった者400人余り、毎日毎日が転がされている死体を運んで、河原に埋めるのが私の仕事でした、発疹チフスで大隊長や中隊長に気にいれられない私達31人ず取り残され,幸か不幸か、子茂山駅での作業はソ連へ抑留されて、病気になった人、送り返されてくる戦友の処理に、ソ連兵と収容する為の作業です、到着する気車「貨車}死体を送り還して来る、いな輸送中に息を引き取つたのだろう。唯一人の少尉が高熱にうかされてフラフラで申告しますなんて言うんです、死人特有のにおいが車中にただよつている。此の人は別の車で収容所へ移ってもらったが其の後の事は分からない500人ぐらい取扱わされた

まもなく図もんから来た30人程と、富濠では1人の仲間がソ連兵に射殺された興南でも一人外出中に射殺された、ソ連領ポシェット港へ上陸し小高い丘を行軍中に見たものは拉致抑留中死んだであろう戦友達の死の墓標、数へ切れない、おびた゛たしい「そとぅば」の森立、今でも8月の盆が来ると祈らずにおられない。

幾度酷寒を過ごし帰国を間近にして今一つ悲しい思いでを書いておかねばならない。同じ日本人の仲間同士で在るはずなのに故国の土を踏めるとカザックから、ナホトカに集結時のことアクチーブと言う成り上がりのカブレ者達、暖かく迎えてくれるのが゜人の道であるのにこの者達は露助と同じように憎みても憎み足りない、せっかく2000人連れだって海の見える所まできたのに彼等アクチーブの奴、教育が足らぬと再度シベリヤに帰れと命令しょつた。運良く我々を送って来た政治局のマルチヘノフ中尉にあった先の400人はシベリヤへ再教育としようして車中の人になつた、悔しかった事だろう。400人と
分かれて1600人は故国の土をふみしめたが分かれた人達の消息は今もってしれません、残念でたまらない、そして憎らしい事である、再び同じてつを踏まない為に人の命の尊そを叫び続けたい

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私長谷も抑留3年 同じ思いをしました 延吉収容所は私もいたです、海の見えるナホトカにたどり着いた感激は又ひとしおの思い出ががあります。迎えの船のタラップを踏む間では、何どんな事がおこるか分からない毎日でした、タラップの前にソ連の将校が立っており彼がダバイとひと声駆けられると、又引き戻されるのです、
外地での日本人が敗戦によりどの様な目に遭ったか書き残したいと思います。
                                                                                   {長谷」
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シベリヤ抑留体験記 発行人城田敬助発行所全抑協中央連合会より引用

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2011年7月10日日曜日

終戦物語 3年後の公報

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兵庫県  富士原 美佐子様

蝉時の中、人通りの全く絶えた昼さがりでした。国民学校2年生の私は、それが終戦を告げる玉音放送であった事を後で知りました。
そして3年後の公報により、其の日、中支にて父が戦死した日であることをしらされました。父33歳。それから8年後、幼い私達兄弟4人をのこしてこ母も病死しました。母は43歳でした。

めぐり来る父の忌日は敗戦日

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奈良県  笹岡 さかえ様

夫に3度目の召集がきたのは、忘れもしない昭和20年2月15日、体の弱い長男が、やっとお座りできた時でした。離乳食とて無く出の悪い乳房を夜通し含ませ、爆音にふるえながら、疎開先「奈良県忍海村」での毎日。やっと手に入れたミルクを温めようと、夜、火を使って警察に呼ばれ、ひどく叱られたおもいで。

千人針 求める街の辻炎暑

昭和万葉俳句前書集 発行者高木二朗 発行所マルホ株式会社より引用

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戦争の銃後を守る人達の様々暮らしの苦しさを耐えた事が分かります 「長谷」

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2011年7月9日土曜日

進駐軍が防空壕の中まで調べにきた

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満州満鉄で働いていたが、カツケにかかり二月島から島をめぐり、内地に引きあげる。終戦は実家で、生きてかえって良かったと胸がふるえた。昼間精米にいっていた山あいのむこうに山火事があったと見たらが其の色は黄色か紫かよく言え無い原子爆弾であった。

長崎におらずによかったと思った、弟は爆弾にあつた。終戦のラジオはきこえなかった 。進駐軍が防空壕の中まで調べにきた。怖ろしかった。満州に残った友たちは丸坊主でかえってきた

語られた方は終戦の歳 20歳   平成23年家族に看取られて永眠去られ
りましたご冥福をお祈りします

[私の終戦」 著者  長谷敏通
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兵庫県 中田 節子様

兵庫県赤穂町国民学校訓導、児童数1500人、広い運動場は芋畑。空襲を受けた浜松高射砲隊が移動してきて駐屯。教室は兵舎に、校庭の芋畠に高射砲が何機もならんでいました。上級生は工場へ、下級生は軍馬の草借、山から薪ヲ背負ってつて、直接軍へ奉仕しました

軍馬草刈り来し児等を抱いて泣く

昭和万葉俳句前集 発行者高木二朗 発行所マルホ株式会社より引用
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私の故郷は宮崎県ですが、私の村の校庭にも「さつまいも」、薩摩語で「カライモ」とよびますが植えてあつたと聴いております 。厳しい食料難がしのばれます。   長谷

