2011年9月29日木曜日

終戦物語 日本は本当に負けたのか

**************ここから***************

樺太  北海道    篠原 照子

終戦の御詔勅は、樺太豊原市の樺太師範学校の事務室でいただきました。「日本は本当に負けのか」と何度考えても嘘の様な気がしました。涙を拭かれた校長先生が「女子生徒を早く親元へ帰る様に」と先生方が指示されたので、私もきぅに母が恋しく、別れ住む母の心痛を思い、涙があふれたのを、昨日の事のように思い起こしております。23歳の生まれ月でした。


国負けて 俄かに恋し老い母

樺太  青森県  境  絹

夫は小学校教員であった。私達一家は当日を樺太上敷き香町において迎えた、ここは駐屯地で有ったが、終戦に先達将校の家族の家族等はいち早く内地へ引き揚げて、官舎は藻抜けの殻であつた。よく聴きとれぬ玉音に耳を澄ませた日より、州万の民は島上に孤立した。

身にぞ沁む 玉音をとこ泣きんをんをんな く


樺太  東京都  関口 波香

ソ連孫戦と同時に樺太真岡の魚港にソ連の軍艦が入港、艦砲射撃がはじまった、引揚船を待っていた私達はほとんど撃たれた、敗戦当時から無法なソ連兵と一部日本兵で三日間市街戦が続いた
。私も妹を背負い、弾を縫ってかろうじて裏山に逃れた。電話交嬢九人はこの時自殺した。

夏草や 乙女の死体 抱きけり

******************ここまで**************

引用元   「昭和万葉俳句前書集」   【高木 二朗発行】

2011年9月26日月曜日

終戦物語 嗚呼日赤看護婦班

ビルマ   宮城県   平  赤絵

昭和二十年四月二十二日、トング-「ビルマ」の町空襲爆撃を受け焼野原と化す。翌二十三日早朝、敵機甲部隊突入してついに退路たたるに、嗚呼日赤看護班、炎下死の町へ疾駆、これより山中を迂回する事一ケ月余、マラリア、アメ-バ赤痢に罹り倒れし者、疲労困 の果てに自決するものありーて合掌。八月十六日に至り日本は無条件降服せりと聞く。

おののきを隠す蚊 遺火焚きいたり


ビルマ   岩手県  小山田 花水

第二十四兵站病院はビルマ国において、インパール作戦に参加、後送患者の治療輸送に従軍、戦勢不利、北方より中部に転戦中、当日敵機飛来、ビラを撒く、土民これを部隊に届く、日本語で「日本軍降伏す」と記す。病院付軍医大尉。

終戦のビラは 日本語風死せり

ビルマ  宮城県  関根 龍火

一兵士として、仏印「ベトナム」にありて、連合軍の上陸に備え、陣地構築等に従事していたが、大本営発表と現地人の噂には大変な違いがあり、真相を知らず憂慮していたが、現地人の噂が正しく、終戦の報に愕然とした。 

終戦の報に 虚脱のゴム林


****************ここまで*************

引用元  「昭和万葉俳句前書集」  【高木 二朗発行】

2011年9月25日日曜日

終戦物語 日本に帰った喜び

***************ここから***************

関東州   大連市   岡山県 久保田 智子

大連で女学校四年の時終戦を迎え、ソ連兵、八路軍に脅かされ、三か月半天井裏で生活しました、二十二年二月引き揚げ、佐世保に上陸、日の丸を見て、日本に帰った喜びに泣きました。船では水葬に遭遇し、あの時の汽笛は今も耳にのこります。

如月の海に葬【はぶ 】りの汽笛鳴る


大連市   埼玉県 小林 律子

終戦当時大連市聖徳街に母と子「1歳」と3人でした、その後、九死に一生の夫を交え、引き揚げまでの生活をおくる。昭和二十二年引き揚げの番がきて、祖国の土を踏む。満人の暴動。ソ連兵の略奪怖ろしい日が続きました。

