2012年2月18日土曜日

えびの市自然川の鴨の群

えびの市宮河 栗下加久籐神社横の川、鴨が100羽ぐらい
川岸に休んで降ります、
眺めて居ればのどかで気分が和やかになります。
私が分かった様で皆飛び去りさりました、春は身近に感じました、自然がそばに在りますえびのは素晴らしいとこです。

2012年2月15日水曜日

23,年1月えびの市にてえびの空襲展開催


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平成23年1月 えびの市教育委員会その他各方面の賛同
を得まして「戦争と原爆えびの空襲展」が開催されました。
市内小学校 中学校 高校 市民 戦争体験者。多数の方
の参加を得まして、戦地の体験、空襲、原爆、抑留、引揚、
終戦の時様子、貴重な体験を生徒 市民に伝える機会を得
ました事を抑留体験者として感謝申し上げます

大変寒い時期にかかわらず生徒達は初めから終わりまで
休みを返上して会の運営に積極的に行動してくれました。
子ども達、若い世代に戦争のない平和を切望します。

昭和20年8月10日宮崎県吉都線「吉松-都城間」線上を
突然、グラマン3機が襲来各地に無差別機銃掃射を加え、
民間人、小学生等多数の死者 負傷者を出しました、
京町「当時は村」島内の民家Eさん宅は機銃の直撃を受け
屋根を貫通した弾は、勉強中の彼の横に在った盆に当たり
弾は盆の中を走り回り飛び出したとの事を話してくれました。
九死に一生とは此の事と思居ます。

私もシベリヤ抑留の体験を話す事が出来ましたが、生き残り
体験者として機会が在りましたら、若い人達に語り継のが若い
命を捧げた戦友えの供らいと思います。

えびの市  長 谷 敏 通    87歳

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2012年2月5日日曜日

短歌 友が知らぬ土地へ

パソコンに戦記をブログ打ち込めばぢいちゃん見てると嬉しいメール

ハンドルを握るこの手も八十路過ぎ乗るか乗らぬか日毎迷いぬ

妻か゜逝き一人暮らしの老友が知らぬ土地へと送る寂しさ

3番の短歌は彼も中国からの復員者でした、同じ戦後苦労した友でした、
何とか今からと思う時突然妻を病で失いました、あれから10年になります一人暮らしに耐えて、クラブのスポーツ、行事などに参加、車の運転等
頑張っておリましたが、歳を取り子供が一人暮らしを心配しまして、子供が暮らす遠い土地に、去ってゆきました彼の胸中を思い同じ高齢者として
辛い出来事でした、或る全国誌に投稿しまして優秀賞として記事になりましたが、喜びは半分になる気持になりました。

2012年2月4日土曜日

終戦物語フイリッピンの墓地

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山口県   中務 久雄

マニラ
の東海岸から奥にいった森の中で、飢えをしのぎつつ時期の到来を待つ、
斥候により終戦がしらされ、謀議の末山を下り、米軍により指示されて広
場に武器を捨て、車にのせられ、途中原住民の罵声をくぐりぬけて収容所
に収容される。

こだまする罵声の渦や終戦日

愛媛県  二宮 昇

私は一部隊長として山下将軍最後の拠点、ルソン島「比島」中央のブロイ山「マニラ東北方」を守備して終戦をむかえる、我が部隊の将兵約800名
は其の周辺の戦闘で国の為散華した。

秋桜デロイに散りしつわものや

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引用元   「昭和万葉俳句前書集」 【高木 二朗発行】

私は今87歳になりましたが、思い起こせば50代のころでしたが、
フイリッピンに旅した事が在ります、山下将軍が処刑されましたと
言われている山に行きました、小高い山に沢山の墓標が立ってい
ました、其の風景は忘れる事は出来ません、遠い異国での墓場に
手を合わせてなんとも言えない気持ににりました、今はどんなに成
つて居ることかと思います、其の後で日本の人達が戦犯で収容さ
れ、亡く成られた収容所を見ました、戦争で罪を受けられた方々の
ご冥福を御祈いたします、もうこんな不幸な戦争は絶対にしないで
下さい 合掌