2012年9月5日水曜日

終戦物語

えびの市 湯田 鶴田静氏
昭和19年4月満鉄に入社し、大連埠頭にある鉄道教習所に、山手の自よお隊舎の寮からかょいました、大連教習所での八け月の教育課程は、難しかったモールス信号や学科に合格して同年11月に終了しました。配属は北満鉄道船

2012年8月3日金曜日

ソ連軍の侵攻

昭和20年八月九日午前零時。ソ連軍は東部ソ連国境から牡丹江、吉林を
目指して60万、黒竜江からハルピンへ30万、モンゴルから60万と、ソ連軍は北と東西の三方面から満州に侵攻してきた。午前1時には東寧、綏芬河正面のソ連軍が牡丹江市街を爆撃、三〇分後には首都新京「現長春」
郊外にも爆撃機が飛来する。 


ソ連軍兵力は157万人余り、大砲などの重火器2、6万門、戦車などの自走砲5500台、飛行機3400機の強大な軍事力で電撃的に攻撃してきた。

対する関東軍は約70万、戦車200両、飛行機200機であった。関東軍の
兵員の2倍、戦車は27倍、飛行機は17倍であった。国境付近の我が軍
の陣地は次次にと全滅していった。虎頭や孫呉、ハイラルなど堅固な陣
地での抵抗ゃ牡丹江手前の我が第5軍は肉薄攻撃や切り込みを行い
奮戦したがソ連軍は満州になだれ込んできている。


引用元「えびの市史談会45号」「長崎と満州での終戦大牟田一成手記」

私の中隊も東寧の老黒山頂に陣地を構えておりました、突然のソ連軍の
侵攻でした、前線の部隊本部の戦闘を花火の様に見ておりましたが、夜があけますと戦闘は終わり本部との連絡なく強大な機械化部隊の力には
善戦せしも力尽きたと思もわれました。、我中隊は老黒山の頂より下の道路を進撃する見たこともない砲身を突きだす大型戦車、タイヤが6輪の車
小型車 その凄さにただ驚く化かしでした。
命令は後方に転進でした、10日ぐらいの山の中の徘徊でした、ついていかねば死あるのみでした、その間の事は残念ですが記憶がありません、
兵隊になったばかし、銃も剣もない裸の兵でした。もし銃があれば野たれ
死だったでしよう、抑留3年の苦しみも若さのみの体力だったと今思います
87歳  長 谷 敏 通 誤字はお許しください・










2012年7月26日木曜日

長谷敏通軍歴

昭和20年7月満鉄新京機関区機関士として勤務、
現役兵として新京「現長春」神社にて多数の万歳の声
に送られ満五七四部隊配属 歩兵二八四連隊二大隊
機関銃隊勤務、8月10日ソ軍との戦闘始めのため、
老国山東の山に配置する、8月14日 部隊主力通信なし
中隊は後方に敗走、21日琿春にて敗戦を知る。
見地山の中にて中隊解散、山中を徘徊中ソ連兵に包囲
され最悪の捕虜となる

延吉収容所に収容される。琿春経由 「入りソ連え」
20年12月 ハパロスク16地区 ホール地区ビキン
21年12月ホール地区6分所

22年 6月26日 ホール市 

昭和23年6月 出港地 ナホトカ
船 名     信濃丸 
上陸地    舞鶴港 昭和23年6月27日

現住所 宮崎県えびの市東長江浦633



長 谷 敏 通 大正14年1月1日生


長谷 敏通 軍歴記事

昭和20年7月現役兵として

2012年6月16日土曜日

満州での少年少女の終戦

************ここから************


「生きてる」 続き

早春の片道キップ
昭和20年4月16歳で渡満、私達156名は輸送船で下関港から釜山港へ、釜山駅から朝鮮を縦断し、満州は牡丹江駅を経て国境の町東寧駅
に着く。広々とした山間の町を進み、さらに東の東寧報国農場の隊舎に
いる。
田畑が広がった先が国境のウスリー川「鳥蛇溝河」で対岸はソ連領、山す
そはポルタフカの町、ソノ奥はソ連の陣地である。川の向うは肉眼でソ連
兵が見えると言う。国境の山野は、春の長雨が明けると猛真夏である。
猛暑で日中は枯れ葉のようになる中、毎日毎日徹夜で国境陣地に或る
大砲弾薬の撤収作業が行われていた。国境第二陣地へ移送するという
「実は南方方面に行ったらしい」ソ連領の陣地は、夜の信号弾の打ちあ
げが多い、赤、青、黄色、赤色が多い直前の夜は要注意である


8月9日早朝非常呼集がかり、国境線方面戦争状態に入ったと知らされ
る。夜明けと共にポルタフカ山頂陣地より砲撃が始まった。頭上ヲシユルシユルと通り過ぎる弾弾は後方の陣地で炸裂し、監視所の緑の山は見
る間に砲撃によって木木は飛び去り茶色のハゲ山となる。病弱者は東寧
駅で後命を待てとの達しで、伊藤隊長が引率し私は隊長付きとして病弱
者16名とともにトラックに乗りこみ、農場から東寧駅に移動する。
ここまで 2号とします、続きます。

*************2 号************
引用元「えびの市史談史45号」《長崎と満州の終戦大牟田一成手記》


終戦物語

満州少年少女の終戦

************ここから************
「生きてる」 続き

2012年6月14日木曜日

長崎と満州での終戦

***************ここから*************

生きている   志波 裕和

氏は昭和19念年3月真幸小学校高等科2年卒業。同年4月第11回生として宮崎県立茶臼原農民道場に入り、修練課程の一年に進級した昭和20年4月、農業報国連盟が8け月間、各県からの総計156 名を農林省直轄の満州牡丹江省東寧街東泳東寧報国農場に派遣する。
宮崎県から西諸、倉岡、高千穂、より各2名の計6名が選ばれて渡満する。11月末に研修を終えて帰国予定であった。

2012年6月10日日曜日

終戦物語《もっこ》で琲土を出す

*************ここから************
石川県  市波 豊州

私は、終戦を愛知県渥美半島の伊良湖湖岬の近くで迎えました。昭和12年の支那事変と同時に支那に渡り、大東亜戦争の時、青島に集結、南方各地を転戦して8年ぶりに内地の土を踏むことができ、

米軍の進攻に対処すべく濠堀の隊長として、兵隊は昼夜交代で堀り、現地の乙女達に《もっこ》で排土を運び出して貰いました。松林の中に掘立小屋を造り、そこで日夜穴堀に選念中、終戦を迎えました。