泣くことも 笑ひも忘れ敗戦日


シンガポール 埼玉県  斉藤 佐

星港「昭南」に転戦のため、ピリトン島マンゲル港に上陸し、八月十六日出港、。終戦の報に接したのは、マラッカ海上、銃の菊紋章を削り、弾薬を海に投下し、バンガ島ムントへ集結。第二十五軍司令部の一兵卒であった。

夏草に 彼の日戦忘れ得ず

*****************ここまで************

引用元  『昭和万葉俳句前書集」  【高木 二朗発行】

2011年9月23日金曜日

終戦物語 足蹴にされた所持品

*****************ここから**************

南支広東省    岡山県   沢坂 実男

終戦時、南支派遣軍第180平坦病院を広東市に開設し、戦傷病兵の診療看護に当たっていた「当時陸軍衛生大尉にて庶務主任」傷病兵を空襲より守る為、昼夜の別なく濠を掘っていた我々は、敗戦と聴き、悲しみと残念さにうちしがれ、じっと蟻をみっめていた。国旗を辱められないため、軍事機密書類と供に夕暮れをまって大珠河岸にて焼き捨てた、武装解除、私物検査、めぼしき物の押収により、足蹴にされた所持品を涙とともに集めた。

リラの道 足蹴の戒衣反転す

****************ここまで************

引用元    「昭和万葉俳句前書集」 【高木 二朗発行】

2011年9月22日木曜日

終戦物語 戦艦大和の撃沈される極秘ニースを知る

 

****************ここから**************

宮崎県    上谷川 敏

終戦。鹿児島県知覧特校基地  昭和19年1月鹿児島45連隊現役兵として入隊、隊は基地の警備の任につく。自分は暗号兵として訓練をうく。戦艦大和撃沈される極秘ニースを事前に知る、何か重苦しい雲漂う。八月15日広場に集まる我々に隊長より敗戦終戦の伝達あり、飛行場には計器をはずされた飛べない飛行機の残骸あるのみ、、飛び去りし特攻機の顔 顔 半信半疑、もとより決戦覚悟、一同悲嘆号泣、為すすべも無し。

数日後宮崎憲兵隊配属、臨時憲兵となる。市内神宮付近と思いますが、日本軍の武器回収が有り、戦車から大小様々、其の膨大な山と積まれた兵器に驚くばかり、其の警備に昼も夜も苦労した事が思い出されます。9月30日頃加久籐栗下に帰る事ができました。近所には大阪の部隊が多数おりました。後で枕崎に上陸した物凄い台風で、水漬りの大きな被害に遭い複旧に1年ぐらいかかりましたが、兵隊さんの手伝が大変たすかりました、過去ふりかえり今妻と無事平和に暮らす事のできる世の中に感謝しています。平成14年。その後 長く苦楽を供にすごされた奥様がお亡くなられました。ご冥福を心からお祈りいたします

引用元  「私の終戦』         (長谷 敏通著書)

2011年9月21日水曜日

終戦物語 青酸かりをわたされる

中部満州  ハルビン  東京都 北村 まさよ

旧満州国 ハルビン市 なんかん 奉天街17号。私達一家五人「主人ー市立病院医師 及び私と幼児三名」はいよいよ玉砕命令を前にして「8月13日ソ連との交戦始まる」 青酸カリを渡された。子供達を風呂に入れたりしていると、間もなく重大放送があるといふので、塹壕を築いた日本軍人達も私の家に入って放送を待っていた、8月15日正午、それまで雑音のみだったラジオから鮮やかにしかも玉音放送が流れて来た、「玉砕命令」とばかしと思って聴いていると

それは終戦の詔勅であった、「忍び難き忍び*******]  皆な泣いた。外地で敗戦国民となった一家の悲劇は其の日から始まった、街にはシベリヤ行き捕虜となる日本兵達が軍衣を焼いてみ去って行き、ソ連兵が暴行をほしいままにしてハルビンは死の街と化した。主人は死亡。翌夏母子四人引き揚げ。

