***************ここから****************
戦争でおらゆる工場が焼き尽され、着る物も日常品もなかったが、大人の大好きな焼酎もなかったのだろう。原料は唐芋だから作り方さえ知っておれば誰でも出来る訳で、密かにあちこちで作られていた。父も好きであったのでつくっていた。焼酎を作る機械、があった。一斗缶の大きさぐらいで丸い物だった、貸借をしており私も自伝車で大河平へ持っていかされた事もあった、
密造者があちこちで摘発されるようになった。私の家にも税務署の調査官が来た。色白で目の鋭い人だった、ツリン「井戸」の所に桶が置いてあった、あれは何につかうのかと聴いたら、飴を作ったところだと答えた、種々調と調べられたが証拠はなく。世間話になった。父が裏山の筍を掘って上げたら喜んで帰った。母が「来た時はおとろしか顔しちよったどん戻っときや仏さんの様な顔じゃったな」と云った。父は其の頃はもう造っていなかったかもしれない。
********************ここまで*****************
引用元 「えびの市史談会えびの33号」 (えびの33号 江藤 則男記事抜粋)
終戦当時の世相をそのまま書いておられます、記事の内容は何処でもあった事なのです、今では
考えもしない事ですが、密造酒造りと 闇米に間しては悲喜交々 終戦当時苦しい時代に過ごされた方にして理解していただく懐かしい語りです。
0 件のコメント:
コメントを投稿