乙女等の 担ぐモッコや汗の顔

愛知県   鳥居 秋彦

その日私は、豊橋市末広町にいた。米軍機に我が家も、そして周辺の民家焼失、私は逃げる時に左足を骨折、バラック小屋で終日ぼんやりしていた。戦争に負けた事より、多数の友が犬死にをした、それがただ無念だ

夏悲し 老女が歌う子守歌

**************ここまで***********

引用元  「昭和万葉俳句前書集」 《高木 二郎発行》

2012年6月8日金曜日

終戦物語神宮の森煙が汚す

***************ここから***********
東京都   阿部 寒林

宇治山田市、憲兵分隊勤務、憲兵兵長。玉音放送は此の庭で聴いた。この
あとすぐに数千冊の押収書籍や需要書類など焼却した。今日まで印深かったのは外宮の一隅に分隊があつたので、神宮の森が煙が汚し続けて、あたかも敗戦の象徴だったこしである。

この日より崩るる神話国旗焼く


富山県  村松 亮

三重県鈴鹿石薬師の丘、本土決戦防備に編成され我ら東海555部隊、航空気象幹部候生教育隊は、連日b29の都市空襲とグラマン機の襲撃にさらされ、隊は山中に分散、防空壕兵舎で本来の任務で或る特攻基地への気象観測データの通報ゃ、無線聴衆と傍受によるアメリカ軍の暗号解読、

南太平洋各地の気象及び航空作戦に必要な情報等、出撃地へのデータ送信を炎天下の状況において行っていた、日本の灰色の状況も事前に察知、8月15日の陛下の詔勅も、放送10分前、小隊毎に集合、無線機より生の放送を聴かされ終戦となった。眼下に伊勢志摩の海を望み、右に鈴鹿連山山系を仰ぐ小高い山の中であった。

夏燃えて 国静まりし伊勢の海

*************ここまで***********

引用元   「昭和万葉俳句前書集」  《高木 二郎発行》

終戦は日本全国いろんなとこで様々な事が少しの言葉で表現されております、貴重な生の体験です、私もシベリヤの山中で終戦をしりまたが、
終戦の苦しみを後迄伝え残して置く事の気持で貴重な手記の引用さして
戴いております、


2012年6月6日水曜日

シペリヤ抑留中の歌襲

*************ここから************

大阪府  北村 清一

「友の衰弱死」


我が意志も声も体も草木と枯れて消え行くシベリヤの友

「死刑されるか」

重責に深夜の穴へ右左火をふく銃で止まれと声が

「友の死」

海征かば山征かばともシベリヤは消え行く友の声ぞ無情な

「左手骨折夜間指揮官として」

死ぬか十人はたまた我がヤレと令「グチツ」と我が手折れて受け止む

「遅配のバンを待つ」

凍る夜の深夜の二時になほ

待ちてパンを引くソリにのど鳴らしつつ

「度たび春は来れど帰国出来ない」

身は凍る夜の作業も四ツ年せお亦来る春に枯る、想いは

「四ケ年シベリヤで冬季夜間作業の指揮官として太陽を見ずに一年の内七ケ月を過ごす」

傷付けず祖国に帰す重き任務は凍りつつ夜の指揮する

*************ここまで続く************

引用元  「シベリヤ抑留体験記永恨の爪跡」 《城田 敬助発行》





2012年6月4日月曜日

終戦物語竹槍をなでた

*************ここから************

大阪府  松原みつえ

昼夜を分かたぬ艦載機の空襲に戦争の緊迫感をい抱ていた時、玉音放送が行われるという報せ雅あった。結局放送は聞こえずデマが飛んだ。
敵が上陸してきたら2.3.人は**して死のうと、竹槍をなでた。夜半に敗戦を知ったその時の虚しさ********.台湾総督警察官妻。

同胞は水漬く屍 冷酒呑む

奈良県  北原 菊太郎

当時、台湾府東郡警察の警務係であつた。生きて再び日本に帰る可能性は全く無く、今日あって明日は無い不安の連続で、或者は収監去れ、或者は所在不明になった。50余名の職員中、最後まで残つた者は2名となった。だが私こは生きのびた。

うらぼんゃ明日なき命欲もなし

**************ここまで**********

引用元  「昭和万葉俳句前書襲」 【高木 二郎発】

2012年6月2日土曜日

シベリヤ抑留中の歌集

**************ここから*************

大阪府  北村 精一

大君の国を守れと盾となる心ぞ知るや国の神々

かへらじとかねて定めし我今断腸の身はとらわれし

湧き出ずる胸の血潮も本懐も氷りつけるかシベリヤの月

ひもじさは口迄行って目がさめる大ボタモチのシベリヤの夜

一人出て深夜の空に耐え偲ぶ北斗七星瞼に光りて

**************ここまで************

引用元 「シベリヤ抑留体験記」 【城田 敬助 発行】

2012年5月31日木曜日

終戦物語息子の墓標

**************ここから***********
群馬県  宮田 珠

群馬県沼田市東倉内町、群馬県立沼田高等女学校「初等科訓導養成会生徒」玉音放送の伝言にて、全校生徒中庭に整列、朝礼台に学校長、他の先生と相対して、直立不動で玉音を聞きました。焼け付く様な暑さでしたが、汗を拭う人無く、校長先生も男泣きに全員泣き崩れました。
明治生まれの叔母は、二人の息子死を信じませんでしたが、玉音を聴き、
その夜二階で自殺しました。戦死した息子二人、叔母と三本、真新しい墓
標をたてました。心は除じよに砕け、なすすべもなく涙に疲れ果てました。

落付かず 更ける夏夜の乱れ文字

***************ここまで***********

引用元  「昭和万葉俳句前集」 【高木 二朗発行]


2012年5月30日水曜日

終戦物語b29

************ここから**********
群馬県  角田 千代

昭和20年8月5日、前橋の空襲は、一度北へ向かつたb29が焼夷弾を投下
しつつ戻り、すざましいものでした。県職員の主人と結婚2年、警戒警報になると主人は直ちに県庁に出勤。
私はかねてから打ち合わせしていた子福者の大家さんの乳児を背負い、弾丸雨、霧の中、逃げ場を失って川に飛び込むと、後に川が人゛で埋まり赤子   
は泣き通し、でも泣き声は生きてる証拠と、心を鬼にして頑張りました。近く
には自働車工場、製材工場が燃えて、さながら生き地獄、夜が明けて主人
と感激の対面をしました。

