2012年4月24日火曜日

長崎の原爆 続き

宮崎県   横手 貞夫

気車が尾駅から浦上の方までいかれず、夕方なになつて、道の尾駅で折り返しで大村海軍病院に負傷者を運ぶということで、それそれ手分けして負傷者を担架に乗せて運ぶ事でした。同じ職場の18,9歳の挺身隊の姉さんや報国隊の女性の人達が、上着も焼きただれ、身もはだけ血みどりになっていました。

歩ける人は両方から肩を差し入れて体をささえ、励まし合いつつ、寮から道の駅に止めてある貸車に、乗せては引き帰し何回往復した事か無我夢中でした。歩ける人は歩いて行く様にとの指示で、道路いっぱいあふれる程に、ゾロゾロと時津の病院を目指して歩いていきました。山村君もその列にくわわり、付いてゆきました。あれが、彼との一生の別れになってしまいました。西の長崎市内の上空は一晩中夕焼けの様うに焼けていました

明けて10日朝、連絡用務の為大橋工場に行かれる舎監の中原先生に従い寮を出發しました。道の尾から大橋の途中の家は、殆ど倒壊し燃えて煙りがくすぶり、道留わきには所どころ死体が転がって異臭を放ち、
眼をむき出してこちらを見ている様でゾッとしました。
ここまで。  続きます

引用元  「えびの市史談会45号」 【長崎の原爆 大牟田一成編集】


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