昭和20年八月九日午前零時。ソ連軍は東部ソ連国境から牡丹江、吉林を
目指して60万、黒竜江からハルピンへ30万、モンゴルから60万と、ソ連軍は北と東西の三方面から満州に侵攻してきた。午前1時には東寧、綏芬河正面のソ連軍が牡丹江市街を爆撃、三〇分後には首都新京「現長春」
郊外にも爆撃機が飛来する。
ソ連軍兵力は157万人余り、大砲などの重火器2、6万門、戦車などの自走砲5500台、飛行機3400機の強大な軍事力で電撃的に攻撃してきた。
対する関東軍は約70万、戦車200両、飛行機200機であった。関東軍の
兵員の2倍、戦車は27倍、飛行機は17倍であった。国境付近の我が軍
の陣地は次次にと全滅していった。虎頭や孫呉、ハイラルなど堅固な陣
地での抵抗ゃ牡丹江手前の我が第5軍は肉薄攻撃や切り込みを行い
奮戦したがソ連軍は満州になだれ込んできている。
引用元「えびの市史談会45号」「長崎と満州での終戦大牟田一成手記」
私の中隊も東寧の老黒山頂に陣地を構えておりました、突然のソ連軍の
侵攻でした、前線の部隊本部の戦闘を花火の様に見ておりましたが、夜があけますと戦闘は終わり本部との連絡なく強大な機械化部隊の力には
善戦せしも力尽きたと思もわれました。、我中隊は老黒山の頂より下の道路を進撃する見たこともない砲身を突きだす大型戦車、タイヤが6輪の車
小型車 その凄さにただ驚く化かしでした。
命令は後方に転進でした、10日ぐらいの山の中の徘徊でした、ついていかねば死あるのみでした、その間の事は残念ですが記憶がありません、
兵隊になったばかし、銃も剣もない裸の兵でした。もし銃があれば野たれ
死だったでしよう、抑留3年の苦しみも若さのみの体力だったと今思います
87歳 長 谷 敏 通 誤字はお許しください・
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