玉音聞く父の涙や戦い終わる
************ここまで*************
引用元 「昭和万葉俳句前集」 【高木 二朗発行】


2012年5月26日土曜日

終戦物語敗戦の日

*************ここから***********

石川県   熊本県 間山 久

海軍少年航空兵「飛行予科練習生」として、石川県小松市の基地にいた。
滑走路つくり、松根油堀りの傍ら、沖縄に飛ぶ特攻機をみおくる毎日だっ
た。敗戦の日、キャメルゃサイダーが支給され、大いに戸惑った。当時15歳。

特攻へ松葉牡丹の誘導路

鳥取県  大阪府 沢田 多喜子

あの日私わ疎開先の鳥取県津の井小学校6年生でした。お昼ごろ講堂に
集合し校長先生が涙に咽びながら終戦を告げられ、皆泣きました。
その後竹槍が渡され、校庭で竹槍訓練をしました。鬼のような米英軍が上陸して来るので身を守る為にと**********

終戦に子ら 竹槍を身構えぬ

引用元  「昭和万葉俳句前書集」  【】高木 二郎発行」


*************ここまで*********










2012年5月23日水曜日

ハルケシベリヤ゜

************ここから***********

シベリヤの凍て凌ぐ術石焼きて襤褸にくるみ抱きて眠れり

故郷に帰らぬおもい一筋に耐えきし戦友よ凍土冷たし

凍寒のきはみ小川も水涸れて生活の水に凍運びぬ

凍寒に小鳥も凍え死ぬというこの山奥は笹さえ生えず

従容と戦友と虜囚の責受けし豊原の野を馬鈴薯の花咲く

札幌市  塚本 光雄

引用元  「シペリヤ抑留体験記」 (城 田 敬 助 発行)

2012年5月16日水曜日

終戦物語 大阪空襲

**************ここか************

大阪府  泉 その

大阪空襲で丸焼けとなり、主人の故郷香川県小豆島大 村に命からがら
疎開して間もなく、終戦となりました。箱庭の様な小さい美しい島を守る為
、船舶隊として凛々しい少年兵が2,3,十人隊を組み、炎天の中の訓練を
いじらしいと見つめたのでした。

炎天や 脱走兵は今いずこ  
***********ここから**********
大阪府  富田 栄子

昭和20年8月15日、私は小学校の6年生、香川県高松に住んでいました。家族は母と妹2人、父はフイリッピン沖で戦病死とのこと。食べる物も
無く、母の知人をたょつて予讃線の丸亀という駅の駅頭に立っていました。

鋳物下駄履きたる 記憶終戦日

*************ここまで**********

引用元  「昭和万葉俳句前書集」 【高木 二郎発行】

2012年5月15日火曜日

終戦森語 広島

**********ここから**********
兵庫県  正宗 哲治

8月15日、呉海軍工廠水雷部にて、昼夜の別無く、今日も男女学徒及び女
子挺身隊30名と共に、個室で汗と油にまみれ、人間魚雷の心臓部とも言うべき機密部品の組立作業中、本日正午に重大放送有りとの事で、全員広場に集合せよとの下命、正午の放送で終戦を知る
 
暗幕をはづし 煌々秋灯す

岡山県  宮原 義蔵

陸軍船舶部隊補給部に召集されていて、広島市宇治港外金輪島に入隊中。広島原爆被災者数千人を、原爆の日の午後、船で運んできて、金輪島の兵舎に収容す。原爆の日の午前8時には、同地で女子挺身隊百名ほど集め、外で朝礼をやっていたら原爆に遭う、一同地上に伏せた砂ほこりが顔に付いていたので、お互いに顔を見ろと入ったら、顔を見て落ち着いたので、立たせて防空壕に避難させた。

原爆に 伏せたる顔ゃ砂ほこり

*************ここまで********

引用元  「昭和万葉俳句前書集」 【高木 二郎発行】

2012年4月30日月曜日

宮崎県  横手 貞夫

続き 途中の商店なども跡形も無く焼けて、長崎の街は見渡す限り焼け野原になっていました。大橋工場は鉄骨組立スレート葺きだったのが、鉄骨
が飴の様にペシヤンコにつぶれ、屋根は全て崩れ落ち、技じつ本部の鉄
筋コンクリートの建物も、中は黒焦げに焼けてしまつています、建物の一
階には、担架に海軍さんがはちきれんばかりふくれ、焼け爛れた死体が
おかれ、所狭しとずらり並べてありました。次の間には髪は焼け爛れ、
顔は火傷でひきつり、腕や足を怪我した女子挺身隊の姉さん達が変わり
果てた姿となって「水を飲まして、水を飲まして」・死んでも良いからみずを
呑まして」と中原先生に必死にすがりせがまれるのでした

寮に帰り残っていた寮生徒ともに、手分けして負傷者の救助作業や寮無外の片付け作業。道の寮は爆心から三キロメートル離れている丘の反対
側の低地であつた為、倒壊、焼失を免れました。翌11日からは大橋工場
の救護活動と死体の片付けでした。終戦となり被災証明の切符を貰い
加久籐の我が家に帰り、疲れがドットと出て1週間寝込んでしまいました。

9月初めに又大橋工場に行き、後片付け作業。機械などは賠償として差し出す為に撤去が始まりました。九州各地から集まつた連合国の米、英、中国などの捕虜が長崎港から病院船に乗船していました。10月に会社は解散になりました。

父が心配してもう家でるな出て行くなと止めるまま、ずっと農業を続けてきました。気にかけていたのは、長崎で救護活動をした人が白血病に加かつて死んでいかれ、遺体を運びにいった自分も、いっかわ白血病に加かつて死のでないかと心配しながらの毎日でした。被爆者である事は絶対話さず語らずで結婚して、子供が生まれ、孫が出来てほっとしました。
33年ぶりに被爆の申請をしました。
戦争のない平和のありがたさが身にしみる程分かり、日本の繁栄も有るのだとつくづく感謝して、二度と原爆が使用されない事を祈って止みません

