2011年5月31日火曜日

平成23年5月31日 終戦物語 

 私は終戦前鹿児島県吉松町 現在「湧水町」吉松駅で女性鉄道員として
 働いておりました、吉松駅は当時鉄道の分岐点で大変乗り変えも有り
 重要な交通の駅でした、20歳で鉄道教習所を科目別に2回卒業しました、
 其のころとしては大変な苦労と勉強しました、八代で空襲に合いました、
 この世の最後と思う程の体験をしました、終戦に遭い皆集まって大泣き
 しました、終戦の後広島に行き原爆の跡を身に行きました、一面の焼け
 跡に声も出ない程でした。

2011年5月29日日曜日

23年5月29日 満州にて終戦

終戦を機関区職場で知る。一夜にて外地の悲しさ安住の地を追われ、命の保障も
されない身となる。なにも可も失った日本人だった、集団にて撫順炭坑への移動
が始まりました、反日感情は激しい物があった様てしたが、良き引率者に恵まれ
何とか移動ができました。其の道中は女性は髪を切り苦難の旅でした、奥地に
新天地に夢見ていた開拓団の方達の引揚は生き地獄で様相は一生目の裏に
焼ついています、自害したのか、又殺されたのか、壕の中の死骸に手を合わせ
る余裕も無くただ生きるのみの毎日でした、夫は炭坑の使役に行き、私は朝鮮
部落より万十を仕入れ売り歩く毎日でした、其の年を何とか越す事が出来ました
が、もし引き揚がのびれば命は無かったでしょう、コロ島より舞鶴港に引揚る事ができ
ました、引揚後の苦労は色々ありましたが、みなさんに助けられて今が有る事を
感謝しております

2011年5月27日金曜日

23年5月27日 雨 女子青年団

水無口の田圃て銃撃を受けた、学校が被害にあつた・加久藤神社で女ばかり青年団
の訓練に度たび参加していました。電灯は黒い布をかけて夜を過ごした。ラジオで
終戦をキイタ、カボチヤ カライモ などがよかもんでありました。農林18号を植えて
いたが茎ばかし長く実は無かった、モンペは買える様になったが長くはもてなかった。
ミツゲンがはやり、甘さに飢えていたので何んにでも入れて使うものだった、パーマ
とゆう髪結がはやり髪に巻くカラークリップの中に焼いた炭を入れていた様だった、今
思うと余りにも世が変わりとまどいを思います
今日は中国からの留学生 えびの日章学園卒業して宮崎大学に合格し勉学にはげ
んでいる長春からの学生が新任の先生と遊びにきてくれた。 ほんとに我が孫の様
で嬉しい気持になる、えびのに在学中度々家に来てくれていたのでお互いに再会を
喜び合いました、彼女は首席で卒業した賢い子だった、宮崎は良いとこと明るい顔
で話していた夏休は長春に帰りますとの事お互いの健康を願い再会を約束する

2011年5月26日木曜日

渡満して初めての経験 馬車に乗る

満州国 新京 「現在長春」
私が現役20歳 入隊するまで過ごした新京の様子がテレビで放映されましたので
カメラに撮りました、馬車です 私が一人やつと新京駅に長い一人旅で駅に降り立ち
本田様が ゜ 「お世話に成りました方です」紙に長谷君と大書した用紙を高く持ち
迎えてくれました不安と心配 遠い異国での初めて踏み閉めた新京 目の前に
広場 道路の広さ うっくしい町なみ 驚く事ばかしでした、初めて体験したのは
馬車に乗り官舎までの思い出は忘れる事は出来ません、古い70年前の話です

5月26日 木曜 雨 終戦での出来事

鹿児島吹上浜で終戦 20年五月 都城に入隊。武器は木の銃をわたされた。
入隊二日目で空襲に合い初年兵が死亡した。都城では兵舎に住む事は出来ず
壕の中の生活だった、鹿児島に大空襲が有り高崎新田の山の中居たが鹿児島
の火災が見えて居た、隊に穴掘りの道具無く命令で実家に取りに帰った。靴も
支給無く入隊した時のそのまま靴だった、食器は竹ツッポでコウリヤン飯であつた
腹が何時もへっていた食べる事にみんな苦労した、鉄道関係のせいか終戦ご早く
復員した。加久藤橋が大水で流され船で渡った事が思い出されます

