2011年8月12日金曜日

新京も奉天も風前の灯になつた。

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福岡県      成松 欽嗣様

その日重大放送が有るとのことで、講堂に集められた。雑音ひどく、よく聞き取れなかったが、日本が降伏したとすぐ分かった。8月9日にソ蓮軍が突然満州になだれ込んで新京も奉天も風前の灯になった。8月13日に召集され、やっと14日にこ奉天市鉄西区にある国民学校に集結した私は、戦況から判断してすでに決死の覚悟が出来ていただけに敗戦がどうしても信じ等れなかった

やがて配属された部隊では、酔っぱらった見習士官が軍刀を振り片っぱしからひまわり切り倒していた。近くにあった日本人民家では、幼い子供を抱えた若い奥さんが
ちいさい紙袋を造って灰を詰めている。暴漢に襲われた時の目つぶしにするのだといぅ。そんな人達が取りすがるのを振り払って、やがて部隊は北へ移動し、そのままソ蓮の奥深く連行されたのである。18歳になったばかりだった

音絶えて うす気味悪し夏の午後

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惨めな敗戦残された 婦女子達の心構え 至るところで起きた敗戦の悲劇 僅か18歳の胸中はいかばかしであった事でしょう、私も当時20歳 北満州の山の中を新京目指して当てもなくさまよっていました。無惨にも異国で非業の最期を遂げなれた多くの人の御冥福をお祈りいたします・【合掌】

2011年8月10日水曜日

終戦物語 虜囚 短歌

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札幌市  塚本 光雄様

故郷に帰らむおもい一筋に耐えきし戦友よ凍土冷たし

方五尺余す墓所の冷え冷えと野辺り送り柩小さし

凍寒のきはみ小川も水涸れ生活の氷運びぬ

従容と戦友と廬囚の責うけし豊原の野を馬齢薯の花咲く

凍寒に小鳥も凍へ死ぬというこの山奥は笹さえ生えず

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熊本県   田上 千尋様 

夕刻早や街にソ軍は入りにけりごごたる戦車の響き

左右前後に敵砲弾は破裂す吾も撃ち返す曲射砲弾

血刀わ下げて壕に入りきたる白兵戦の一軍曹ありぬ

決別の杯交わす壕の中宿命なるか終戦の報

戦野に散る戦友「とも」の屍を埋葬す詣でる人無き草むす墓辺「合掌」

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引用元***「シベリヤ抑留体験記」  「城田 敬助」

2011年8月9日火曜日

終戦物語 軍馬も食を求めて

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南部満州    兵庫県  森本 艶子様

終戦日、旧満州国錦州市向陽街、合成燃料株式会社社宅内軍借上官舎2号に在住‥亡夫「元軍人」は8月9日、ソ蓮参戦と同時に隊に行ったまま終戦を迎える、7歳と4歳と1歳の子供と私、陛下のお言葉は、はっきり聴きとれませんでしたが、周囲の様子の刻々のうっり変わりにより敗戦を知る都同時に、外地での私達の生活は、一分先は闇でした。音もなく崩れる思いがしました、正午頃から陸軍官舎が襲われ、開拓団の方々「殆ど婦女子」が着のみ着のまま、追われるように逃げて来られました、皆で雑居、たちまち病人が出来死亡する人もふえ大変でした、飼い主の敗戦により、 
軍馬も食を求め歩き、痩せ衰え、トボトボと肩を落として、当てもなく行く姿、今思うと
胸が痛みます。

板切れの 墓標たちまち丘暑き


南部満州    香川県   池添 静雄様 

終戦わ迎えたのは石炭露天掘で有名な満州国撫順駅。身分は関東軍668部隊の初年兵。その日の午後郊外同胞農家が暴徒に襲われているのを救出に赴き、戦争に敗れた悔しさ、惨めさをつくづく感じ、夜は貨車の中で一睡も出来なかったことを記憶している。

国破れ 夜の歩哨に虫すだく

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(引用元) 「昭和万葉俳句前書集」   [高木二朗]

2011年8月8日月曜日

終戦物語 中国の兵隊に幾度も

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南部満州   東京   深沢 宏子様


満州国 撫順市の市公社に住んでいました、夫が満州国の官吏で撫順市の防衛参事官でした、私は20年7月に長女を出産しました。敗戦後は中国の兵隊に幾度も家に押し入れられ、又ソ蓮の兵隊も女を出せと押し入ってきて怖ろしい目に遭いました。

乱れにし 心は盆の母のもと


南部満州    大阪府   井上 操乎様


奉天市、8月15日は会社命令で営口へ疎開す、長女3歳、長男11月、不自由な生活の中で長男病得、重体となる。終戦の報伝わるや、すぐ満人は暴虐をきわめ、殺人、暴行多発、生きて心地せず、8月末帰宅、3日後長男死亡、主人は戦地から未だ帰らず、当時24歳。