街かどに ひと影絶えてせみしぐれ

2011年9月19日月曜日

終戦物語 密造酎

***************ここから****************

戦争でおらゆる工場が焼き尽され、着る物も日常品もなかったが、大人の大好きな焼酎もなかったのだろう。原料は唐芋だから作り方さえ知っておれば誰でも出来る訳で、密かにあちこちで作られていた。父も好きであったのでつくっていた。焼酎を作る機械、があった。一斗缶の大きさぐらいで丸い物だった、貸借をしており私も自伝車で大河平へ持っていかされた事もあった、

密造者があちこちで摘発されるようになった。私の家にも税務署の調査官が来た。色白で目の鋭い人だった、ツリン「井戸」の所に桶が置いてあった、あれは何につかうのかと聴いたら、飴を作ったところだと答えた、種々調と調べられたが証拠はなく。世間話になった。父が裏山の筍を掘って上げたら喜んで帰った。母が「来た時はおとろしか顔しちよったどん戻っときや仏さんの様な顔じゃったな」と云った。父は其の頃はもう造っていなかったかもしれない。


********************ここまで*****************

引用元   「えびの市史談会えびの33号」  (えびの33号 江藤 則男記事抜粋)


終戦当時の世相をそのまま書いておられます、記事の内容は何処でもあった事なのです、今では
考えもしない事ですが、密造酒造りと 闇米に間しては悲喜交々 終戦当時苦しい時代に過ごされた方にして理解していただく懐かしい語りです。

2011年9月18日日曜日

終戦物語 唐芋

****************ここから**************

唐芋が薩摩にいり飢饉を救つた話があるが、正に戦中、戦後の食料不足を助けた食べ物だった。御飯には小さく切って米半分、唐芋半分だった。学校から帰ると煮てあり、田畑仕事も唐芋だった、正月の餅を搗く時も最後には「カライモべった」を搗いた。私の家ではよく カシダゴをつくつた、コッパ
゜「木葉」切りで五ミリぐらいに切り、筵で干し粉にして団子を作り包丁で切ってたべた。沢山食べると胸やけがした。囲炉裏には誰がが焙っていた。焙つたのが一番おいとかつた。供出等でだした残りの小さなクズは大きな釜で飴を作った。お盆前頃唐芋の草取りに行き、地面が割れて居ると指で大きさを計り大きければ掘って、近くの溝で洗い、生で食べたりした。霜が降り蔓が枯れると唐芋堀の千切り方で手に汁が付き後で黒くなり洗っても簡単に落ちなかつた。今は年に二 三 個も食べない。只。焼酎に化けてみいるので教え等れない。


行商人と興業

農家の人々は町まで買物に行くのは少なく其の代り行商人がいろんな物を売りにきた、小間物、反物、衣類、魚干し物、アイスキャンデー等又桶の修理は一ー二週間どこかに泊まって修理していた。終戦後の頃枕崎辺の女の人達が数人で米と魚と物ぶつ交換した事もあつた。映画、浪曲、劇団等も回つてきた、映画は題名の下に三巻とか五巻と書いてあり多いとよろこんだ。早目に夕食を済ませ誘い合って見にいった。母が銅製で長さ12、3センチ巾2センチ厚さ67ミリで中は空洞で方方が塞がっていて金の鳥が彫刻しているのを畠で拾い持っていた。何だろうと時々人に見せていた、
女の懐剣の鞘ではなかろうかとゆう人もいた、或る時行商人に見せたら「鑑定する人に頼んでやる」と云い持って行った。それきりた゛つた

引用元    「えびの市史談会発行えびの第33号」  (えびの 江藤則男記事抜粋 )


