2012年1月30日月曜日

5,,年ふりに清武の県立大学病院に行きました

身内の者が病で手術をする事になり子供の運転で高速を走り、5年ぶり
病院に行きました、5年前老妻が頸椎の手術した事を思い出す。
改装をしたとは聴いていたが、中に入り何もかも変わっていたのに驚き
ました、いろんな人達が病と戦っている事を見る事が出来まして感動し
した、手術が無事おはり先生の熱心な経過説明を受けました。
有難い世になった事を体験して病院を後にしました。

私は興奮しましたやったーと

日本軍落下傘部隊降下せり。

2012年1月27日金曜日

                   加久藤中学校にて生徒代表に「私の終戦」170部を
       贈呈しました、戦争を知らない生徒達に平和への願
       いをこめまして。
何時も何かについてお世話に成っている史談会 会長「山下常昌様」
より暖かいお言葉をいただきました。有り難うごぞいました・

2012年1月26日木曜日

平成20年8月 250冊自費出版  えびの市市立加久藤中学校先生
、生徒に170冊配付しました。おもに偶然にも手にいりました「昭和万葉俳句前集」 えびの市史談史 依り引用させていただきました。
地区の高齢者54人の方に直接お会いしまして、終戦の時何処で何をし
て其の時の状況など話して頂き私なりに纏めまして記録しました
1号は主に自分達の地区関係を主に纏め、2号は記録を元に終戦前後
の各地の戦歴 、民間人達の記録を主に纏めました。市立図書館にも寄贈
しました。8月には終戦関係の本棚に展示されますので感激しております
、年が流れ後には大変為にりますと館長のお言葉に抑留体験者として無学でしたが苦労した事を忘れました。

2012年1月24日火曜日

私は興奮しましたやったーと

昭和17年2月14日、陸軍落下傘部隊降下、第38師団直ちに同部隊と
共同 同17日バレンバン完全占領。
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写真、記事の引用元 「昭和の軍歴 軍魂」 【ワールドジヤナール政経調査】

国民は此のニーゥスに興奮した事を覚えて降ります。

軍魂 嗚呼我が戦中記と題しまして大変貴重な1300頁又重さも4キロ
からなる「昭和の戦歴」を記録されました本です。中には宮崎県出身の
多くの方々の軍歴が紹介されております、当時としては大変高価な値で
した、私も父の記録が載っていたので苦しい中よりやっとの思いで求めた
本でした、年寄になりましたが今では、我が家の宝物゛です。

終戦物語指揮者の義務

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長崎県    徳富 悦郎 

スマトラ島ランポン州テロクベトンでの南方、スンゲイドァ、サカ地区の密林の中、油田防衛の照空第一分隊長として軍務に付いていた。8月17日の夜半だつた。本部集合の迎えのトラックに打ち乗り、中隊本部に急いだ。
内容は分からない、おそらく前進展開の命令と思い、部下の人々には、完全軍装の準備など怠らないよう指示して行ったものだったが。

本部で聴かされたものは、終戦の大詔が下った要旨だった。一瞬自決を考えた。その時中隊長は、そんな様子を見抜いたか、お前一人の事でない、
陣地に帰って部下の人々に戸惑いないよう説明し、皆な詔どおり全員祖国に帰れる要にするのが指揮者の義務だ、と注意された。帰りの足は重かった。

密林は明けたに兵らは足なえて

引用元 「昭和万葉俳句前書集」  【高木 二郎発行】
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2012年1月21日土曜日

高齢者生き甲斐大会同期の桜熱唱

えびの市中部高齢者生き甲斐大会にて、「本物の海軍航空隊軍服」
マフラー、航空帽、戦闘服、全て当時着用した純制服でした。
S氏が「海軍航空隊勤務」 大事に保管されておられました品
を厚意によりましてお貸し下されました、着用した気持は凄く
緊張身の引き締まる思いでした。
右のT君は戦闘機操縦士、南方にて待機せしも終戦となり復員
「特校隊員」一番で出撃した戦友の遺影は、鹿児島県知覧に展示
されているとの事でした、2人して「同期の桜」を心を込めて歌いま
した、皆様に大変喜ばれきした、戦争で生き残った者として、伝え
残さねばならない気持です。

