Q*****************ここから**************
ソ連は第二次世界大戦で約3千万人の犠牲者わだした。スターリンは、戦後復興の為の労働力として
すでにドイツなどの敗戦国の捕虜を強制労働をさせていた。日本の捕虜 抑留者にも方針どおり強制労働を実施してのである。 ボツタム宣言は「日本の軍隊は武装解除されたあと各自の家庭に復帰し平和的且世生産的の生活を営む機会を与え羅れる」 とある。又捕虜の取り扱いについて「平和克服の後は、成るべく速やかに俯虜を其の本国に帰還せしむべし」と定めたハーク条約に違反し、明らかに国際法違反である。
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満蒙開拓団の悲劇
終戦を知らずに戦い抵抗し、現地住民や土匪におそわれ、山野を彷徨うなかで多くの犠牲者を出した
満州開拓民秘史の「事件別開拓団死亡者一欄」 を見て死亡別に纏めると。ソ連軍の攻撃・満軍の反乱と土匪の襲撃での戦死者は八開拓団の計1766人、戦死、自決者は三開拓団で計1317人、
自決者は六開拓団で計1491人、満軍による殺害は二開拓団で計182人の犠牲者を出して居る【本書関係のみの開拓団 】
佐渡開拓団跡事件 【東安省ポツリ県】 満州開拓民秘史に依ると
新潟県第10次佐渡開拓団が既に避難したあと、奥地からの開拓団が避難途中に、佐渡開拓団地に集結していた。東安省の一番東のソ連国境沿いの虎林県の清和開拓団【新潟県第七次】と完達嶺義勇隊開拓団、宝清県の埴科郷団、高社宕郷、更科郷、阿智郷、など長野県送出の開拓団が計八団、揚栄庄内などの山形県送出の開拓団が計5団、茨木県送出のの開拓団などその他の開拓団そして報国農業に入っていた青少年などで有ったという。
8月24日夕方ソ連軍偵察機一機が佐渡開拓団近くに不時着し、快諾団がソ連機を炎上させ、搭乗員を射殺したが何人かは逃がしてしまつた。26日ソ連軍が白旗を掲げ進んできた。ソ連兵は女性を連行するときはこうしていて、何回も被害に遭っていたので、開拓団側は女性を連れ出しに来たと判断し、機関銃を乱射してソ連兵20余人を殺害した。
激怒した連軍は28日早朝、迫撃砲等で約一時間に渡り開拓団地を砲撃し、残った生存者を建物の中に閉じこめ、手瑠弾を投げ込み火を放ち焼死させた。撃ち殺し焼き殺し徹底し殺害している。
埴科郷、高社郷、更科郷開拓団の殆どが全滅し、佐渡開拓団の地は焦土と化し、避難集結した開拓団の殉職者総数は1464人で有ったと記してある。終戦をしらず関東軍を信じての、開拓団のなかでも最大の犠牲者をだした事件である。て
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引用元 「えびの市史談会史談史えびの 【第45号えびの40記念号大牟田一成満蒙開拓団】
記事より抜粋
国の為 異国で国を信じ 、関東軍を頼りにした開拓団の悲劇は書くに忍びない現実に起きた事実
です、合掌。
2011年10月12日水曜日
2011年10月9日日曜日
終戦物語 直立不動で
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東京都にて 千葉県 杉浦 舟山
当時医薬品統制会社の人事係長として、空襲下の労務管理に苦労した。終戦当日は、日本橋の三共ビルに本社があったが、慶松左右衛門社長いか全員直立不動で天皇のお言葉にただ涙するのみであつた。
壕に寝て 焦土の夏を悲しめり
***************************
東京都にて 千葉県 山崎 長夫
東京都千代田区東京逓信病院にて終戦をむかえた。当時、各地域ごとに、防護団が結成された、北支から野戦帰りしたばかりの私は、軍医でなく、歯科医であり、歩兵出身ということで、避難隊長に抜てきされ、独立防護団奈長故石原忍院長の下で、病棟裏の斜面の崖に、勤労奉仕の職員の方々と、最後の決戦に備えて防空壕を掘っていた。
明日ありと 耐えし戦友亡く蝉しぐれ
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神奈川県三浦半島 東京都 藤井 弥十太
神奈川県三浦半島油壺湾内、海軍基地内、海軍水兵 【兵長】として基地内の取り締まり衛生兼公用便として、毎日横須賀鎮守府に書類持参、又、横須賀市及び三浦町の営内必需品の買い出し等が日課、他営内のみまわりも重要な任務でした。当地の海軍の装備は誠にお粗末そのもので、ボートの先端に爆薬を積み、敵舟に近づき舟もろともに体あたりという若い200名の志願兵と召集兵の集団でした。
いくさ人夢 やぶれたり灼けの原
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引用元 「昭和万葉俳句前書集」 【高木 二朗発行】
東京都にて 千葉県 杉浦 舟山
当時医薬品統制会社の人事係長として、空襲下の労務管理に苦労した。終戦当日は、日本橋の三共ビルに本社があったが、慶松左右衛門社長いか全員直立不動で天皇のお言葉にただ涙するのみであつた。
壕に寝て 焦土の夏を悲しめり
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東京都にて 千葉県 山崎 長夫