*******************ここまで***************

パラオ島にて 敵に包囲され  岐阜県  永治 革洋

戦時中南洋群島パラオ島の山中の防空壕に隠れ住む。人の気配があれば砲弾で物の形がなくなる間で爆撃があった、突然、8月15日には朝から静かな時が過ぎ、谷川にでて食糧になるものを探したり、捕ったりしていた、ところが正午過ぎ偵察機からビラが撒かれた、拾って兵隊にみせ、半信半偽で敗戦を教えられた。 当時9歳

南洋に砲音尽きて終戦日


**************ここまで****************

引用元    「昭和万葉俳句前書集」  (高木 二朗発行)

2011年9月15日木曜日

終戦物語 基地の乙女が振る白いハンカチ

****************ここから**************
鹿児島県特攻基地  千葉県   内藤 秀夫

鹿児島県の特攻基地で飛行機の整備にあたる、九死に一生の生をも許さぬ若き特攻隊は重い爆弾を抱き、日の丸の鉢巻きをきりりと締め、目尻をつり上げ、顔を真赤にして空の一点を睨む。彼らは、基地の乙女が胸を震わせ涙を絶えて振る白いハンカチに送られ、次ぎ次と散って行った。そして8月15日終戦

行く雲に 何と伝えん今日の日を
****************************

鹿児島県山川町  大阪府  水流 保

国民学校二年生。8月12日昼過ぎ山川町成川。米軍焼夷弾にて農家13戸焼失、死傷者数人、母屋丸焼、祖母は孫二人し防空壕で布団をかぶり助かる3日たつた15日焼け落ちた木材がくすぶっていた。村役場が戦争は終わったと告げにくる。

村役の戦争終わり告げに来る

***************************

鹿児島県菱刈町  鹿児島市  有馬  愛

伊佐郡菱刈町前日にて敗戦を聴く。昭和20年3月中旬、次男は海軍兵学校入学の為、故郷山川町
出發、3月29日、米軍の山川港空襲によって、夫は戦災死。疎開先の前日にて、6人の子供を育て、生きる。

***************************

宮崎県      埼玉県   野別 忠孝

当時小学3年生。九州日向の片田舎に兄の戦死がもたされる。兄を戦場に送る時に振った日の丸の旗が鮮やかによみがえってきた。「しばらくは国旗を掲げる事もできないだろう」幼い胸がそう叫んでいた。もう優しかった兄はかえらない。暫くして母に連れられて行った野原に炸裂した跡があり、
その真新しい土の裂け目に一本の野すみれがなぜか季節はずれに咲いていた。小さい胸に悲しみが突き上げて来た。

草野裂く 爆弾跡湖に 夏すみれ

****************ここまで****************

引用元   「昭和万葉俳句前書集」  (高木 二朗発行)


終戦前後の各地の悲しい出来事がありのまま伝えられております、其のひと言に苦しみに絶えながら多くの人達がたえしのんで来ました、其の事を書き込む私も胸が詰まりそうです、真実を伝え戦争に対して憎しみと平和のありがたさを感謝しましょう

2011年9月13日火曜日

終戦物語 終戦を空から知る

*****************ここから****************

ハルマヘラ島     兵庫県 今井 忠夫


当時南方ハルマヘラ島にいた。私達は前戦の補給基地の司令部要員として、同島に昭和18年着任したが、戦況不利となり、20年には混成旅団に編成替え、私は副官をしていたが、終戦を空から敵機にしらされ、血の気が引く思いがした。

ジャングルに 非常呼集や終戦日 


スマトラ島      広島県  吉岡美俊

スマトラ島、海軍通信隊の通信兵下士官として、対敵通信傍受。職務柄、終戦「敗戦」はおぼろげながら予感できた、しかし、詔勅をいただいた時は呆然自失、瞬時滂沱たるものがあった。落ち着いて自分を取り戻し、生きのこった我々の使命感を考えるようになったのは数日後だった