引用元  「えびの史談会史談史45号」
【大牟田一成編集 横手 貞夫 長崎原爆体験より】ー

長崎の原爆 終編

宮崎県  横手 貞夫

続き 途中の商店なども跡形も無く焼けて、長崎の街は見渡す限り焼け野原になっていました。大橋工場は鉄骨組立スレート葺きだったのが、鉄骨
が飴の様にペシヤンコにつぶれ、屋根は全て崩れ落ち、技じつ本部の鉄
筋コンクリートの建物も、中は黒焦げに焼けてしまつています、建物の一
階には、担架に海軍さんがはちきれんばかりふくれ、焼け爛れた死体が
おかれ、所狭しとずらり並べてあれりました。次の間には髪は焼け爛れ、
顔は火傷でひきつり、腕や足を怪我した女子挺身隊の姉さん達が変わり
果てた姿となって「水を飲まして、水を飲まして」・死んでも良いからみずを
呑まして」と中原先生に必死にすがりせがまれるのでした

寮に帰り残っていた寮生徒ともに、手分けして負傷者の救助作業や寮無外の片付け作業。道の寮は爆心から三キロメートル離れている丘の反対
側の低地であつた為、倒壊、焼失を免れました。翌11日からは大橋工場
の救護活動と死体の片付けでした。終戦となり被災証明の切符を貰い
加久籐の我が家に帰り、疲れがドットと出て1週間寝込んでしまいました。

9月初めに又大橋工場に行き、後片付け作業。機械などは賠償として差し出す為に撤去が始まりました。九州各地から集まつた連合国の米、英、中国などの捕虜が長崎港から病院船に乗船していました。10月に会社は解散になりました。

父が心配してもう家でるな出て行くなと止めるまま、ずっと農業を続けてきました。気にかけていたのは、長崎で救護活動をした人が白血病に加かつて死んでいかれ、遺体を運びにいった自分も、いっかわ白血病に加かつて死のでないかと心配しながらの毎日でした。被爆者である事は絶対話さず語らずで結婚して、子供が生まれ、孫が出来てほっとしました。
33年ぶりに被爆の申請をしました。
戦争のない平和のありがたさが身にしみる程分かり、日本の繁栄も有るのだとつくづく感謝して、二度と原爆が使用されない事を祈って止みません

2012年4月24日火曜日

長崎の原爆 続き

宮崎県   横手 貞夫

気車が尾駅から浦上の方までいかれず、夕方なになつて、道の尾駅で折り返しで大村海軍病院に負傷者を運ぶということで、それそれ手分けして負傷者を担架に乗せて運ぶ事でした。同じ職場の18,9歳の挺身隊の姉さんや報国隊の女性の人達が、上着も焼きただれ、身もはだけ血みどりになっていました。

歩ける人は両方から肩を差し入れて体をささえ、励まし合いつつ、寮から道の駅に止めてある貸車に、乗せては引き帰し何回往復した事か無我夢中でした。歩ける人は歩いて行く様にとの指示で、道路いっぱいあふれる程に、ゾロゾロと時津の病院を目指して歩いていきました。山村君もその列にくわわり、付いてゆきました。あれが、彼との一生の別れになってしまいました。西の長崎市内の上空は一晩中夕焼けの様うに焼けていました

明けて10日朝、連絡用務の為大橋工場に行かれる舎監の中原先生に従い寮を出發しました。道の尾から大橋の途中の家は、殆ど倒壊し燃えて煙りがくすぶり、道留わきには所どころ死体が転がって異臭を放ち、
眼をむき出してこちらを見ている様でゾッとしました。
ここまで。  続きます

引用元  「えびの市史談会45号」 【長崎の原爆 大牟田一成編集】


2012年4月23日月曜日

長崎の原爆 続き


宮崎県  横手 貞夫


ビカッ白い稲妻のような閃光と、ゴオーツと言う轟音と熱風にふきとばされて、窓際に天井板と壁板などに押さえ付けられ、二つ折りに押し曲げ羅れていました。突然の出来事に爆弾を受けたのだなあと直感、もう是で吹き上げられるのかと思い、じっとしていました。寮の裏手の小高いところにあ
る農家の茅葺き屋根が燃えあがったらしく、パチパチターンと打ち上げられる音なハツと我に返り、やっと板片をはねのけ、「待避 待避」と叫びながら
寮生をつり出して待避させました

外は真昼間なのに空は夕方のように薄暗くなり、煙の様なものが立ちこめ、
小雨が降りだし、西の長崎市内の空は真っ赤に夕焼けの様に焼けて、天地の変動が起きたのでないかと主はセル様になってきました。一年生が
顔ゃ上半身が血だらけに成っていました、本人はどうしてなのか分からないといいましす。寮母さんか治療されて、真夏の暑さに上半身裸で、ガラス窓際に寝ていたために、爆風で割れたガラス片が突き刺さったのだと
分かりました、
一時間くらいして同じ小隊の山村君が、ズボンはボロボロに焼け破れ、
上半身はお化けみたいに焼けただれて帰つて来ました。本人に「どうしてそんなになつたかのか」聴きますが分かりません都返事するだけです。
寮母さんは種油を一斗缶毎毎出して来られ、山村君を芝生に寝がせました。山村君は時折ビクッと体を動かしておりました。寮生の看護にかけまはってい.トチリジリに髪が焼けて顔が比気っている人や、上着はボロボロになり体がはだけて血どりになり足を引きずりながら、負傷者が次ぎつぎに道の尾寮に来るでは有りませんか。寮母さんの指示で有るだけの敷布をだして負傷者を寝かせ、負傷者の介護におはれました。道の尾寮は一時臨時病院となりました。「水をくれ 水」といってる人「いたい いたい」とうめいている人。まるで地獄繪そのものでした。

この後は未だ続きます****************

引用元   「えびの史談会発行第45号」【大牟田一成編集長崎原爆】




2012年4月21日土曜日

長崎の原爆

当時長崎市軍需工場に勤務し、又生徒として在学中だった14歳から16歳達の体験

宮崎県  横手 貞夫

あの残酷なな出来事を想い出すのは、とても辛く心が重く、日一日とのばす内、やっとペンをとりました。若い方に読ンで戴きたいと想い、世界で初めての原子爆弾の被害者として体験を伝うさせて戴きます。戦争の悲惨さ、残酷そ、又平和の有り難さを感じとつて戴けたら幸いです

私は半年の学科と実習の教育ヲ受けて、昭和19年10月以降は機械工として大橋工場の第4機械工場で働いておりました。航空機魚雷の国内生産
90%ヲ生産する工場でした。20年4月にいると、魚雷を抱いて敵艦に体当たりする特校機の攻撃雅始まり、工場は昼夜二交代の「月月火水木金金」の態勢で増産に追い立てられてられていました、宿舎の道の尾寮には舎監、寮母、の指導監督のもとに、一小隊25人から30人の5小隊が起居を共にしていました。