東京都千代田区東京逓信病院にて終戦をむかえた。当時、各地域ごとに、防護団が結成された、北支から野戦帰りしたばかりの私は、軍医でなく、歯科医であり、歩兵出身ということで、避難隊長に抜てきされ、独立防護団奈長故石原忍院長の下で、病棟裏の斜面の崖に、勤労奉仕の職員の方々と、最後の決戦に備えて防空壕を掘っていた。
明日ありと 耐えし戦友亡く蝉しぐれ
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神奈川県三浦半島 東京都 藤井 弥十太
神奈川県三浦半島油壺湾内、海軍基地内、海軍水兵 【兵長】として基地内の取り締まり衛生兼公用便として、毎日横須賀鎮守府に書類持参、又、横須賀市及び三浦町の営内必需品の買い出し等が日課、他営内のみまわりも重要な任務でした。当地の海軍の装備は誠にお粗末そのもので、ボートの先端に爆薬を積み、敵舟に近づき舟もろともに体あたりという若い200名の志願兵と召集兵の集団でした。
いくさ人夢 やぶれたり灼けの原
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引用元 「昭和万葉俳句前書集」 【高木 二朗発行】
2011年10月8日土曜日
終戦物語 竹槍で最後まで
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南部朝鮮 兵庫県 高 すず
当時女学校3年生。朝鮮慶尚南道馬山府在住。授業は短縮され、松根油採取、高射砲陣地構築
、軍服りボタン付け、魚雷部品作り等、動員学徒として働いておりました。当時の女子学生は最後まで戦う覚悟でした。
汗拭う者なし 玉音拝聴す
*****************************
南部朝鮮 奈良県 志岐 勝歳
大正14年生まれの初年兵「昭和19年12月入隊」。沖縄作戦に応じて、南京から昭和20年5月京城にいる。第四気象連隊本部の暗号兵である。8月8日、ソ連軍が、白城子から旧満州になだれこんだ暗号伝報も、やはり早朝に訳した、
昭和20年8月15日早朝も長文の漢字ばかりの暗号電報を訳して、敗戦を知る。時の暗号班長奥村中尉「慶応卒」の顔から、血の気が引くのお見た。12時のラジオ放送後の召集兵は本当に喜んでいた。私も生命をとりとめた事を喜んでいたと同時に、多数の兵隊の死を考え込んでいた。
召集兵 詔勅聴いて よろこべり
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引用元 「昭和万葉俳句前書集」 【高木 二朗発行】
南部朝鮮 兵庫県 高 すず
当時女学校3年生。朝鮮慶尚南道馬山府在住。授業は短縮され、松根油採取、高射砲陣地構築
、軍服りボタン付け、魚雷部品作り等、動員学徒として働いておりました。当時の女子学生は最後まで戦う覚悟でした。
汗拭う者なし 玉音拝聴す
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南部朝鮮 奈良県 志岐 勝歳
大正14年生まれの初年兵「昭和19年12月入隊」。沖縄作戦に応じて、南京から昭和20年5月京城にいる。第四気象連隊本部の暗号兵である。8月8日、ソ連軍が、白城子から旧満州になだれこんだ暗号伝報も、やはり早朝に訳した、
昭和20年8月15日早朝も長文の漢字ばかりの暗号電報を訳して、敗戦を知る。時の暗号班長奥村中尉「慶応卒」の顔から、血の気が引くのお見た。12時のラジオ放送後の召集兵は本当に喜んでいた。私も生命をとりとめた事を喜んでいたと同時に、多数の兵隊の死を考え込んでいた。
召集兵 詔勅聴いて よろこべり
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引用元 「昭和万葉俳句前書集」 【高木 二朗発行】
2011年10月6日木曜日
終戦物語 敵の爆撃がピタリやむ
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南セレベス島 東京都 桐岡 博
セレベス島南部の山中、航空地区司令部の電報班に属しいいました。当日正午に玉音放送を聴き敗戦を知りました。其の夜の、第一線陣地から引き揚げてきた兵隊の、うつろなひとみを見たた時のやりきれない絶望的な気持ちが思い出されます。しかし、敵の爆撃のピタリと無くなった戦野の静かな夕焼けが印象に残っています。
戦記焼き 今なお悔やむ終戦日
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ニユ-ギニヤ ソロモン地区 大阪府 駒井 正三
昭和20年8月一五日、西部ニュ-ギニヤ、ソロモン地区サラワチ島サマテの奥地で、現地自活で農耕作業をして現役四年兵の陸軍上等兵でした。20年十月頃にホ-ランジヤにオランダの捕虜として使役に従事、21年頃復員。
風鈴にサマテの亡友【とも】を偲びつつ
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サイパン島 茨木県 石浜 とみ子
