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樺太 北海道 篠原 照子
終戦の御詔勅は、樺太豊原市の樺太師範学校の事務室でいただきました。「日本は本当に負けのか」と何度考えても嘘の様な気がしました。涙を拭かれた校長先生が「女子生徒を早く親元へ帰る様に」と先生方が指示されたので、私もきぅに母が恋しく、別れ住む母の心痛を思い、涙があふれたのを、昨日の事のように思い起こしております。23歳の生まれ月でした。
国負けて 俄かに恋し老い母
樺太 青森県 境 絹
夫は小学校教員であった。私達一家は当日を樺太上敷き香町において迎えた、ここは駐屯地で有ったが、終戦に先達将校の家族の家族等はいち早く内地へ引き揚げて、官舎は藻抜けの殻であつた。よく聴きとれぬ玉音に耳を澄ませた日より、州万の民は島上に孤立した。
身にぞ沁む 玉音をとこ泣きんをんをんな く
樺太 東京都 関口 波香
ソ連孫戦と同時に樺太真岡の魚港にソ連の軍艦が入港、艦砲射撃がはじまった、引揚船を待っていた私達はほとんど撃たれた、敗戦当時から無法なソ連兵と一部日本兵で三日間市街戦が続いた
。私も妹を背負い、弾を縫ってかろうじて裏山に逃れた。電話交嬢九人はこの時自殺した。
夏草や 乙女の死体 抱きけり
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引用元 「昭和万葉俳句前書集」 【高木 二朗発行】
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