2011年5月25日水曜日

西小林小学校の殉難者の碑

文字には当時アメリカのグラマン機での犠牲者えの歌詞がかかれています 忘れる事なく語り伝え平和えの願いになる
事を願っております 23年5月25日 筆者のカメラより

西小林小学校校庭に立っている記念碑 筆者がカメラに写しました

5 月25日 終戦物語 西小林での8人が出た大惨事

農作業をしていました。男の働き手が少なく馬耕も泥を頭からかぶり田植もなりふりか
まわず暗くなるまで働く時局でした。定かで有りませんが他分8月の十日と思います、
線路づたいにアメリカの飛行機が突然飛んできたのです。西小林で奉仕作業に出勤
途中の生徒の列に機銃掃射を浴びせました、8人の死亡が出る大惨事でした、家の
近くの竹藪に兵隊さんがおりました、軍医さんが居たのでしょか、怪我人が運ばれて
きました、テント張りの兵舎付近では其れは其れは何ともいい様も恐ろしい光景でした、泣き叫ぶ人達と走り回る大勢の人達、大きな声で怒鳴る兵隊さん、一人娘の死骸
に取りすがりようやく手に入れたモンペを着せかったと大声で泣く父親が居ました、悲しいアツーとゆう間に起きた悲惨な出来事でした、学校の校庭には記念碑が建ってい
ますが、あの時の出来事を知る人も語る事もなくなりした、衣料切符はありましたが、
何もなかった・モンペは自分でつきたし作りました、終戦でいろいろなデマが飛び生きた気はしなかった。

2011年5月24日火曜日

5 月24日曇り 大阪で見た事

店の駐車場に展示した災害現場の写真 瓦礫の被災地に救援の絆を終戦は栗下の家にいた水無口田圃で空襲にあつた。
戦時中大阪にいた。大阪駅の近くでアメリカの軍人が墜落した捕虜だったか道路にすわされているのをチラリとみた。大阪より加久藤に帰るのに一週間懸かってやっと帰れた、幾度か汽車が止まり、空襲をのがれた、家の馬が懲用に懸かり親父が都城まで
引いて入った、馬が老馬であったので又引いてかえってきた、カライモの木っ端まで
供出した苦しい毎日だった。終戦の時前の川が氾濫して大変だった。終戦の後兵隊
が良く民家に泊まりにきた、家にも泊まり帰りにおおきなヨキを置いて帰った事を思い出す、沢山の兵隊がいて良く園芸大会があった。見物に行く人もいた、終戦が今少し
後だったら私も今は亡かった途思う歳になった

2011年5月23日月曜日

終戦の日 長 谷 敏 通 5月 23日

我か国が建国以来、経験した事のない敗戦といういまわしい結果を迎えて66年の
歳月が流れ、終戦の日の出来事は忘れられ様としています、戦地で多くの犠牲者
を出し又悲惨な数々の事実を外地で日本各地での終戦が引き起こした貴重な体験
談を、今語り残せねば知る事も、聞く事も無いと思います。高齢者に一人一人にじか
に面接しまして終戦は何処でどの様に過ごされたか記憶をたどって話されました、
其の事実を書き残せる事が戦争を知らない時代の人達が、祖父母 や父母が兄弟
の経験を知る事で平和を願い、家族の絆になる事を願っております、実名を記録
にて協力していただきました栗下高齢クラブの方がたに感謝申し上げます、私は当時
高齢者クラブ会長として65人の会員でした59人の方に当時の経験を話していただき
ました、皆様は未だ13歳より20歳前後の事です、未だ長くはなら無いのですがなんと 
18人の方がなくなられました、皆様も歳を取られました、私も86歳ですやっと打つ
記事に誤字などがあると思いがお許しの程お願いします

2011年5月22日日曜日

兄の戦死

加久藤小田で終戦を家のラジオで聞く、近所の人達があっ待って聞いた、弟が学徒
動員からシラミを持ちかぇつてきた、一斗缶で煮た事を思いだす、軍馬が払い下げに
なり裏の庭で大きな馬を養った、慣れない草刈りもした、後で高く売った人の話も聞いた、初めての事ばかりが多かった、親達が苦労した姿を思い出し胸が痛む、頼りの
兄が戦死したのがくやまれる、母は苦労の末早く無くなった、父は私達を良く育てて
くれた、もっと長生きさせかった

5 月22日 曇り 終戦 空襲

宮崎市で仕事に就いていた・戦局が厳しくな理田舎に移れば途の身内の心使いで、加久藤に帰る事にしました、其の後三月
に宮崎大空襲が有りました。何も無い世の中となり衣類はモンペと変わりました
、食べ物も厳しく一升瓶に米を入れ交代で突いた者でした、前の山には沢山の大阪
の兵隊さんがおりました

