2012年4月23日月曜日

長崎の原爆 続き


宮崎県  横手 貞夫


ビカッ白い稲妻のような閃光と、ゴオーツと言う轟音と熱風にふきとばされて、窓際に天井板と壁板などに押さえ付けられ、二つ折りに押し曲げ羅れていました。突然の出来事に爆弾を受けたのだなあと直感、もう是で吹き上げられるのかと思い、じっとしていました。寮の裏手の小高いところにあ
る農家の茅葺き屋根が燃えあがったらしく、パチパチターンと打ち上げられる音なハツと我に返り、やっと板片をはねのけ、「待避 待避」と叫びながら
寮生をつり出して待避させました

外は真昼間なのに空は夕方のように薄暗くなり、煙の様なものが立ちこめ、
小雨が降りだし、西の長崎市内の空は真っ赤に夕焼けの様に焼けて、天地の変動が起きたのでないかと主はセル様になってきました。一年生が
顔ゃ上半身が血だらけに成っていました、本人はどうしてなのか分からないといいましす。寮母さんか治療されて、真夏の暑さに上半身裸で、ガラス窓際に寝ていたために、爆風で割れたガラス片が突き刺さったのだと
分かりました、
一時間くらいして同じ小隊の山村君が、ズボンはボロボロに焼け破れ、
上半身はお化けみたいに焼けただれて帰つて来ました。本人に「どうしてそんなになつたかのか」聴きますが分かりません都返事するだけです。
寮母さんは種油を一斗缶毎毎出して来られ、山村君を芝生に寝がせました。山村君は時折ビクッと体を動かしておりました。寮生の看護にかけまはってい.トチリジリに髪が焼けて顔が比気っている人や、上着はボロボロになり体がはだけて血どりになり足を引きずりながら、負傷者が次ぎつぎに道の尾寮に来るでは有りませんか。寮母さんの指示で有るだけの敷布をだして負傷者を寝かせ、負傷者の介護におはれました。道の尾寮は一時臨時病院となりました。「水をくれ 水」といってる人「いたい いたい」とうめいている人。まるで地獄繪そのものでした。

この後は未だ続きます****************

引用元   「えびの史談会発行第45号」【大牟田一成編集長崎原爆】




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