あかり消え トッケイの声 澄みにけり


比島マウンテン州  岡山県 池川福市

比島マウンテン州イフガヤ郡キヤンガン北部山岳地帯「標高15メートル前後」現地召集の輸送隊「軍人」。後句日終戦が遅れていたならば、全く生還は出来なかったと思う、それほど食料は不足していた。イゴロット族の居住する山岳地帯で、僅かな平地を開いて、甘藷を作って細ほそと生活していた、そこえ多くの日本人が入ってきたのだから、見る間に食べる物は底をついて、毎日甘藷探しに苦労した。まるでダイャモンドを掘り当てるような状況であった。人々は次々と戦死。病死で倒れていつた。毎日爆撃があった。

終戦と 言うのに 又墓穴掘る


****************ここまで**************

引用元   「昭和万葉俳句前書集」   (高木 二朗発行)

2011年9月11日日曜日

終戦物語 少年少女達の終戦

***************ここから***************
満州「満州国・中国の東北部」には、昭和20(1945)年8月当時、日本の民間人は一般、開拓団含めておよそ155万が住み、うち農業開拓係者(満州開拓団、満州少年義勇軍、報国農場隊、勤労奉仕隊) などの総人数は約27万人であり,一般の128万が南満州鉄道「満鉄」、満州拓殖公社「満拓」、満州国政府の関係者ゃ商工業従事者などの人達であった・

敗戦による一般の死者は9万6、000人、開拓関係者の死者は約8万人で、一般、開拓団併せて17万6,000人であつた、開拓団員、家族の死亡率は30%近く、約3人に1人が死亡し、開拓団の犠牲者は全体の50%近くを占めている、関東軍70万の死亡率は9%、一般民間人は7,5%であった。
*************************

ソ連軍の参戦 
ソ連 日ソ中立条約の不延長の通告と宣戦布告

昭和16「1941」年4月13日、松岡洋右外相はモスクワで日ソ中立条約に調印。昭和20年「1945」4月5日、ソ連は日ソ中立条約を延長しないと伝え、未だ日ソ中立の期限内にかかわらず、同年8月8日午後6時、ソ連のモロトフ外相は佐藤尚武駐ソ大使に対して、に日本へ宣戦布告を通告した。宣戦布告は日本に打電されたが、其の電文は届かなかったと言われる。

*************ここまで*************

引用元 「えびの市史談会第45号創立40周年記念号」(記事抜粋大牟田一成著)

2011年9月9日金曜日

終戦物語 村の婦女子は山奥に

***************ここか*************
高知      上本 正夫

安芸兵団の召集兵としてね高知県太平洋岸の前浜村に、迫撃砲要員200名と共に穴居し、米軍の上陸作戦に備え、玉砕戦闘体制中に八月15日を詔勅により迎えう。陛下のお声は雑音にて不明,一億玉砕の至上のみことのりとし拝し兵等等しくまなじりを決する、午後一時近く、無電にて終戦を知るその後の混乱は、安芸15005部隊長命令が下る間で続く


村の婦女子は山奥ににげろ ー、部隊の血気にはやる一団は、抗戦して全滅しょうー、軍旗は焼くな、様々のみにくい情報がみだれとび、続出する自決者に釈然とする。夜に入り、迫撃砲を大平洋に向けて発射する。40発

砲放ち 狂うねがう 敗戦日  



兵庫県     大阪府   橋本 和子

兵庫県  揖保郡龍野町、兵庫県立龍野高等女学校、3年生の教室を工場にして、各自の机に万力を取り付け、ヤスリ持つ手を豆だらけにして、銃剣づくりに汗みどろでした。鍔を付ければ仕上げといぅ日に敗戦を迎えました。終戦当日12時講堂に集合した学徒は、玉音放送にて敗戦を知らされました、

工場指導員の方が、目を真赤に泣きはらし、ぼろぼろ涙を流し、出来あがらんとした銃剣を一人一人に下げ渡し、進駐軍が上陸してきてはずかし  めを受ける前に、自分で作った剣で相果て、操を守るようにいわれました。極度の緊張が脳裏を走り、悲壮な決意で下校した20年8月15日を昨日のようにはっきり覚えております。此の日を最後に出征した2人の兄は、南方方面ということだけで、いつどこで戦死したかわからないまま、現在に至っております