2011年5月21日土曜日

5月21日 曇り 終戦 靖国骸道

多くのひとが異国の地で祖国に帰る事も出来ず病と栄養失調で無くなりした。
死期を感じるのか、又死者がよぶのか死者の側に行き髭だらけ兵隊が最後に
お母さんと呟き死んで行ききした。其の死者の列は百ミ-トルの長さに成って
いました、想像も出来ない不思議な出来ごとでした。だれが名付けたか
靖国骸道と呼ぶ様になりました、終戦は山からでて現地の人から聞きました。
敗戦から一月ぐらい立っていました。 21年8月2日 復員の為 モ-ルメン港
出港 9月24日 シンガポ-ル出港 11月20日 門司上陸 21日夜吉松に着
く歩いて4年ぶり家に帰る夢見る事幾たびか

2011年5月20日金曜日

5 月20日 孫尚美 福岡在住 災害地にボランテアに参加

福岡で会社勤務の孫娘が4日間の予定で災害地に奉仕作業に行くとの
メールを受ける。何が出来るか心配だが無事奉仕をすませてくる事を願い
えびの高原からくに
金松法然さんに妻とお参りする
子供達も戦争えの心構えを教え裸れた
中学生は軍事訓練は義務だった

5月20日 曇り 終戦の出来事

8月10日と思います新田の田圃で機銃狙撃を受け溝に体毎無我夢中で隠れ真下。経験した事の無い恐ろしさでした、後から震いが止まりませんでした。学校
でも被害がありました、都城で機銃が大勢の人を殺したと聞きました、終戦の声
を聞き少しはほっとしました、其の年凄い台風がきました、高原の狭野神社の大
が倒れていました、鹿児島の姪の家を訪ねましたが龍が崎から汽車が通る事が
出来ず,米三升 醤油一升かたげて歩いて行った事が思い出されます

大阪より終戦前鹿児島県牧園に帰る。十九歳大阪の淀川で大空襲に逢いb29が
夜焼夷弾の明かりで昼の様に明るくなり、怖くて逃げ場も無く怖い思いをした事は
忘れられない

2011年5月19日木曜日

中国にて戦線 機関銃を撃つ

5月19日 晴れ 終戦 高齢者会員の実話

宮崎県西諸方郡加久藤村私達が出征当時の住まいの宛名、
大溝原にも大勢の兵隊がいた、戦争に負けたとの噂が有り
有村さん宅でラジオで放送を聞いた、信じられない気持ちと
何かしら気持の安らぎがあり。複雑な感情がはしった、物が
不足してすべてが供出だった、赤痢がはやった、西郷のたんぼ
に草取りに一人で行ったら、学校の方から飛行機が飛んできた、
田にはいすぼった、京町の方に行き又引き返してきた、近くに三人が
一所に寄って難を逃れた、お互いに口びるの色はなかつた、じいさんが
頭に草をかぶり偽装して迎えに来てくれた、夫は都城から歩いて帰った
と後から聞いた

2011年5月18日水曜日

5月18日 晴れ終戦物語 空襲警報

戦争は日増に厳しい状況になり、学校では世界地図で南洋諸島の各戦地の説明をした、高い空をb29が白い機体を光らせて飛んだ。其のおおきさは翼が小学校
舎ぐらいおおきいと校長が朝礼時に話し皆驚いた。学校帰りに敵機が何機も空
を通り、二本胴体の飛行機も初めて見た、ロッキードといっていた。
空襲警報が頻繁に出る様になり、速く帰ることも有った、夜は電灯に黒い布をかぶ
せ外に明かりが出ない様にした、学校に行く途中空襲警報になり帰る事も有った、
遂に各部落の山の中で勉強する事になり、川野様の竹山が綺麗なので竹山です
る事になつた、おばさんが柄の無い山鍬を吊し休み時間の鐘にした、お盆た゜った
みんなで水浴びに行った。白いシャツが原子爆弾の被害が少ないと話していた