灼くる風に 大君の声とぎれがち


南部満州    兵庫県    生尾 さだみ様

8月15日には、満州国本渓湖市に住んでいました、当時私は、新京特別市の女子師道大学の学生で、夏休の為自宅に帰省していました。将来は満州国の女子教育に身を捧げたいと決心していたところです、祖国が破れ、原住民の反乱、若かった父の死と、強烈な過去は、未だに拭い切れないのです。

大西日 つぶてとなりていくさ果つ


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引用元**「昭和万葉俳句前書集』 (高木二朗発行  )


敗戦の事実は外地の日本人には住む家も無く命の危険に毎日おびえて暮らす日々
で遭った事を皆様書いておられます、事なかばで多くの命が無惨にも奪われた史実を忘れる事無く、肝に銘じておくべきと思います、私『長谷」も青春時代 新京で5年間
過ごし『20年 7月現地入隊 北満州にて抑留3年 23年舞鶴上陸」想いはつきない
新京特別市です、今えびの市には『長春」前の新京から日本の大学受験のため1年間勉学に励んでおります、まじめな学生ですほとんどの学生が大学に進学しております。新京か懐かしく留学生と楽しく交流しております。世の中が 変わりこんな縁がある事の不思議を感し゜ております。

*****************此の話是まで*****************

2011年8月6日土曜日

終戦物語 女達は髪を切り

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南部満州    千葉県  角川 千枝子様

無蓋車に乗せられて新京「現・長春」を避難。通遠  まで来て敗戦をしりました。置き去れの病兵哀れ。兵の毛の帽子と見たのは虱がとりっいてのです、女達は髪を切り男装していました。当時主婦、24歳。

高梁の 葉ずれの中に葬りし

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南満州    東京都  月岡 チト 様

新京より朝鮮へ疎開の為南下中の無蓋車の中で終戦を迎えた、13日の夕方から無蓋車にすし詰めになった、新京人の南下が始まる、15日玉音放送が終わると、
すぐ気車は原の中で止まる「本渓辺」 満人の略奪に遭いソ蓮機の機銃掃射でバタバタ倒れる、新京へ帰る食物も捕られ、畠の茄子で家族6人の命をつなぐ。

一滴の水なき 夏の逃避行

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2011年8月3日水曜日

終戦物語 特殊潜水艇 3人乗り 艦長19歳

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宮崎県    東 清秋様

佐世保の海軍に志願兵として入隊、呉大竹潜水学校入校、19年特殊潜水艇科配属小豆島 坂部にて訓練をうく 試運転に立ち会い 四国 宿毛にて待機 命令を待つ  


命令に依り特殊潜航艇3人乗り 艦長19歳 操縦科卒 現役太平洋を潜行、苦難筆跡につくしがたし。ハワイの大軍団を見て転身の余儀となる。艇器具故障、万難を乗り越え青森大湊に入港8月16日初めて終戦を聞く、海軍の迎えの飛行艇で呉に帰る、小豆島で艇を自沈、書類を焼く、

復員の途中広島を見る、徳山駅は無くなっていた。次の乗り場まで歩いて行く、下関から門司へ行く、台風で大変な被害の様だった。支給された物資は全部無くなり、其の時の毛布と日の丸は今も持っている、私の分身を見る思いがする、長くて短い世の流を感ずる歳になった
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引用元******* 「私の終戦」    (長谷敏通著)

2011年8月2日火曜日

終戦物語 青酸カリをポケットに

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大阪市     大岩 美智子様

敗戦当日は岡山県赤穂郡瀬戸町瀬戸、県立瀬戸高等女学校にいた。上級生は水島に動員。校舎の半分を呉海軍工廠分工場として使用。私達学年は、学内にあいて双眼鏡の生産に従事、当日だれが持ち出したかのか、青酸カリを各々ポケットにしのばせ、アメリカ兵の来る前にと死を覚悟したのを記憶している。


夏草や 覚悟の薬にぎりしめ



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富山県     川島 勇次様


20年6月、軍艦「利根」に乗り組を命ぜられ、海軍経理学校より呉軍港江田内で乗艦した、当時「利根」は、多くの戦績にもかかわらず、燃料がなく、張り子の虎となって海軍兵学校生徒の乗艦を持つ呉練習隊に編入していた。7月24日と28日の両日にわたり、米英機動部隊の艦載機と大型爆撃機のべ千機が、在港艦船を攻撃した。

「利根」は、伊勢 日向  大淀と共に終日、防空砲台として応戦し、多数の戦死者を出してその命脈を断ったのである。「利根」は左に21度傾斜し、江田内沿岸に大破したので、残務を処理するため、江田島佐伯小学校に移り、終戦を迎えた。 
軍艦利根庶務事務室先伍下士  海軍上等主計兵曹

古鷹の 雲の峰へと紅蓮炎

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引用元**「昭和万葉俳句前集」」      「高木二朗様」

終戦前 いかに米英の物量の大きさに今となれば、驚くばかしです、その攻撃に立ち向かった人達の気持を思い亡くなられて多くの人達にご冥福を祈り、感謝の気持を持ち続ける事を誓います。