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2011年7月7日木曜日

終戦物語 汽車の屋根まで乗って兵隊さんは帰る

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宮崎県 畠山 サミ様 当時15歳

私の家の近くに山がありました、兵隊さんが多数来ていろんな物を利用して住まいを作り訓練に励んでおりました。私は父に連れられてゆきましたテントの入り口に
は竹槍を持った兵隊さんがたっていました。
中には一番偉い方で。夜には私の家の風呂に良く来られて父と話をされておられました。父が里は何処ですかと聴いたら群馬県ですといわれました。8月15日にラジオを聴きに来られて終戦を聴かれ。日本は負けたと畳を叩いて泣かれましたその事は未だに忘れられません。
帰られる時家にこられて涙をながして残念だと云われてかえられました。汽車に乗って帰られる時屋根の上まで乗って帰られた事は悲惨に思います 戦争はしていけないと思います。

(私の終戦 )著者    長谷敏通
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大阪府   水野 恵以様

堺市金岡大阪陸軍病院外科第25病棟勤務。ただ一人の兄が戦死。御国にご奉公の一念に燃え、陸軍病院に志願。白衣の天使として一心不乱、一億火の玉゜「ほしがりません勝っまでは」と、青春時代を捧げ、大和撫子と咲き、また、散るよう訓辞を受け、両親宛遺言遺髪爪を見につけがんばりました。

玉音や冷水あびし思ひにも

昭和万葉俳句前書集 発行者高木二朗 発行所 マルホ株式会社より引用

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国の勝利を信じていかに頑張ってか当時の気持そのままです。

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2011年7月6日水曜日

終戦物語・主人は子が三歳になった時無事かえりました

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大阪府  竹川 ふさ子様

昭和18年3月結婚、1か月後夫出征。留守中に出産子を姑に預け、近くの授産場へ勤務、作業服の仕立てに従事。8月15日当時、給食があり、丼鉢一杯の雑炊、
其れが何よりの乳飲子を養う糧でした。その日当番の火を止め、作業場を片付け、
全員50名ばかりが直立してラジオを聴きました。一同泣き泣きました

その後場長の挨拶即日解散、家に走って帰り児をしかと抱いたあのとき気持ちは今も忘れません。南方スマトラにいた主人は子が3歳になった時無事帰りました
 
夏雑炊 火を止め正座ラジオ聞く

昭和万葉俳句前書集 発行者高木二朗 マルホ株式会社
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大阪府  服部 和子様

防空壕の毎日が続く暗い灯の夜、堺の町に降る焼夷弾。昭和20年7月10日あちこちに嗚咽の声。夫は満州に抑留、3人子供と共に死闘の連続、ソ連参戦、8月15日ついに敗戦の玉音をラジオで聴く。其の日は日本列島は晴れいた。

焼夷弾 花火と見ゆる火の雫

昭和万葉句前書集 発行者高木二朗 発行所マルホ株式会より引用
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戦時下銃後を命がけで子供とともに夫の無事を願い、苦労された多く女性がおられたことと想います、今の繁栄の影にお母さん達の大きい力がありました事に感謝申し上げます。  「終戦物語」著者長谷、
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2011年7月5日火曜日

終戦物語 戦艦武蔵沈没をしる

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宮崎県    林田 一夫様

終戦は上海。昭和18年まで、徴用で三菱長崎造船所で戦艦「武蔵」の偽装工事に従事していました。戦後あの巨大戦艦「武蔵」がフイリッピンで沈没した事を知り驚く。昭和19年1月15日熊本西部21部隊山砲兵として入隊 10日後北支山西省に遠征 3546部隊の配属1期の検閲は中条三脈の麓で受ける思っても居ないはじまりであった。

休む暇もなく中支で作戦中の本隊遂及が始まる石家荘付近より黄河の鉄橋を渡り中支の信陽。 武昌。まで昼夜の別無く苦闘の強行軍だった。武昌に1月いて   作戦に参加する。私は幸か不幸か病魔におかされ同庭湖近くの野戦病院に入院、武昌。安慶。南京。無鎮と転送される上海の登部隊に転属になり上海にて無念の敗戦となる内地送還復員まで連合軍の使役に耐える。

上海は諸物資が豊富で連戦 連敗であった筈の中国の低力を身をもって体験する。昭和21年1月8日頃米軍のL.S.T.上陸用艇母艦り乗船。佐世保に向かって出港海の色はカツ色青となる。

九州が見える頃には紺碧となり国破れて山河在りと胸中複雑となる。敗戦により内地に帰還したといえ戦死 戦病死の戦友を想い感涙にむせぶ。復員後苦労を供にした妻を今から想うと時突然なくし呆然となりしが子供達又回りの人達の支えに助けられ強く生きと願う。

戦争は絶対にさけよ。するな。 平和が一番と大声で叫びたい

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「私の終戦」(長谷敏通著)より

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大阪府    島津 正史様

満蒙開拓義勇軍、終戦の年、高等科2年の2月入隊、14歳。狭い日本、和歌山では農業の土地分けも出来ない事情もあって志願。茨木県東茨木郡内原の日輪兵舎の生活。終戦の日は快晴、朝より暑い日照り、軽馬「2輪車で馬にひかせる2乗りの車」で水戸街道を伝令で走っていた。

蝉時雨 終戦伝う 砂煙り。
当時政府は、満州の楽土建設を高らかに宣伝若者達えの夢を抱かせました、おおくの人達が将来に希望を抱き渡満しました、筆者もその一人です、結果的に敗戦にて悲惨な犠牲者が出ました、戦争は無慈悲な犠牲を出し人生を狂わせます絶対に戦争はおこしてはなりません。

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昭和万葉俳句前書集 発者高木朗 発行所マルホ株式会社より引用