2011年5月17日火曜日

5 月17日 晴れ 終戦の日 2

兵隊は装備品の処分を毎日行った・西の松林から真黒い煙が幾日もあがっていた。学校道の松神では大きな松に何日間も機関銃を撃ち続け大きな松が倒れた。
兵隊か解散に成り大阪方面へ帰った後、皆んなが探し回りいろんな物を見つけて
喜んだ。役に立つ物も多かったのだろうが余り役に立たない偽装網が有り貰った、
学校では信管爆発が教室で起こり六年生が片手をうしなった。玄関の廊下に腕
を止血し寝かされていた・後で校長が教室に散乱した破片肉を箸で皿に集めて
おり、異様に感じた、栄養失調で痩せてやっと歩けるような兵隊が帰ってきた。
しかし子供数人を残し戦死した家族の生活は厳しく寂しいものだつた・
今日は健康教室に参加 男子は一人であった 、参加出来て感謝する

2011年5月16日月曜日

5 月16日 晴れ 終戦の日

私の終戦は満州 「中国」の国境で兵隊として体験したが内地 「日本」での
まして故郷 えびのでの体験は詳しくは聞く事は無かった、私の尊敬する友
人が当時其の地区の事を詳しく書いて史談史に書いておられるので若い人
に読んでもらいたい、゜天皇陛下の玉音放送をききにみんなで黒木方へ行って
聞いた、兄が夕方暗く成って帰り 日本は負けた と玄関から障子の向うで
泣いてるよぅな小さい声で行った。いろいろな噂がながれ、何時殺されるかも
分からないと朝から焼酎を飲み仕事もしない人もいた・兵隊は農家の大事な
牛を何頭も殺した。牛の肉は初めてだった。母や姉は最初は食べなかつたが
後では皆食べた、鍋だけは使わず兵隊から貰った長方形の缶を使った
学校では教科書の中で進駐軍に見なれて悪い所は墨を塗ったりやぶいたり
した。鉄砲や刀は竹筒に入れ土に埋めたり屋根裏や山に隠したりした1号明日

2011年5月15日日曜日

5月 15 日 晴れ

日曜日 中学校の運動会と花火揚がる世の中が変わつた、
弁当の注文で夜中から店は電気がついて大変だった様だ、
午前中は棚の網を作る 何とか出来て嬉しい、
午後はパソコンが具合が悪いので成光さんに教わる、大変良い
勉強したのだが試して見たら思う様には行かない、一度で覚え
れば苦労はしないと痛感するが夢中でする楽しみは何よりも
溝辺空港で写す
有難い、良い時間を過ごす

2011年5月14日土曜日

5 月14日 土曜 風強い 晴れ

何も無い静かな日で書く事も無いと言えば無いうち日が暮れて
しまった した事は5連の風車を修理して回る様に出来た事
道路の側に立てる 安全運転 既望 と札を下げる 希望の
意味が分かってもらえるか不安だが パソコンが調子が悪い
連絡したが今日はむっかしい様だ 又明日の楽しみを作る
えびのコカコ-ラ広場のコスモス
事にする

2011年5月12日木曜日

えびの市栗下区 金松法然様

5 月12日 木曜 金松法然様 由来記


金松法然様 栗下信号機より白鳥に通ずる旧道現在は通行はほとんど
有りません、行く事約1キロにして金松墓地に達します、墓地の一隅に
法然坊の小廟がある、廟字の中には 
法然上座位 安永六年酉九月23日 の墓石がある。其の由来記は次の通りである 由来記、昔一僧有り飄然として来たり此の地に住む、其の名は法善 酒を愛
する事無類 天衣無縫 常に無慾無我を説く 法力無礎 庶民の難危を救う
安永六年酉9月23日往生す 村民其の徳を慕ひて其の霊位を栗下金丸に
安置す 爾来参する者跡をたたす 立願するに必ず酒を供え一事の外願ふ
べからす大慾の人は其の望み叶はす 是法善の遺事なり 茲由来を謹書
して其の大徳ら賛仰す  昭和三五年九月2十3日 栗下郷中一同
参考資料 えびの市史下巻

2011年5月11日水曜日

5 月11日 曇り 時ど気小雨

水曜日 朝から雨と予報だったが雨は期待はずれ、やりたい事は
沢山有るのだがやはり気分次第午前中体調が優れ無い天気のせい
だ路、午後庭の椅子の移動 整理 梅雨の前に何とか出来て嬉しい
何も無い一日で有ったが無い事が老後は嬉しい、明日は気分転換
を期待する

