2012年8月3日金曜日
ソ連軍の侵攻
昭和20年八月九日午前零時。ソ連軍は東部ソ連国境から牡丹江、吉林を
目指して60万、黒竜江からハルピンへ30万、モンゴルから60万と、ソ連軍は北と東西の三方面から満州に侵攻してきた。午前1時には東寧、綏芬河正面のソ連軍が牡丹江市街を爆撃、三〇分後には首都新京「現長春」
郊外にも爆撃機が飛来する。
ソ連軍兵力は157万人余り、大砲などの重火器2、6万門、戦車などの自走砲5500台、飛行機3400機の強大な軍事力で電撃的に攻撃してきた。
対する関東軍は約70万、戦車200両、飛行機200機であった。関東軍の
兵員の2倍、戦車は27倍、飛行機は17倍であった。国境付近の我が軍
の陣地は次次にと全滅していった。虎頭や孫呉、ハイラルなど堅固な陣
地での抵抗ゃ牡丹江手前の我が第5軍は肉薄攻撃や切り込みを行い
奮戦したがソ連軍は満州になだれ込んできている。
引用元「えびの市史談会45号」「長崎と満州での終戦大牟田一成手記」
私の中隊も東寧の老黒山頂に陣地を構えておりました、突然のソ連軍の
侵攻でした、前線の部隊本部の戦闘を花火の様に見ておりましたが、夜があけますと戦闘は終わり本部との連絡なく強大な機械化部隊の力には
善戦せしも力尽きたと思もわれました。、我中隊は老黒山の頂より下の道路を進撃する見たこともない砲身を突きだす大型戦車、タイヤが6輪の車
小型車 その凄さにただ驚く化かしでした。
命令は後方に転進でした、10日ぐらいの山の中の徘徊でした、ついていかねば死あるのみでした、その間の事は残念ですが記憶がありません、
兵隊になったばかし、銃も剣もない裸の兵でした。もし銃があれば野たれ
死だったでしよう、抑留3年の苦しみも若さのみの体力だったと今思います
87歳 長 谷 敏 通 誤字はお許しください・
目指して60万、黒竜江からハルピンへ30万、モンゴルから60万と、ソ連軍は北と東西の三方面から満州に侵攻してきた。午前1時には東寧、綏芬河正面のソ連軍が牡丹江市街を爆撃、三〇分後には首都新京「現長春」
郊外にも爆撃機が飛来する。
ソ連軍兵力は157万人余り、大砲などの重火器2、6万門、戦車などの自走砲5500台、飛行機3400機の強大な軍事力で電撃的に攻撃してきた。
対する関東軍は約70万、戦車200両、飛行機200機であった。関東軍の
兵員の2倍、戦車は27倍、飛行機は17倍であった。国境付近の我が軍
の陣地は次次にと全滅していった。虎頭や孫呉、ハイラルなど堅固な陣
地での抵抗ゃ牡丹江手前の我が第5軍は肉薄攻撃や切り込みを行い
奮戦したがソ連軍は満州になだれ込んできている。
引用元「えびの市史談会45号」「長崎と満州での終戦大牟田一成手記」
私の中隊も東寧の老黒山頂に陣地を構えておりました、突然のソ連軍の
侵攻でした、前線の部隊本部の戦闘を花火の様に見ておりましたが、夜があけますと戦闘は終わり本部との連絡なく強大な機械化部隊の力には
善戦せしも力尽きたと思もわれました。、我中隊は老黒山の頂より下の道路を進撃する見たこともない砲身を突きだす大型戦車、タイヤが6輪の車
小型車 その凄さにただ驚く化かしでした。
命令は後方に転進でした、10日ぐらいの山の中の徘徊でした、ついていかねば死あるのみでした、その間の事は残念ですが記憶がありません、
兵隊になったばかし、銃も剣もない裸の兵でした。もし銃があれば野たれ
死だったでしよう、抑留3年の苦しみも若さのみの体力だったと今思います
87歳 長 谷 敏 通 誤字はお許しください・
2012年8月2日木曜日
2012年7月26日木曜日
長谷敏通軍歴
昭和20年7月満鉄新京機関区機関士として勤務、
現役兵として新京「現長春」神社にて多数の万歳の声
に送られ満五七四部隊配属 歩兵二八四連隊二大隊
機関銃隊勤務、8月10日ソ軍との戦闘始めのため、
老国山東の山に配置する、8月14日 部隊主力通信なし
中隊は後方に敗走、21日琿春にて敗戦を知る。
見地山の中にて中隊解散、山中を徘徊中ソ連兵に包囲
され最悪の捕虜となる
延吉収容所に収容される。琿春経由 「入りソ連え」
20年12月 ハパロスク16地区 ホール地区ビキン
21年12月ホール地区6分所