2012年1月20日金曜日

終戦物語此の地獄

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ボルエオ   青木 正孝

南方最大の海軍燃料補給基地ボルエオのバリクバパン。マツカーサを主体とする連合軍の反撃攻撃により我が基地将兵のほとんどが玉砕寸前、辛うじてジャングルに逃げ込んだか、戦闘と病患、飢餓の此の世の地獄体験。

マングロ-ブ 発狂の戦友全裸踊り

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引用元 「昭和万葉俳句前書集」  (高木 二朗発行)

ボルエオ島 父が召されて軍務に服した忘れる事のない島の名です、
終戦前父は島を離れ内地の呉に入港出来たと少し話しましたが
途中敵潜水艦の魚雷攻撃で船は撃沈され海中での時間の長かった
事を、命を無くした戦友の事をなど少し話してくれましたが、おおくわ
話しません出した、今父亡き後何で戦の話をきかなかったか深く後悔
して残念でたまりません

2012年1月19日木曜日

えびの市上江小学校平和学習

平成22年8月6日、宮崎県えびの市上江小学校にて、平和学習
の時間に「戦争と平和」に付いて話しをさせていただきました。
生徒達は真剣に話し「8月10日西小林での学童の悲劇」が主で
したが、其の子供達の聞き取る姿勢には感謝しました、後日生徒
の上野君が宮日新聞に感想を投稿文を載せて頂き少しでも為に
成ったと大変嬉しく思いました。

終戦物語 東京は焼野原

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静岡県  坂本 五郎

空爆により東京は一面の焼野原。地方重要都市の警備にと、警視庁より岩手県庁所在地盛岡に派遣される。時に終戦一ケ月前。艦載機による空爆の先例を受け始めたのか、終戦を間近にした8月に言ってからの事

敵機目標は盛岡駅。爆弾・機銃掃射攻撃による駅員の負傷。大腿部貫通銃創、腹部貫通の駅員を担送。腹部貫通銃創の駅員は坦送中絶命。大腿部貫通銃創の駅員は、終戦の詔勅の下るその日に大腿部切断という凄惨な結果となる。

血の匂ひ 担架にのこり敗戦日

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引用元  「昭和万葉俳句前書集」 (高木 二郎発行」
終戦前敵機による空襲、低空よりの機銃掃射は全国各地で罪の無い学童、民間人が犠牲になりました。私の故郷でも8月10日突然あらはれた
グラマン3機の無差別機銃掃射で、時間的には数十分の出来事ですが
犠牲者は死者16人、重軽者20数人、全て「民間人」です幼い学童が大部分です。故郷での此の悲惨な出来事を忘れる事無く伝えてゆくのが、
のこされた者の大事な勤めでと思います。

2012年1月18日水曜日

終戦物語

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福岡県  河村 勝子

私は勤務校であった八幡市神原高等国民学校が、その年の8月10日に
昼間の大空襲で校舎が焼失し、米軍の上陸が迫って居るとのことで婦女子は優先的に避難を命ぜられ、郷里の大分県日田市に帰りましたが、ここも危なく、遠縁を頼りずっと田舎にとりあえず着物だけども先に疎開佐せょう
と、姉と二人で家中の者の着物車力に積んで、目的の家に着いたのが8
月15日のちょうどお昼で、荷物はそのままで終戦の詔勅に聴き入りました。

疎開荷を 降ろさず帰る涙汗

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引用元  「昭和万葉俳句前集」 (高木 二郎発行」

私は小学校時代父が製鉄所に勤めていましたので、八幡市に住んで
おりました、その頃は八幡市は多くの煙突が立ち製鉄所は活気に満ち
 
て居ました、企業祭の祭りは大変盛大で思い出は未だ残って降ります、
前になりますが、兄弟で尋ねましたが、当時の姿は全然在りませんで
した。世の中の変わりを嫌とゆうほどかんじました。

2012年1月16日月曜日

終戦物語

終戦事 寿命平均 男24女性38悲しい事実  作 長谷
 

昭和20年の平均寿命男性23、90歳 女性37,50歳という数字は、
戦場で、空襲で又乏しい食料、医薬の中で死んでいった若者ゃ幼い命
の故の数字である、今日の繁栄のもとに、どれだけほど多くの犠牲が
あったか、戦後60数年を過ぎて知る人も少なくなった。
極寒のシベリヤで、熱帯の密林で尊い命を落とした人が、現在の我々
の暮らしを見たら極楽浄土に見えるだろう。いじめや自殺が話題となっ
ている今、戦争を知っている高齢者はもっと若者や子供達に昔の話し
をしてやるべきではなかろうか