8月9日、夜勤を終えて朝方かえり、寮の食堂で朝食をすませ、二階の部屋の真ん中に机を出して家に手紙を書いていました。さっきまで食堂の方では、炊事の人達が片付けする音がしていましたが、もう終わったらしく静かになりました、階下の一年生の寮生も寝付いたらしい。母が3月に亡くなり初盆だけど、戦局が厳しい中とても帰れそうに無いからとペンを
走らせている時でした。

前書はここまでにします、ながくなりますので次のページで書かせて戴きます


引用元  「えびの市史談会45号より」 【大牟田 一成 長崎原爆より」

*************ここまで 次有り**********

2012年4月19日木曜日

霧島山の麓から: 軍旗を洞窟において焼く

霧島山の麓から: 軍旗を洞窟において焼く

小学校四年生の私も

岩手県 菅原 和子

岩手県 東磐井群奥玉小学校四年生の私も、今日も又鎌や鍬を持って荒れ地を開く為、班編制の班長として点呼を取り、先生方と共に、豆ゃ米煎り
のおやつをカバンにつめ、学校より30分歩く農家の荒畑を拓くため出発
しました。続く炎天に、級友はヘトヘトに疲れ、時折出る蛇や毛虫に悲鳴
を上げつつ、悪銭苦闘しておりましたが、農家の人が大きな桶に胡瓜を冷やして、おやつにしてくれたのは、40年経た今日も、まざまざと脳裏に在ります。そして8月20日は幼い手で、いた土地に蕎麦の種がまかれず筈ですが**********

蕗葉に汲みし 真清水回し呑む

引用元 「昭和俳句万葉前集」  【高木 二郎発行

2012年4月13日金曜日

南方上空で被弾 ハワイホノルル米海軍病院

千葉県  萩原 勝

20年4月、沖縄東南方上空で被弾負傷。漂流中に捕らわれ、グアムを経て
ハワイホノルルの米海軍病院にて治療中に終戦となる。窓の下に眼の当たり真珠湾を望む。戦勝を喜ぶ米国の人々を見て、心中甚だ複雑であった。

炎昼の巨艦 静まり戦止む 


東京都  江沢 昭男

小年落下傘兵の一員としてサイパン島で傷つき、アメリカのウイスコンシン州のマッコイ・キャンプで終戦をしる。未成年者だった為ウイスコンシン州立
のハイ・スクールで勉強していた。強制的に。


蛇が衣を 脱ぐガンベルトつけたまま


引用元  「昭和万葉俳句前集」 【高木 二郎発行 】


**************ここまで***********

2012年4月12日木曜日

悪性マラニヤにて毎日


軍佐賀県   吉野 正

北ボルネオ、ブルネイ市に駐留中、濠軍の来襲により、ボーホートに在りし
灘軍司令部の後方「ラグ」に移動す。山また山、ジャングル等40日、負傷兵の担送する「ラグ」移駐後、悪性マラリヤにて毎日の如く戦病死が絶え
ず。身体を養いながら食糧自給の農作業に従事した部隊指揮官である。

六歳征く この月を見て母待つや

*************ここまで***********

引用元  「昭和万葉俳句前集」  【高木 二郎発行】

私の父もボルエオの地で軍務に尽きました、椰子の大木の下で写真に
映る元気な父の姿をみるたびに当時の事を想い出します、内地に転属
になり、輸送船の指揮官として航行中船は魚雷を受けし沈みましたが
味方の船に救われ呉港に上陸したと話してくれました。戦後はいろんな
役職に就いて世の中に奉仕した尊敬する父でした。合掌






2012年4月11日水曜日

壕の中、幽鬼ちかく

大阪府   木山 幸雄

その日、ライバルに近い壕の中、幽鬼に近く、無線機にかじりつき放心状態。この島の西端南海岸において、玉砕、全滅相次ぎ、弾薬・糧食も無く
死の転進一か月半余りにも多くの死をみる。死に遅れし戦友にすまぬの
感しきり。

戦陣訓 虜囚の枷を外し得ず

引用元 「昭和万葉俳句前集」 【高木 二郎発行】

2012年4月9日月曜日

急に全身の力がぬけでしまつた

長野県         小林 邦人

勤めていた工場は機能ヲ失い、私は隣組を督励して神社の崖に大防空壕
掘っていた。膝をただして聴いたラシオの玉音は雑音と難語だったが敗戦は分かつていた。急に全身の力が抜けてしまつた。どうすれば良いのか・町も静まり返つた。その時近くの蝉か゜いやにたかかと鳴いて許諾した町
中に響き渡った。力一杯に鳴く其のたくましさ。生命力の強さ・

蝉叫ぶ 敗れし国に生きよて

************ここまで************

2012年4月7日土曜日

まぶいい程電灯が輝いていた

茨木県 黒田 政次郎

北茨木市磯原町大塚1494、山口炭坑で電工として勤務。正午に重大放送が在るというので、仕事が手に付かない。坑木置場には、多数の人が腰
をおろして待っていた。栄養失調で皆顔色が良くない、気分が悪くなり、倒れる者まいた、とにかく暑い日だった。陛下のお声がラジオから流がれて、
日本が戦争に敗れたことを知った。生き延びた喜びでほっとした表情。
その夜から、まぶしい程の電灯が輝いていた。私は17歳の少年だった

食糧を工面の母に銀河濃し

引用元 「昭和万葉俳句前書集」 【高木 二郎発行】

2012年3月27日火曜日

終戦物語延吉収容所

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福岡県  石井 芳美

昭和20年8月15日は終戦を知らず、東満の山中にあり、友軍特使にて敗戦を知る。武装解除をうけ、浮虜として延吉収容所に入る。遙か祖国を想い、復員を夢見て忍従の日々を送る。

終戦の記念の遺書はまだ焼かず

***********ここまで***********

いま想えば、私自身も延吉収容所に入れられた事を想い出します、どんな毎日であったか確かな記憶はありませんが、鉄条網に囲まれ惨めな日
を送りながら、祖国を帰還を想う事ばかしでした。待っていた物は3年の
抑留に成るとは、敗戦の現実でした。

