2012年6月16日土曜日

満州での少年少女の終戦

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「生きてる」 続き

早春の片道キップ
昭和20年4月16歳で渡満、私達156名は輸送船で下関港から釜山港へ、釜山駅から朝鮮を縦断し、満州は牡丹江駅を経て国境の町東寧駅
に着く。広々とした山間の町を進み、さらに東の東寧報国農場の隊舎に
いる。
田畑が広がった先が国境のウスリー川「鳥蛇溝河」で対岸はソ連領、山す
そはポルタフカの町、ソノ奥はソ連の陣地である。川の向うは肉眼でソ連
兵が見えると言う。国境の山野は、春の長雨が明けると猛真夏である。
猛暑で日中は枯れ葉のようになる中、毎日毎日徹夜で国境陣地に或る
大砲弾薬の撤収作業が行われていた。国境第二陣地へ移送するという
「実は南方方面に行ったらしい」ソ連領の陣地は、夜の信号弾の打ちあ
げが多い、赤、青、黄色、赤色が多い直前の夜は要注意である


8月9日早朝非常呼集がかり、国境線方面戦争状態に入ったと知らされ
る。夜明けと共にポルタフカ山頂陣地より砲撃が始まった。頭上ヲシユルシユルと通り過ぎる弾弾は後方の陣地で炸裂し、監視所の緑の山は見
る間に砲撃によって木木は飛び去り茶色のハゲ山となる。病弱者は東寧
駅で後命を待てとの達しで、伊藤隊長が引率し私は隊長付きとして病弱
者16名とともにトラックに乗りこみ、農場から東寧駅に移動する。
ここまで 2号とします、続きます。

*************2 号************
引用元「えびの市史談史45号」《長崎と満州の終戦大牟田一成手記》


終戦物語

満州少年少女の終戦

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「生きてる」 続き

2012年6月14日木曜日

長崎と満州での終戦

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生きている   志波 裕和

氏は昭和19念年3月真幸小学校高等科2年卒業。同年4月第11回生として宮崎県立茶臼原農民道場に入り、修練課程の一年に進級した昭和20年4月、農業報国連盟が8け月間、各県からの総計156 名を農林省直轄の満州牡丹江省東寧街東泳東寧報国農場に派遣する。
宮崎県から西諸、倉岡、高千穂、より各2名の計6名が選ばれて渡満する。11月末に研修を終えて帰国予定であった。

2012年6月10日日曜日

終戦物語《もっこ》で琲土を出す

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石川県  市波 豊州

私は、終戦を愛知県渥美半島の伊良湖湖岬の近くで迎えました。昭和12年の支那事変と同時に支那に渡り、大東亜戦争の時、青島に集結、南方各地を転戦して8年ぶりに内地の土を踏むことができ、

米軍の進攻に対処すべく濠堀の隊長として、兵隊は昼夜交代で堀り、現地の乙女達に《もっこ》で排土を運び出して貰いました。松林の中に掘立小屋を造り、そこで日夜穴堀に選念中、終戦を迎えました。

乙女等の 担ぐモッコや汗の顔

愛知県   鳥居 秋彦

その日私は、豊橋市末広町にいた。米軍機に我が家も、そして周辺の民家焼失、私は逃げる時に左足を骨折、バラック小屋で終日ぼんやりしていた。戦争に負けた事より、多数の友が犬死にをした、それがただ無念だ

夏悲し 老女が歌う子守歌

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引用元  「昭和万葉俳句前書集」 《高木 二郎発行》

2012年6月8日金曜日

終戦物語神宮の森煙が汚す

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東京都   阿部 寒林

宇治山田市、憲兵分隊勤務、憲兵兵長。玉音放送は此の庭で聴いた。この
あとすぐに数千冊の押収書籍や需要書類など焼却した。今日まで印深かったのは外宮の一隅に分隊があつたので、神宮の森が煙が汚し続けて、あたかも敗戦の象徴だったこしである。