操守れと 汗の銃剣渡される


****************ここまで**************

引用元    「昭和万葉俳句前書集」    (高木 二朗発行 )


思っていなかった終戦最後まで、神国の勝利を信じていたのですが、時代は変わりましたが60数年前の出来ごとです、多くの人達が終戦後苦しみに耐えながら祖国の復興に尽くされた人達に感謝を忘れず語り継ぎたいと思います。

2011年9月8日木曜日

終戦物語 障子や畳まで持ちさられ

**************ここから**************

大阪府     富樫 紀始子

私は奉天の姉の婚家に同居していました、「関西の灘にあった家が戦災に遭遇し」。当日城内に住む満人の娘が結婚するので介添人になることを頼まれて、打ち合わせに出けました・城内で洋車でおりた時、ちょうど何処からか大声でラジオの雑音が多い異様な音声を耳にして、立ち止まり聞きました。初めて聴く天皇のお声でしたが、敗戦だと直感、近くまで来ていたのですが、乗って来た洋車に再び乗って日本人街にかえってきました。訪問予定の家に違約の詫びの電話をかけましたが、もう知れ渡っていて、日本人から電話がかかると迷惑するので、もう駆けないでくれと言われました。

先発のソ連兵が入って来て女を見ると、ダバイし始めました。夜にいると、満人の暴動があり、軍隊が其の日まで守っていた衣料、食料を我かちに老人、子供までが持ち去り、無人や女子供だけの家も狙われ障子、や畳まで持ち去られ、骨組、壁だけがのこりました。

夜に入り 暴動蜂起す 敗戦日



群馬県      松島 康子

忘れられない終戦日、主人現地応召、奉天小西区、関東軍指定皮革工場の我が家は、一瞬に谷間に落ちた、一児を抱き、日本人の妻たる信条を胸に、故国の土を踏む日をまった。

背の子へ 夏の広野の童唄

*************ここまで**************

引用元   「昭和万葉俳句前書集」    (高木 二朗発行 )

2011年9月7日水曜日

戦争中の米をつくる仕事家でたへる
米さえ供出して、戦争の為協力しました。




終戦物語 恨みに報いるに

*************ここから************

中支江蘇省    兵庫県   本多 欽一

ソ連の参戦により上海から満州へ転進途中、北上寸前に南京で終戦となる。蒋総統の「恨みにむくいるに恨みを以てせず」の寛大な計らいもあり、武装の自主解除。収容所の自力管理など、秩序ある終戦処理がでた外地戦線であった。 感謝・

出番なく 炎天に焼く乱数表






高知県    沢村 良高

当時私は上海郊外浦東の野戦病院の軍医見習士官として勤務していた、病棟は粗末な平屋立てで
。別棟には建物の管理人である中国人である老夫婦が住んでいた、彼等は我われを「先生(シーサ
ン)と呼ンだ、ある日の夕方、爆竹が方ほうでなり、その老人が「私達と日本人とは友達になった」となった言って来た、空には銀河が流れていた、複雑な気持出あった、其の翌日、病院長から終戦のことをしらされた。


爆竹の悲し 銀漢 また悲し

東京都    菊池 留雄

五、 六日前から中支鉄道の爆破が、全く発生しなくなった、さて不思議なこともあるものだと、心ひそかに懸念していた、8月15日に落雷のように、上海鉄道司令部へ敗戦のし知らせが飛びこんできた
。上海は灼けつく様な真夏の昼下がりであった。陸軍大尉として感知したことは、支那民衆の姿は、平常と変わりなく、朝鮮民衆のみがいやに、凱歌を鼓舞しているかの様であった。

