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唐芋が薩摩にいり飢饉を救つた話があるが、正に戦中、戦後の食料不足を助けた食べ物だった。御飯には小さく切って米半分、唐芋半分だった。学校から帰ると煮てあり、田畑仕事も唐芋だった、正月の餅を搗く時も最後には「カライモべった」を搗いた。私の家ではよく カシダゴをつくつた、コッパ
゜「木葉」切りで五ミリぐらいに切り、筵で干し粉にして団子を作り包丁で切ってたべた。沢山食べると胸やけがした。囲炉裏には誰がが焙っていた。焙つたのが一番おいとかつた。供出等でだした残りの小さなクズは大きな釜で飴を作った。お盆前頃唐芋の草取りに行き、地面が割れて居ると指で大きさを計り大きければ掘って、近くの溝で洗い、生で食べたりした。霜が降り蔓が枯れると唐芋堀の千切り方で手に汁が付き後で黒くなり洗っても簡単に落ちなかつた。今は年に二 三 個も食べない。只。焼酎に化けてみいるので教え等れない。
行商人と興業
農家の人々は町まで買物に行くのは少なく其の代り行商人がいろんな物を売りにきた、小間物、反物、衣類、魚干し物、アイスキャンデー等又桶の修理は一ー二週間どこかに泊まって修理していた。終戦後の頃枕崎辺の女の人達が数人で米と魚と物ぶつ交換した事もあつた。映画、浪曲、劇団等も回つてきた、映画は題名の下に三巻とか五巻と書いてあり多いとよろこんだ。早目に夕食を済ませ誘い合って見にいった。母が銅製で長さ12、3センチ巾2センチ厚さ67ミリで中は空洞で方方が塞がっていて金の鳥が彫刻しているのを畠で拾い持っていた。何だろうと時々人に見せていた、
女の懐剣の鞘ではなかろうかとゆう人もいた、或る時行商人に見せたら「鑑定する人に頼んでやる」と云い持って行った。それきりた゛つた
引用元 「えびの市史談会発行えびの第33号」 (えびの 江藤則男記事抜粋 )
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パラオ島にて 敵に包囲され 岐阜県 永治 革洋
戦時中南洋群島パラオ島の山中の防空壕に隠れ住む。人の気配があれば砲弾で物の形がなくなる間で爆撃があった、突然、8月15日には朝から静かな時が過ぎ、谷川にでて食糧になるものを探したり、捕ったりしていた、ところが正午過ぎ偵察機からビラが撒かれた、拾って兵隊にみせ、半信半偽で敗戦を教えられた。 当時9歳
南洋に砲音尽きて終戦日
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引用元 「昭和万葉俳句前書集」 (高木 二朗発行)
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