2012年3月16日金曜日

終戦物語 かんかんがくがく

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大阪府   桝元 義雄

昭和20年8月15日は泰国バンコクにて南方軍通信隊所属。陛下の
重大放送は激励であると考えておったところ、敗戦で在ると知り、
バンコクでは食料、弾薬は十分在り最後まで闘わんと゜「かんかんがくがく」
の日々であった。

侃々諤々玉砕誓い 戦友と酌む

大阪府  松本 正男

2回目の召集で昭和18年11月宇品港から南方スマトラにむかう。
途中台湾高尾港西方沖で乗船の輸送船が魚雷を受けて沈没、5
時間洋上でさまよう。スマトラに上陸し、中部地区に駐屯、野戦病
院を開設、主計軍曹として勤務。19年11月マレー経由タイ国へ
転進、北部のランパン市に駐屯し、終戦をむかえる、住友金属工
業株式開会社正社員、昭和13年入社

刀折れ 矢尽きし軍衣汗まみれ

引用元  「昭和万葉俳句前書集」 【発行者 高木 二郎】
*************ここまで**************

2012年3月12日月曜日

終戦物語3月10日東京大空襲

終戦物語 望郷の思い

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福井県 本多 修
 

昭和20年8月15日当日、ソロモン諸島プーゲンビル島におり、終戦の
報復か。飢えと闘いつつ玉砕を待つ日々、よぅやく一八日頃、終戦をしる。
日夜望郷の思い切々なり。

椰子の実の去りゆく沖に故国あり

京都府  藤井 重泰

当日はソロモン諸島のブーゲンビル島の南の基地ブインにいました。
第八艦隊所属一三一設営隊の海軍軍医大尉として、軍務「医療」に
従事し、マラリヤと栄養失調の多発に苦労しました。

八月の椰子に安らへ汝が魂ょ

**************ここまで************

引用元 「昭和万葉俳句前書集」  【高木 二朗発行】


私の義兄 もプーケンビルの戦闘で善戦空しく戦死しました、何時か是非島に墓参にと

2012年2月18日土曜日

えびの市自然川の鴨の群

えびの市宮河 栗下加久籐神社横の川、鴨が100羽ぐらい
川岸に休んで降ります、
眺めて居ればのどかで気分が和やかになります。
私が分かった様で皆飛び去りさりました、春は身近に感じました、自然がそばに在りますえびのは素晴らしいとこです。

2012年2月15日水曜日

23,年1月えびの市にてえびの空襲展開催


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平成23年1月 えびの市教育委員会その他各方面の賛同
を得まして「戦争と原爆えびの空襲展」が開催されました。
市内小学校 中学校 高校 市民 戦争体験者。多数の方
の参加を得まして、戦地の体験、空襲、原爆、抑留、引揚、
終戦の時様子、貴重な体験を生徒 市民に伝える機会を得
ました事を抑留体験者として感謝申し上げます

大変寒い時期にかかわらず生徒達は初めから終わりまで
休みを返上して会の運営に積極的に行動してくれました。
子ども達、若い世代に戦争のない平和を切望します。

昭和20年8月10日宮崎県吉都線「吉松-都城間」線上を
突然、グラマン3機が襲来各地に無差別機銃掃射を加え、
民間人、小学生等多数の死者 負傷者を出しました、
京町「当時は村」島内の民家Eさん宅は機銃の直撃を受け
屋根を貫通した弾は、勉強中の彼の横に在った盆に当たり
弾は盆の中を走り回り飛び出したとの事を話してくれました。
九死に一生とは此の事と思居ます。

私もシベリヤ抑留の体験を話す事が出来ましたが、生き残り
体験者として機会が在りましたら、若い人達に語り継のが若い
命を捧げた戦友えの供らいと思います。

えびの市  長 谷 敏 通    87歳

*************ここまで*************

2012年2月5日日曜日

短歌 友が知らぬ土地へ

パソコンに戦記をブログ打ち込めばぢいちゃん見てると嬉しいメール

ハンドルを握るこの手も八十路過ぎ乗るか乗らぬか日毎迷いぬ

妻か゜逝き一人暮らしの老友が知らぬ土地へと送る寂しさ

3番の短歌は彼も中国からの復員者でした、同じ戦後苦労した友でした、
何とか今からと思う時突然妻を病で失いました、あれから10年になります一人暮らしに耐えて、クラブのスポーツ、行事などに参加、車の運転等
頑張っておリましたが、歳を取り子供が一人暮らしを心配しまして、子供が暮らす遠い土地に、去ってゆきました彼の胸中を思い同じ高齢者として
辛い出来事でした、或る全国誌に投稿しまして優秀賞として記事になりましたが、喜びは半分になる気持になりました。

2012年2月4日土曜日

終戦物語フイリッピンの墓地

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山口県   中務 久雄

マニラ
の東海岸から奥にいった森の中で、飢えをしのぎつつ時期の到来を待つ、
斥候により終戦がしらされ、謀議の末山を下り、米軍により指示されて広
場に武器を捨て、車にのせられ、途中原住民の罵声をくぐりぬけて収容所
に収容される。

こだまする罵声の渦や終戦日

愛媛県  二宮 昇

私は一部隊長として山下将軍最後の拠点、ルソン島「比島」中央のブロイ山「マニラ東北方」を守備して終戦をむかえる、我が部隊の将兵約800名
は其の周辺の戦闘で国の為散華した。

秋桜デロイに散りしつわものや

************ここまで***********

引用元   「昭和万葉俳句前書集」 【高木 二朗発行】

私は今87歳になりましたが、思い起こせば50代のころでしたが、
フイリッピンに旅した事が在ります、山下将軍が処刑されましたと
言われている山に行きました、小高い山に沢山の墓標が立ってい
ました、其の風景は忘れる事は出来ません、遠い異国での墓場に
手を合わせてなんとも言えない気持ににりました、今はどんなに成
つて居ることかと思います、其の後で日本の人達が戦犯で収容さ
れ、亡く成られた収容所を見ました、戦争で罪を受けられた方々の
ご冥福を御祈いたします、もうこんな不幸な戦争は絶対にしないで
下さい 合掌


2012年1月30日月曜日

5,,年ふりに清武の県立大学病院に行きました

身内の者が病で手術をする事になり子供の運転で高速を走り、5年ぶり
病院に行きました、5年前老妻が頸椎の手術した事を思い出す。
改装をしたとは聴いていたが、中に入り何もかも変わっていたのに驚き
ました、いろんな人達が病と戦っている事を見る事が出来まして感動し
した、手術が無事おはり先生の熱心な経過説明を受けました。
有難い世になった事を体験して病院を後にしました。