ああ千鈞のおもさ 水が灼けてくる

2011年9月6日火曜日

終戦物語 軍歌 

**************ここから**************
同期の桜           
1   貴様と俺とは同期の桜 同じ兵学校の庭に咲く


咲いた花なら散るのは覚悟 みごと散りましょ国のため


2   貴様と俺とは同期の桜    同じ兵学校の庭に咲く


血肉分けたる仲ではないが なぜか気が合ぅて別れられぬ

3   貴様と俺とは同期の桜    同じ航空隊の庭に咲く

仰ぐ夕焼け南の空に     未だ帰らぬ一番機

4   貴様と俺とは同期の桜    離れ離れに散ろうとも

花の都の靖国神社      春の梢に咲いて合おう

引用元****「西条八十原作」    (大村能作曲)


暁に祈る


嗚呼あの顔で あの声で 手柄頼むと妻や子が 
ちぎれる程に 振った旗  遠い雲間に未だ浮かぶ

ああ堂々の 輸送船    さらば祖国ょ栄えあれ
遙かに拝む宮城の     空に誓った此の決意

ああ傷ついた此の馬と   呑まず食わずの日も三日
捧げた生命これまでと   月の光で走り書き


引用元***** 「野村俊夫作詞」   (古関裕思作曲)

******************ここまで***************

2011年9月3日土曜日

終戦物語 高射砲中隊  空襲

************ここから************

宮崎県   「故人」    木崎原 操

この25師団の対空部隊として小林市の南方ひなもり台に高射砲中隊が陣をかまえていた、このような中に在って、昭和20年8月10日、突然米軍のグラマン戦闘機3機が吉都線沿いを都城方面から低空で飛んで来て各駅に機関銃を浴びせた。駅付近にいた人達は、星のマークを付けた戦闘機が機関銃を発射してきたのでビックリして物陰や溝や藪の中に逃げ込んだ。しかし此の空襲で各駅は相当の損害をうけた。

私は8月10日に配給物の傘の材料を受け取るため、時自転車で小林市に出かけていた、小林市街に着くと当時にタンタンと大きな音がした「省略》私も急いで堤傘屋の防空濠に避難させてもらった。用事を済ませて防空濠を出ようとしたところ、こんどは続けて西の方から戦闘機に護衛それた爆撃機の大編隊《約30機」が通過して行った。この時、ビラを上空から撒いたので中学生が拾っていた
。尋ねたところ、小林市も降服しないと徹底的に爆撃する。と書いてあった」

この様に第25師団が転用になっていからは、西諸県郡地方もあわただしくなった。吉都線を走る混合列車の最後部には、無蓋歌貨車を連結し、そこに草木でカムフラージュした92式重機関銃を設置して空襲に備えていた。其の貨車には数人の兵士が乗り込んでいて、敵機が飛来してくればたちまち撃ち落とす態勢を整えていた。8月10日に爆撃機の編隊30機が飛来してきた時、小林市の人達は此の編隊に向かって高射砲隊が射撃するだろうと今か今かとまっていすたが、とうとう射撃しなかったので残念かっていたょうである。是は、この時点で射撃すると小林地区に集結された軍需物資が敵の空襲によって破壊され、小林の街も焼け野原になるということで、師団長命令があるまで禁止されていたということである。尚、此の空襲による被害は次の通りであった。

西小林駅  死者  10人 負傷者 18人  小林駅 会社タンク損害
飯野駅   死者   1人  重傷者 1人   馬死亡1頭
加久藤駅  中学生     重傷者  1人  高原 沿線死者 2人
高崎新田  種駒       1頭   死亡  京町  機関車損害2台



****************ここまで*************


引用元  《えびの市史談会第29号》   《発行人えびの市史談会」 

2011年9月2日金曜日

終戦物語  銃後の守り

**************ここから**************
宮崎県        (故人)       木崎原 操 

昭和12年7月勃発した支那事変は、全面的な対中国戦争へったまま同16年12月8日のハワイ、比島、マレー等の一斉攻撃で大東亜戦争へと突入した。しかしながら、戦局は一時日本軍に有利に進展てたもの、逐次、米軍の物量作戦に押され日に日に険悪な状態に陥っ行った。今回、その大東亜戦争の思い出として終戦間近の昭和19年-20年にかけての郷土における防衛や留守宅の様子を書いてみました。

