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宮崎県 「故人」 木崎原 操
この25師団の対空部隊として小林市の南方ひなもり台に高射砲中隊が陣をかまえていた、このような中に在って、昭和20年8月10日、突然米軍のグラマン戦闘機3機が吉都線沿いを都城方面から低空で飛んで来て各駅に機関銃を浴びせた。駅付近にいた人達は、星のマークを付けた戦闘機が機関銃を発射してきたのでビックリして物陰や溝や藪の中に逃げ込んだ。しかし此の空襲で各駅は相当の損害をうけた。
私は8月10日に配給物の傘の材料を受け取るため、時自転車で小林市に出かけていた、小林市街に着くと当時にタンタンと大きな音がした「省略》私も急いで堤傘屋の防空濠に避難させてもらった。用事を済ませて防空濠を出ようとしたところ、こんどは続けて西の方から戦闘機に護衛それた爆撃機の大編隊《約30機」が通過して行った。この時、ビラを上空から撒いたので中学生が拾っていた
。尋ねたところ、小林市も降服しないと徹底的に爆撃する。と書いてあった」
この様に第25師団が転用になっていからは、西諸県郡地方もあわただしくなった。吉都線を走る混合列車の最後部には、無蓋歌貨車を連結し、そこに草木でカムフラージュした92式重機関銃を設置して空襲に備えていた。其の貨車には数人の兵士が乗り込んでいて、敵機が飛来してくればたちまち撃ち落とす態勢を整えていた。8月10日に爆撃機の編隊30機が飛来してきた時、小林市の人達は此の編隊に向かって高射砲隊が射撃するだろうと今か今かとまっていすたが、とうとう射撃しなかったので残念かっていたょうである。是は、この時点で射撃すると小林地区に集結された軍需物資が敵の空襲によって破壊され、小林の街も焼け野原になるということで、師団長命令があるまで禁止されていたということである。尚、此の空襲による被害は次の通りであった。
西小林駅 死者 10人 負傷者 18人 小林駅 会社タンク損害
飯野駅 死者 1人 重傷者 1人 馬死亡1頭
加久藤駅 中学生 重傷者 1人 高原 沿線死者 2人
高崎新田 種駒 1頭 死亡 京町 機関車損害2台
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引用元 《えびの市史談会第29号》 《発行人えびの市史談会」
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