22年 6月26日 ホール市
昭和23年6月 出港地 ナホトカ
船 名 信濃丸
上陸地 舞鶴港 昭和23年6月27日
現住所 宮崎県えびの市東長江浦633
長 谷 敏 通 大正14年1月1日生
現役兵として新京「現長春」神社にて多数の万歳の声
に送られ満五七四部隊配属 歩兵二八四連隊二大隊
機関銃隊勤務、8月10日ソ軍との戦闘始めのため、
老国山東の山に配置する、8月14日 部隊主力通信なし
中隊は後方に敗走、21日琿春にて敗戦を知る。
見地山の中にて中隊解散、山中を徘徊中ソ連兵に包囲
され最悪の捕虜となる
延吉収容所に収容される。琿春経由 「入りソ連え」
20年12月 ハパロスク16地区 ホール地区ビキン
21年12月ホール地区6分所
22年 6月26日 ホール市
昭和23年6月 出港地 ナホトカ
船 名 信濃丸
上陸地 舞鶴港 昭和23年6月27日
現住所 宮崎県えびの市東長江浦633
長 谷 敏 通 大正14年1月1日生
2012年6月16日土曜日
満州での少年少女の終戦
************ここから************
「生きてる」 続き
早春の片道キップ
昭和20年4月16歳で渡満、私達156名は輸送船で下関港から釜山港へ、釜山駅から朝鮮を縦断し、満州は牡丹江駅を経て国境の町東寧駅
に着く。広々とした山間の町を進み、さらに東の東寧報国農場の隊舎に
いる。
田畑が広がった先が国境のウスリー川「鳥蛇溝河」で対岸はソ連領、山す
そはポルタフカの町、ソノ奥はソ連の陣地である。川の向うは肉眼でソ連
兵が見えると言う。国境の山野は、春の長雨が明けると猛真夏である。
猛暑で日中は枯れ葉のようになる中、毎日毎日徹夜で国境陣地に或る
大砲弾薬の撤収作業が行われていた。国境第二陣地へ移送するという
「実は南方方面に行ったらしい」ソ連領の陣地は、夜の信号弾の打ちあ
げが多い、赤、青、黄色、赤色が多い直前の夜は要注意である
8月9日早朝非常呼集がかり、国境線方面戦争状態に入ったと知らされ
る。夜明けと共にポルタフカ山頂陣地より砲撃が始まった。頭上ヲシユルシユルと通り過ぎる弾弾は後方の陣地で炸裂し、監視所の緑の山は見
る間に砲撃によって木木は飛び去り茶色のハゲ山となる。病弱者は東寧
駅で後命を待てとの達しで、伊藤隊長が引率し私は隊長付きとして病弱
者16名とともにトラックに乗りこみ、農場から東寧駅に移動する。
ここまで 2号とします、続きます。
*************2 号************
引用元「えびの市史談史45号」《長崎と満州の終戦大牟田一成手記》
「生きてる」 続き
早春の片道キップ
昭和20年4月16歳で渡満、私達156名は輸送船で下関港から釜山港へ、釜山駅から朝鮮を縦断し、満州は牡丹江駅を経て国境の町東寧駅
に着く。広々とした山間の町を進み、さらに東の東寧報国農場の隊舎に
いる。
田畑が広がった先が国境のウスリー川「鳥蛇溝河」で対岸はソ連領、山す
そはポルタフカの町、ソノ奥はソ連の陣地である。川の向うは肉眼でソ連
兵が見えると言う。国境の山野は、春の長雨が明けると猛真夏である。
猛暑で日中は枯れ葉のようになる中、毎日毎日徹夜で国境陣地に或る
大砲弾薬の撤収作業が行われていた。国境第二陣地へ移送するという
「実は南方方面に行ったらしい」ソ連領の陣地は、夜の信号弾の打ちあ
げが多い、赤、青、黄色、赤色が多い直前の夜は要注意である
8月9日早朝非常呼集がかり、国境線方面戦争状態に入ったと知らされ
る。夜明けと共にポルタフカ山頂陣地より砲撃が始まった。頭上ヲシユルシユルと通り過ぎる弾弾は後方の陣地で炸裂し、監視所の緑の山は見
る間に砲撃によって木木は飛び去り茶色のハゲ山となる。病弱者は東寧
駅で後命を待てとの達しで、伊藤隊長が引率し私は隊長付きとして病弱
者16名とともにトラックに乗りこみ、農場から東寧駅に移動する。
ここまで 2号とします、続きます。
*************2 号************
引用元「えびの市史談史45号」《長崎と満州の終戦大牟田一成手記》
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