私は興奮しましたやったーと

日本軍落下傘部隊降下せり。

2012年1月27日金曜日

                   加久藤中学校にて生徒代表に「私の終戦」170部を
       贈呈しました、戦争を知らない生徒達に平和への願
       いをこめまして。
何時も何かについてお世話に成っている史談会 会長「山下常昌様」
より暖かいお言葉をいただきました。有り難うごぞいました・

2012年1月26日木曜日

平成20年8月 250冊自費出版  えびの市市立加久藤中学校先生
、生徒に170冊配付しました。おもに偶然にも手にいりました「昭和万葉俳句前集」 えびの市史談史 依り引用させていただきました。
地区の高齢者54人の方に直接お会いしまして、終戦の時何処で何をし
て其の時の状況など話して頂き私なりに纏めまして記録しました
1号は主に自分達の地区関係を主に纏め、2号は記録を元に終戦前後
の各地の戦歴 、民間人達の記録を主に纏めました。市立図書館にも寄贈
しました。8月には終戦関係の本棚に展示されますので感激しております
、年が流れ後には大変為にりますと館長のお言葉に抑留体験者として無学でしたが苦労した事を忘れました。

2012年1月24日火曜日

私は興奮しましたやったーと

昭和17年2月14日、陸軍落下傘部隊降下、第38師団直ちに同部隊と
共同 同17日バレンバン完全占領。
*************ここまで************
写真、記事の引用元 「昭和の軍歴 軍魂」 【ワールドジヤナール政経調査】

国民は此のニーゥスに興奮した事を覚えて降ります。

軍魂 嗚呼我が戦中記と題しまして大変貴重な1300頁又重さも4キロ
からなる「昭和の戦歴」を記録されました本です。中には宮崎県出身の
多くの方々の軍歴が紹介されております、当時としては大変高価な値で
した、私も父の記録が載っていたので苦しい中よりやっとの思いで求めた
本でした、年寄になりましたが今では、我が家の宝物゛です。

終戦物語指揮者の義務

*************ここから************
長崎県    徳富 悦郎 

スマトラ島ランポン州テロクベトンでの南方、スンゲイドァ、サカ地区の密林の中、油田防衛の照空第一分隊長として軍務に付いていた。8月17日の夜半だつた。本部集合の迎えのトラックに打ち乗り、中隊本部に急いだ。
内容は分からない、おそらく前進展開の命令と思い、部下の人々には、完全軍装の準備など怠らないよう指示して行ったものだったが。

本部で聴かされたものは、終戦の大詔が下った要旨だった。一瞬自決を考えた。その時中隊長は、そんな様子を見抜いたか、お前一人の事でない、
陣地に帰って部下の人々に戸惑いないよう説明し、皆な詔どおり全員祖国に帰れる要にするのが指揮者の義務だ、と注意された。帰りの足は重かった。

密林は明けたに兵らは足なえて

引用元 「昭和万葉俳句前書集」  【高木 二郎発行】
****************ここまて゛********


2012年1月21日土曜日

高齢者生き甲斐大会同期の桜熱唱

えびの市中部高齢者生き甲斐大会にて、「本物の海軍航空隊軍服」
マフラー、航空帽、戦闘服、全て当時着用した純制服でした。
S氏が「海軍航空隊勤務」 大事に保管されておられました品
を厚意によりましてお貸し下されました、着用した気持は凄く
緊張身の引き締まる思いでした。
右のT君は戦闘機操縦士、南方にて待機せしも終戦となり復員
「特校隊員」一番で出撃した戦友の遺影は、鹿児島県知覧に展示
されているとの事でした、2人して「同期の桜」を心を込めて歌いま
した、皆様に大変喜ばれきした、戦争で生き残った者として、伝え
残さねばならない気持です。

2012年1月20日金曜日

終戦物語此の地獄

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ボルエオ   青木 正孝

南方最大の海軍燃料補給基地ボルエオのバリクバパン。マツカーサを主体とする連合軍の反撃攻撃により我が基地将兵のほとんどが玉砕寸前、辛うじてジャングルに逃げ込んだか、戦闘と病患、飢餓の此の世の地獄体験。

マングロ-ブ 発狂の戦友全裸踊り

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引用元 「昭和万葉俳句前書集」  (高木 二朗発行)

ボルエオ島 父が召されて軍務に服した忘れる事のない島の名です、
終戦前父は島を離れ内地の呉に入港出来たと少し話しましたが
途中敵潜水艦の魚雷攻撃で船は撃沈され海中での時間の長かった
事を、命を無くした戦友の事をなど少し話してくれましたが、おおくわ
話しません出した、今父亡き後何で戦の話をきかなかったか深く後悔
して残念でたまりません

2012年1月19日木曜日

えびの市上江小学校平和学習

平成22年8月6日、宮崎県えびの市上江小学校にて、平和学習
の時間に「戦争と平和」に付いて話しをさせていただきました。
生徒達は真剣に話し「8月10日西小林での学童の悲劇」が主で
したが、其の子供達の聞き取る姿勢には感謝しました、後日生徒
の上野君が宮日新聞に感想を投稿文を載せて頂き少しでも為に
成ったと大変嬉しく思いました。

終戦物語 東京は焼野原

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静岡県  坂本 五郎

空爆により東京は一面の焼野原。地方重要都市の警備にと、警視庁より岩手県庁所在地盛岡に派遣される。時に終戦一ケ月前。艦載機による空爆の先例を受け始めたのか、終戦を間近にした8月に言ってからの事

敵機目標は盛岡駅。爆弾・機銃掃射攻撃による駅員の負傷。大腿部貫通銃創、腹部貫通の駅員を担送。腹部貫通銃創の駅員は坦送中絶命。大腿部貫通銃創の駅員は、終戦の詔勅の下るその日に大腿部切断という凄惨な結果となる。

血の匂ひ 担架にのこり敗戦日

***************ここまで**************
引用元  「昭和万葉俳句前書集」 (高木 二郎発行」
終戦前敵機による空襲、低空よりの機銃掃射は全国各地で罪の無い学童、民間人が犠牲になりました。私の故郷でも8月10日突然あらはれた
グラマン3機の無差別機銃掃射で、時間的には数十分の出来事ですが
犠牲者は死者16人、重軽者20数人、全て「民間人」です幼い学童が大部分です。故郷での此の悲惨な出来事を忘れる事無く伝えてゆくのが、
のこされた者の大事な勤めでと思います。