この日より崩るる神話国旗焼く


富山県  村松 亮

三重県鈴鹿石薬師の丘、本土決戦防備に編成され我ら東海555部隊、航空気象幹部候生教育隊は、連日b29の都市空襲とグラマン機の襲撃にさらされ、隊は山中に分散、防空壕兵舎で本来の任務で或る特攻基地への気象観測データの通報ゃ、無線聴衆と傍受によるアメリカ軍の暗号解読、

南太平洋各地の気象及び航空作戦に必要な情報等、出撃地へのデータ送信を炎天下の状況において行っていた、日本の灰色の状況も事前に察知、8月15日の陛下の詔勅も、放送10分前、小隊毎に集合、無線機より生の放送を聴かされ終戦となった。眼下に伊勢志摩の海を望み、右に鈴鹿連山山系を仰ぐ小高い山の中であった。

夏燃えて 国静まりし伊勢の海

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引用元   「昭和万葉俳句前書集」  《高木 二郎発行》

終戦は日本全国いろんなとこで様々な事が少しの言葉で表現されております、貴重な生の体験です、私もシベリヤの山中で終戦をしりまたが、
終戦の苦しみを後迄伝え残して置く事の気持で貴重な手記の引用さして
戴いております、


2012年6月6日水曜日

シペリヤ抑留中の歌襲

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大阪府  北村 清一

「友の衰弱死」


我が意志も声も体も草木と枯れて消え行くシベリヤの友

「死刑されるか」

重責に深夜の穴へ右左火をふく銃で止まれと声が

「友の死」

海征かば山征かばともシベリヤは消え行く友の声ぞ無情な

「左手骨折夜間指揮官として」

死ぬか十人はたまた我がヤレと令「グチツ」と我が手折れて受け止む

「遅配のバンを待つ」

凍る夜の深夜の二時になほ

待ちてパンを引くソリにのど鳴らしつつ

「度たび春は来れど帰国出来ない」

身は凍る夜の作業も四ツ年せお亦来る春に枯る、想いは

「四ケ年シベリヤで冬季夜間作業の指揮官として太陽を見ずに一年の内七ケ月を過ごす」

傷付けず祖国に帰す重き任務は凍りつつ夜の指揮する

*************ここまで続く************

引用元  「シベリヤ抑留体験記永恨の爪跡」 《城田 敬助発行》





2012年6月4日月曜日

終戦物語竹槍をなでた

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大阪府  松原みつえ

昼夜を分かたぬ艦載機の空襲に戦争の緊迫感をい抱ていた時、玉音放送が行われるという報せ雅あった。結局放送は聞こえずデマが飛んだ。
敵が上陸してきたら2.3.人は**して死のうと、竹槍をなでた。夜半に敗戦を知ったその時の虚しさ********.台湾総督警察官妻。

同胞は水漬く屍 冷酒呑む

奈良県  北原 菊太郎

当時、台湾府東郡警察の警務係であつた。生きて再び日本に帰る可能性は全く無く、今日あって明日は無い不安の連続で、或者は収監去れ、或者は所在不明になった。50余名の職員中、最後まで残つた者は2名となった。だが私こは生きのびた。

うらぼんゃ明日なき命欲もなし

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引用元  「昭和万葉俳句前書襲」 【高木 二郎発】

2012年6月2日土曜日

シベリヤ抑留中の歌集

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大阪府  北村 精一

大君の国を守れと盾となる心ぞ知るや国の神々

かへらじとかねて定めし我今断腸の身はとらわれし

湧き出ずる胸の血潮も本懐も氷りつけるかシベリヤの月

ひもじさは口迄行って目がさめる大ボタモチのシベリヤの夜

一人出て深夜の空に耐え偲ぶ北斗七星瞼に光りて

**************ここまで************

引用元 「シベリヤ抑留体験記」 【城田 敬助 発行】