2011年9月2日金曜日

終戦物語  銃後の守り

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宮崎県        (故人)       木崎原 操 

昭和12年7月勃発した支那事変は、全面的な対中国戦争へったまま同16年12月8日のハワイ、比島、マレー等の一斉攻撃で大東亜戦争へと突入した。しかしながら、戦局は一時日本軍に有利に進展てたもの、逐次、米軍の物量作戦に押され日に日に険悪な状態に陥っ行った。今回、その大東亜戦争の思い出として終戦間近の昭和19年-20年にかけての郷土における防衛や留守宅の様子を書いてみました。

昭和20年2月、軍部はここに至って、本土決戦の備えを厳重に固めるため、西部軍司令部と第6航空軍「福岡市平尾駐在」に西日本一帯の防衛作戦の任務を与えた。このため、鹿児島県知覧にいた第6航空隊の第41航空隊の松山中佐の指揮する飛行場建設部隊は、昭和19年12月飯野宇畑に特攻基地を建設するために、宮崎県飯野町に移駐し、本部を飯野小学校講堂「旧飯野公民館」においた、此の部隊は吉松から小林の茶屋平付近まで民家に宿泊しながら、同年12月中から飯野町字畑の丘陵地に特攻基地「滑走路の長さ1,200メ-トル  幅60メ-トルの建設を秘密裏に開始した


当時の建設機械はそれほどない時代であつたが、此の作業には機械力としてのブルドーザでグアム島の戦いで捕獲した敵のブルドーザを相模原造兵廠で模造したものが6台、ローラ転圧車8台、キヤリオールの自働削土車4が投入された。又、人力も突貫工事のため多くの人手を要するため、軍隊以外に当時の国民学校高等科生徒「現在の中学生」達や西諸県郡内の各く部落から多くの民間人がが奉仕隊として協力し。モッコゃスコツプ等による作業に静をだした。遠方から来ていた人々は食糧を持参し泊まりがけで決まった日を勤めて作業に当たっていた。此の特攻基地は昭和20年8月の終戦直前に完成して試験飛行がおこなわれたが、本格的運用はないまま終戦となった。「小林競馬跡の特攻基地も当時期に完成している」 

****************つづく*****************
引用元***「えびの第29号」(えびの市史談会発行)

飛行場作りに皆様参加された苦労話は影が薄く成りつつありますが、今語り告がないと夢物語りになってしまいます、銃後の言葉さえ消え去れ様です、もし戦に慣れはもう゛前も後ろない怖ろしい時代になりました、平和えの願い強くすべき時です。

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