昭和20年2月、軍部はここに至って、本土決戦の備えを厳重に固めるため、西部軍司令部と第6航空軍「福岡市平尾駐在」に西日本一帯の防衛作戦の任務を与えた。このため、鹿児島県知覧にいた第6航空隊の第41航空隊の松山中佐の指揮する飛行場建設部隊は、昭和19年12月飯野宇畑に特攻基地を建設するために、宮崎県飯野町に移駐し、本部を飯野小学校講堂「旧飯野公民館」においた、此の部隊は吉松から小林の茶屋平付近まで民家に宿泊しながら、同年12月中から飯野町字畑の丘陵地に特攻基地「滑走路の長さ1,200メ-トル  幅60メ-トルの建設を秘密裏に開始した


当時の建設機械はそれほどない時代であつたが、此の作業には機械力としてのブルドーザでグアム島の戦いで捕獲した敵のブルドーザを相模原造兵廠で模造したものが6台、ローラ転圧車8台、キヤリオールの自働削土車4が投入された。又、人力も突貫工事のため多くの人手を要するため、軍隊以外に当時の国民学校高等科生徒「現在の中学生」達や西諸県郡内の各く部落から多くの民間人がが奉仕隊として協力し。モッコゃスコツプ等による作業に静をだした。遠方から来ていた人々は食糧を持参し泊まりがけで決まった日を勤めて作業に当たっていた。此の特攻基地は昭和20年8月の終戦直前に完成して試験飛行がおこなわれたが、本格的運用はないまま終戦となった。「小林競馬跡の特攻基地も当時期に完成している」 

****************つづく*****************
引用元***「えびの第29号」(えびの市史談会発行)

飛行場作りに皆様参加された苦労話は影が薄く成りつつありますが、今語り告がないと夢物語りになってしまいます、銃後の言葉さえ消え去れ様です、もし戦に慣れはもう゛前も後ろない怖ろしい時代になりました、平和えの願い強くすべき時です。

2011年9月1日木曜日

終戦物語  一発の銃声

***************ここから**************
仏印西貢(サイゴン)   東久留米市  五百川 勇

補助軍曹として終戦の詔勅を聴く。戦記を焼き、ほのかな慕情を通わせた安南の娘との別れ,夜ふけて己の身の始末。ヒストルを前にして近くに一發の銃声。戦友某の最後か。

アヲザイ娘 背負いて 泣くや木下闇


ベトナム       茨木県       桧山  芳 

当日現 ベトナムのダナン市郊外にある飛行場の片隅で、通信兵として軍務に服していた。正午にいたり、玉音を傍受せる兵あわただしく入り来り、終戦を告ぐ。一同唖然自失そのなすべき所知らず

敗戦の軍靴が 重し蟻の道


ブ-ゲンビル島にて   神奈川県  山崎 三郎


昭和20年8月15日、私は海軍設営隊員「海軍上技曹」として、ソロモン諸島ブーゲンビル島において、栄養失調症ながら、敵「米濠軍、約20キロ地点」と決戦対峙していた時、終戦になりました。それまでに隊員が934名、飢えとマラニア等で戦没死 しました。

密林にビラが撒かれる 平和の夏


****************ここまで**************

引用元  「昭和万葉俳句前集」    (高木 二朗発行 )


*****************
プ-ゲンビル島での戦いは 武器 食量の補給がなくなり、日本軍は苦しい戦いをされたときかされ
ました、なくなられた多くの方のご冥福をお祈りいたします、私の義兄も機関銃隊の隊長として負傷せし身を返り見ず突撃隊に参加、アメリカ軍の艦砲射撃にジヤングルが禿山に変わり果てたと帰還された戦友が最後の戦の様子を話されたと聞いております、将来を有望された義兄は戦死、陸軍大尉、靖国神社に祭られております。