2011年5月10日火曜日

5月10日 曇り 蒸し暑い

何とかパソコンが私のゆう事を聞いてくれてほっとする 、横文字には
全然駄目 嫌とゆう程老人を苦しめる何とか感を頼りにキーイを打つ
リハビリにひさしぶりに行く顔なじみが言葉をかけてくれて嬉しい、
娘が昼ご飯持参 毎度の事で手を合わせて感謝する。天候は気まぐれ
説明を追加災害の写真を店の展示板に載せる
瓦礫の被災地に支援をお願いをする
で時たま激しく降る、

2011年5月8日日曜日

5月7日文化フエステイバル 私の作品

地震写真を入れて短歌を作りました天気は大変良くなる

5月7日 曇り 

土曜日 いろんな行事が有るようだ、真の幸せ駅開業100周年記念式典
真幸駅肥薩線開通2年後明治44年5月11日開業 近年は縁起の良い
名前や 幸せの鐘 などが旅情をそそり市内有数の観光スポットと成って
います 三味線グルプがお祝いに参加していたら いさぶろう.しんぺい
号が出発したら 多くの人達はほとんどかえってしまったと 期待はずれで
あつたが何とか地元の方の前で引く事が出来たとの事 えびの市文化センター
で文化フエステイバルに市民多数参加 ホールは満席 地元出しんの
大里克夫先生の いのち の演題で大変良い話を聞く事が出来ました
芸能発表 大正琴コーラス舞踊ひょとこ踊り みんな素晴らしい
短歌クラブも出品しました

2011年5月6日金曜日

5月6日 曇り 後少し小雨

天候は良くない 少し寒いと思える様だ 午前中パソコンに用件
を打つが駄目いくらしても出てこない 諦める 午後文化センター
に出品の短歌を持参 クラブの人達と展示する 自分の作品が
多くの方に見ていただく事の幸を嬉しく思う 会員の方もすばら
しい作品だった 友人が訪ねてきてくれた 良い話が出来た事
がお互いに歳をとつたと今の暮らしに感謝する

2011年5月5日木曜日

5月5日 曇り

青空に元気よく泳ぐ親子の鯉幟を楽しみにしていたが
今は50過ぎになっているが幟を立ててくれた親父を
思い出す 親孝行したいと思う時は 親は無く よく
聞く言葉を悲しく思い出す 幟を毎年見る事のしやわせ
を感謝 宮崎大学の中国の学生より電話いる 末に
えびのにくるとの事 嬉しい事だ 孫は東京に出てゆく

2011年5月4日水曜日

23,年5月4日 晴れ 後曇り

天気回復 車の通行連休らしく多い様だ 午後月一度の短歌会に参加
全員参加有り 災害の歌が多い 季節では春がうまく表現して有り男性
の私には細やかな女性の歌には脱帽だ いろいろと良い勉強になる
5月の市報の短歌は私のが採用されたと事で良かったと感謝する
 大津波すべて失い 瓦礫のみ 家無き人に支援の絆を
福岡の孫よりメール入る嬉しい事だ 大分の方に行くとか道中の安全
を願う 午後 散歩をかねて外出するが人では少ない様だ

2011年5月3日火曜日

5月3日 曇りのち雨

連休慣れ度 天気割るし 午後雨となる
棚の補きゅうする 身が下がる楽しみは種をまいた私しかうれしさは
分からない 歳をとり 楽しみが 変わり できる事のしやわせが
嬉しい 何とか体調がよく成ったようだ 孫福岡に帰る メジロの作り
ものを渡す 誰もいない部屋に出いりすればないてくれるぞ

2011年5月2日月曜日

5月2日月曜 晴れ

テレビでは原爆の被害又其の対応でいろんな意見が出ている、難しい
問題で大変な事だ、思ってもいない被害を受けられた人達の生活の安定
を願うばかしだ、午後竹を切りキウリの棚作りに挑戦 網を立てるがむっかしい
出来なくて匙を投げる、老妻の知恵を借りてやっと出来る、細やかな気の永い
仕事を完成させたのには脱帽だ、
母が決めた妻タツエ 宝籤なら三億円

5月2日 晴れ

晴らしい天気 朝気分良し 

2011年5月1日日曜日

5 月1日 晴

予報はずれ 天気良し 多くの車楽しく走る 金松さんのお参りも多い
ダイワにて中国の留学生と会話する、私も今の長春に折りましたと
相手は喜んでいた様だ、写真は中国の友が土産に私の為わざわざ
駅を移して持ってきてくれたのだ、彼との5年の交際は忘れる事はでき
無い、四川省の大学の先生の姿思い出す ほんとに有り難う