引用元  「えびの市 史談会第41号」 (山下常昌戦争という疫病手記より)

私の友人 鹿児島出身 u君 私復員後安否を役場に問い合わせました
何と8月20日戦死との返信を受け人の運命の儚さを心に刻みました。
20歳 同じ歳でした、後日姉様が生存と聴きお伺いしました、其の子供
さんが、戦死した彼とにているのに衝撃を受けました、もう長い年月が流れました

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2012年1月15日日曜日

えびの市高齢者合同運動会にて、開会の挨拶しました、初めてでしたが
慌てる事も無くできましたので、安心しました、元気な時の忘れられない
出来事になりました。


2012年1月14日土曜日

吉都線100年記念事業

平成24年吉都線創業100年をむかえます。その間、世の中色々なことがありましたが、私はこの駅から満州にわたりました。

2012年1月13日金曜日

鹿児島錦江湾にて゜「潜水艦はやしお」館内見学


  まるで、宇宙船に乗る様な必死で小さい縄梯子を一段一段
  上りました、やっと乗組員の手を掴み這って開いていた、丸い
 
  穴に潜りました、回りを見回す余裕は在りませんでした。
  見学が終わり艦上から別れの手をふる艦長一同

引用元  平成17年えびの市高齢者中央クラブ潜水艦研修より
         長 谷 敏 通  87歳





 

2012年1月8日日曜日

終戦物語

広島県  松山 菊子

終戦の日私我は、新京特別市全安区に住み、看護婦だった。家族と正座して玉音放送を聴いていた。窓邊には満人の群衆が覗きこんででいる。隣保班よりの連絡で、暴動の起こりしをしり、冷飯を結び、弾丸飛ぶ中を防空壕に避難した。近所の満人達は、日本人がいることを黙視してくれたので、生命の危険から逃れる事ができた。三日後に暴動はおさまり、行動を開始、住み慣れた家を後にし、一年後に引き上げた。

翻る異国の旗や終戦日

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引用元  「昭和万葉俳句前書集』  【高木 二朗発行】

私は終戦1月前まで新京特別市千早町の満鉄独身寮大和隊舎に住んで居ましたので、新京『現長春」の事は忘れる事は出来ません、終戦の頃には、北満東寧の密林のなかを終戦も知らずに、初年兵でなにも分からず中
隊から離れまいと必死で歩いていました、21日終戦を知り山中で中隊解散となり、5人の戦友と新京目指して当ても無く彷徨っていました、
突然ソ連兵の自働小銃に包囲され思いもしない最悪の捕虜となり3年の
抑留を経験しました。 23年舞鶴に復員しました。 長谷敏通 87歳

2012年1月6日金曜日

始めての健康検査日

今年になって今日は健康診断の日、今年は有難い事に体
調は良く多くの人達の支えで、何と87歳を迎え感謝するばかし、
掛かり付けの寺田浩和先生「えびの市共立病院」の診断を受け
ました、有難い事に異常なしとの事゛で嬉しい気持でした、又
少しうてるパソコンに付いても色々と有難いご指導を頂き大変
元気をもらいました、年の初めに良い事があり健康保持に勤め
何か少しでも世の中に為になる事をできる様に心ます、有り難う
ございました。

年始めの月一度の検査日

新しい年を迎えいつの間にか87歳、自分でも信じ慣れない歳になりいろんな人様に助けられ今在る事に感謝するのみ、今日は初めての検査日、年末から体調は良く、元旦も天候に恵まれ、昨年は暮れから大雪大変な正月だった事を思い出します、

2012年1月1日日曜日

終戦物語

新しい年になりました、又年寄りになりましたが気持を新たに挑戦して行く考えです
いろいろと思って居ることを書きこんでみたい気持です。

2011年の12月に嬉しい事がありました、全国誌 【百歳万歳】12月号 趣味の教室
で初めて優秀作 10点に選ばれました、自分でも凄い事だと喜んでおります。

風吹けば気ままにまわる風ぐるま雲か風かに我もなりたし

選者 久保田 登先生の評

風ぐるまは、別にきままに回っている訳ではないが、そう思えるところに作者の心が表われている、要するに雲や風になって、気ままに生きたいのだ。何のしがらみもなしに。  先生が人の気持を読みとられる凄さに驚きました。有り難うございました。