2012年1月18日水曜日

終戦物語

************ここから*************
福岡県  河村 勝子

私は勤務校であった八幡市神原高等国民学校が、その年の8月10日に
昼間の大空襲で校舎が焼失し、米軍の上陸が迫って居るとのことで婦女子は優先的に避難を命ぜられ、郷里の大分県日田市に帰りましたが、ここも危なく、遠縁を頼りずっと田舎にとりあえず着物だけども先に疎開佐せょう
と、姉と二人で家中の者の着物車力に積んで、目的の家に着いたのが8
月15日のちょうどお昼で、荷物はそのままで終戦の詔勅に聴き入りました。

疎開荷を 降ろさず帰る涙汗

***************ここまで**************

引用元  「昭和万葉俳句前集」 (高木 二郎発行」

私は小学校時代父が製鉄所に勤めていましたので、八幡市に住んで
おりました、その頃は八幡市は多くの煙突が立ち製鉄所は活気に満ち
 
て居ました、企業祭の祭りは大変盛大で思い出は未だ残って降ります、
前になりますが、兄弟で尋ねましたが、当時の姿は全然在りませんで
した。世の中の変わりを嫌とゆうほどかんじました。

2012年1月16日月曜日

終戦物語

終戦事 寿命平均 男24女性38悲しい事実  作 長谷
 

昭和20年の平均寿命男性23、90歳 女性37,50歳という数字は、
戦場で、空襲で又乏しい食料、医薬の中で死んでいった若者ゃ幼い命
の故の数字である、今日の繁栄のもとに、どれだけほど多くの犠牲が
あったか、戦後60数年を過ぎて知る人も少なくなった。
極寒のシベリヤで、熱帯の密林で尊い命を落とした人が、現在の我々
の暮らしを見たら極楽浄土に見えるだろう。いじめや自殺が話題となっ
ている今、戦争を知っている高齢者はもっと若者や子供達に昔の話し
をしてやるべきではなかろうか

引用元  「えびの市 史談会第41号」 (山下常昌戦争という疫病手記より)

私の友人 鹿児島出身 u君 私復員後安否を役場に問い合わせました
何と8月20日戦死との返信を受け人の運命の儚さを心に刻みました。
20歳 同じ歳でした、後日姉様が生存と聴きお伺いしました、其の子供
さんが、戦死した彼とにているのに衝撃を受けました、もう長い年月が流れました

***********ここまで*************

2012年1月15日日曜日

えびの市高齢者合同運動会にて、開会の挨拶しました、初めてでしたが
慌てる事も無くできましたので、安心しました、元気な時の忘れられない
出来事になりました。


2012年1月14日土曜日

吉都線100年記念事業

平成24年吉都線創業100年をむかえます。その間、世の中色々なことがありましたが、私はこの駅から満州にわたりました。

2012年1月13日金曜日

鹿児島錦江湾にて゜「潜水艦はやしお」館内見学


  まるで、宇宙船に乗る様な必死で小さい縄梯子を一段一段
  上りました、やっと乗組員の手を掴み這って開いていた、丸い
 
  穴に潜りました、回りを見回す余裕は在りませんでした。
  見学が終わり艦上から別れの手をふる艦長一同

引用元  平成17年えびの市高齢者中央クラブ潜水艦研修より
         長 谷 敏 通  87歳





 

2012年1月8日日曜日

終戦物語

広島県  松山 菊子

終戦の日私我は、新京特別市全安区に住み、看護婦だった。家族と正座して玉音放送を聴いていた。窓邊には満人の群衆が覗きこんででいる。隣保班よりの連絡で、暴動の起こりしをしり、冷飯を結び、弾丸飛ぶ中を防空壕に避難した。近所の満人達は、日本人がいることを黙視してくれたので、生命の危険から逃れる事ができた。三日後に暴動はおさまり、行動を開始、住み慣れた家を後にし、一年後に引き上げた。

翻る異国の旗や終戦日

***********ここまで*******

引用元  「昭和万葉俳句前書集』  【高木 二朗発行】

私は終戦1月前まで新京特別市千早町の満鉄独身寮大和隊舎に住んで居ましたので、新京『現長春」の事は忘れる事は出来ません、終戦の頃には、北満東寧の密林のなかを終戦も知らずに、初年兵でなにも分からず中
隊から離れまいと必死で歩いていました、21日終戦を知り山中で中隊解散となり、5人の戦友と新京目指して当ても無く彷徨っていました、
突然ソ連兵の自働小銃に包囲され思いもしない最悪の捕虜となり3年の
抑留を経験しました。 23年舞鶴に復員しました。 長谷敏通 87歳

2012年1月6日金曜日

始めての健康検査日

今年になって今日は健康診断の日、今年は有難い事に体
調は良く多くの人達の支えで、何と87歳を迎え感謝するばかし、
掛かり付けの寺田浩和先生「えびの市共立病院」の診断を受け
ました、有難い事に異常なしとの事゛で嬉しい気持でした、又
少しうてるパソコンに付いても色々と有難いご指導を頂き大変
元気をもらいました、年の初めに良い事があり健康保持に勤め
何か少しでも世の中に為になる事をできる様に心ます、有り難う
ございました。

年始めの月一度の検査日

新しい年を迎えいつの間にか87歳、自分でも信じ慣れない歳になりいろんな人様に助けられ今在る事に感謝するのみ、今日は初めての検査日、年末から体調は良く、元旦も天候に恵まれ、昨年は暮れから大雪大変な正月だった事を思い出します、

2012年1月1日日曜日

終戦物語

新しい年になりました、又年寄りになりましたが気持を新たに挑戦して行く考えです
いろいろと思って居ることを書きこんでみたい気持です。

2011年の12月に嬉しい事がありました、全国誌 【百歳万歳】12月号 趣味の教室
で初めて優秀作 10点に選ばれました、自分でも凄い事だと喜んでおります。

風吹けば気ままにまわる風ぐるま雲か風かに我もなりたし

選者 久保田 登先生の評

風ぐるまは、別にきままに回っている訳ではないが、そう思えるところに作者の心が表われている、要するに雲や風になって、気ままに生きたいのだ。何のしがらみもなしに。  先生が人の気持を読みとられる凄さに驚きました。有り難うございました。