2012年7月26日木曜日

長谷敏通軍歴

昭和20年7月満鉄新京機関区機関士として勤務、
現役兵として新京「現長春」神社にて多数の万歳の声
に送られ満五七四部隊配属 歩兵二八四連隊二大隊
機関銃隊勤務、8月10日ソ軍との戦闘始めのため、
老国山東の山に配置する、8月14日 部隊主力通信なし
中隊は後方に敗走、21日琿春にて敗戦を知る。
見地山の中にて中隊解散、山中を徘徊中ソ連兵に包囲
され最悪の捕虜となる

延吉収容所に収容される。琿春経由 「入りソ連え」
20年12月 ハパロスク16地区 ホール地区ビキン
21年12月ホール地区6分所

22年 6月26日 ホール市 

昭和23年6月 出港地 ナホトカ
船 名     信濃丸 
上陸地    舞鶴港 昭和23年6月27日

現住所 宮崎県えびの市東長江浦633



長 谷 敏 通 大正14年1月1日生


長谷 敏通 軍歴記事

昭和20年7月現役兵として

2012年6月16日土曜日

満州での少年少女の終戦

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「生きてる」 続き

早春の片道キップ
昭和20年4月16歳で渡満、私達156名は輸送船で下関港から釜山港へ、釜山駅から朝鮮を縦断し、満州は牡丹江駅を経て国境の町東寧駅
に着く。広々とした山間の町を進み、さらに東の東寧報国農場の隊舎に
いる。
田畑が広がった先が国境のウスリー川「鳥蛇溝河」で対岸はソ連領、山す
そはポルタフカの町、ソノ奥はソ連の陣地である。川の向うは肉眼でソ連
兵が見えると言う。国境の山野は、春の長雨が明けると猛真夏である。
猛暑で日中は枯れ葉のようになる中、毎日毎日徹夜で国境陣地に或る
大砲弾薬の撤収作業が行われていた。国境第二陣地へ移送するという
「実は南方方面に行ったらしい」ソ連領の陣地は、夜の信号弾の打ちあ
げが多い、赤、青、黄色、赤色が多い直前の夜は要注意である


8月9日早朝非常呼集がかり、国境線方面戦争状態に入ったと知らされ
る。夜明けと共にポルタフカ山頂陣地より砲撃が始まった。頭上ヲシユルシユルと通り過ぎる弾弾は後方の陣地で炸裂し、監視所の緑の山は見
る間に砲撃によって木木は飛び去り茶色のハゲ山となる。病弱者は東寧
駅で後命を待てとの達しで、伊藤隊長が引率し私は隊長付きとして病弱
者16名とともにトラックに乗りこみ、農場から東寧駅に移動する。
ここまで 2号とします、続きます。

*************2 号************
引用元「えびの市史談史45号」《長崎と満州の終戦大牟田一成手記》


終戦物語

満州少年少女の終戦

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「生きてる」 続き

2012年6月14日木曜日

長崎と満州での終戦

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生きている   志波 裕和

氏は昭和19念年3月真幸小学校高等科2年卒業。同年4月第11回生として宮崎県立茶臼原農民道場に入り、修練課程の一年に進級した昭和20年4月、農業報国連盟が8け月間、各県からの総計156 名を農林省直轄の満州牡丹江省東寧街東泳東寧報国農場に派遣する。
宮崎県から西諸、倉岡、高千穂、より各2名の計6名が選ばれて渡満する。11月末に研修を終えて帰国予定であった。

2012年6月10日日曜日

終戦物語《もっこ》で琲土を出す

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石川県  市波 豊州

私は、終戦を愛知県渥美半島の伊良湖湖岬の近くで迎えました。昭和12年の支那事変と同時に支那に渡り、大東亜戦争の時、青島に集結、南方各地を転戦して8年ぶりに内地の土を踏むことができ、

米軍の進攻に対処すべく濠堀の隊長として、兵隊は昼夜交代で堀り、現地の乙女達に《もっこ》で排土を運び出して貰いました。松林の中に掘立小屋を造り、そこで日夜穴堀に選念中、終戦を迎えました。

乙女等の 担ぐモッコや汗の顔

愛知県   鳥居 秋彦

その日私は、豊橋市末広町にいた。米軍機に我が家も、そして周辺の民家焼失、私は逃げる時に左足を骨折、バラック小屋で終日ぼんやりしていた。戦争に負けた事より、多数の友が犬死にをした、それがただ無念だ

夏悲し 老女が歌う子守歌

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引用元  「昭和万葉俳句前書集」 《高木 二郎発行》