サイパン島にアメリカ軍上陸依来、逃避行を続け、19年十月投降し、同島ススッペの邦人民間抑留所内のキャンプにて、米軍人向けの手工芸品を作っていた。
捕らわれ身に 一條の月あかり
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南セレベス島 東京都 桐岡 博
セレベス島南部の山中、航空地区司令部の電報班に属しいいました。当日正午に玉音放送を聴き敗戦を知りました。其の夜の、第一線陣地から引き揚げてきた兵隊の、うつろなひとみを見たた時のやりきれない絶望的な気持ちが思い出されます。しかし、敵の爆撃のピタリと無くなった戦野の静かな夕焼けが印象に残っています。
戦記焼き 今なお悔やむ終戦日
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ニユ-ギニヤ ソロモン地区 大阪府 駒井 正三
昭和20年8月一五日、西部ニュ-ギニヤ、ソロモン地区サラワチ島サマテの奥地で、現地自活で農耕作業をして現役四年兵の陸軍上等兵でした。20年十月頃にホ-ランジヤにオランダの捕虜として使役に従事、21年頃復員。
風鈴にサマテの亡友【とも】を偲びつつ
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サイパン島 茨木県 石浜 とみ子
サイパン島にアメリカ軍上陸依来、逃避行を続け、19年十月投降し、同島ススッペの邦人民間抑留所内のキャンプにて、米軍人向けの手工芸品を作っていた。
捕らわれ身に 一條の月あかり
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2011年10月3日月曜日
終戦物語 新京一中生徒隊の終戦
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昭和20年8月9日午前5時、国境守備隊司令部から、東寧農場本部に「****我が軍は国境各地でソ連軍と交戦中なり。農場隊員各隊はあらゆる事態に備えて準備すべし*****}とあり。6時以降に東寧県公社から「報国農場隊は、国境守備隊と連絡をとり、適宜の行動をとられたし、病弱者は東寧街民と共に避難させるから県公署まで護送それたし 」「学徒勤労隊員「新京一中三年生」の動員を解除するたただちにら県公舎に護送せよ 」の伝令通達が届く
【1】 報国農場隊。 東寧国境守備隊と報国農場隊の終極「北村 幸房氏編集」よれば
「農場では大規模農場経営の習特と食糧増産に希望を燃やしながら、日夜農耕に従事し、内地では得難い大型農業機械の操縦、百数十頭の家畜の飼育管理に若き力を全力灯球してきた。撒種作業から収穫期に入った矢先に、ソ連軍が侵攻してきた。
20年8月9日、伊藤倉吉隊長が引率した病弱者17名の移動待避以外の報国農場隊員は、国境守備隊員司令部内の陣地第785
大隊の指揮下にいつた。ソ連機の機銃掃射と戦車砲ゃ自働小銃による攻撃を受け、又闇の中での肉薄戦などの中で、遂にばらばらになつてしまった、その後の逃避行と捕虜生活、難民帰還の途上などで確認できた者だけでも54名の犠牲者を出した、なを、いまだ10余名の行く目不明者がいる」とある 1号 終わり 2号 後編 次
*****************ここまで**************
引用元 「えびの市史談会市社会教育 【えびの第45号長崎と満州での終戦記 抜粋 大牟田一成著】
昭和20年8月9日午前5時、国境守備隊司令部から、東寧農場本部に「****我が軍は国境各地でソ連軍と交戦中なり。農場隊員各隊はあらゆる事態に備えて準備すべし*****}とあり。6時以降に東寧県公社から「報国農場隊は、国境守備隊と連絡をとり、適宜の行動をとられたし、病弱者は東寧街民と共に避難させるから県公署まで護送それたし 」「学徒勤労隊員「新京一中三年生」の動員を解除するたただちにら県公舎に護送せよ 」の伝令通達が届く
【1】 報国農場隊。 東寧国境守備隊と報国農場隊の終極「北村 幸房氏編集」よれば
「農場では大規模農場経営の習特と食糧増産に希望を燃やしながら、日夜農耕に従事し、内地では得難い大型農業機械の操縦、百数十頭の家畜の飼育管理に若き力を全力灯球してきた。撒種作業から収穫期に入った矢先に、ソ連軍が侵攻してきた。
20年8月9日、伊藤倉吉隊長が引率した病弱者17名の移動待避以外の報国農場隊員は、国境守備隊員司令部内の陣地第785
大隊の指揮下にいつた。ソ連機の機銃掃射と戦車砲ゃ自働小銃による攻撃を受け、又闇の中での肉薄戦などの中で、遂にばらばらになつてしまった、その後の逃避行と捕虜生活、難民帰還の途上などで確認できた者だけでも54名の犠牲者を出した、なを、いまだ10余名の行く目不明者がいる」とある 1号 終わり 2号 後編 次
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引用元 「えびの市史談会市社会教育 【えびの第45号長崎と満州での終戦記 抜粋 大牟田一成著】
2011年10月2日日曜日
終戦物語 鉢巻きに毒を秘めて
***************ここから**********
北部満州 栃木県 荒井 菊江
旧満州国北安街にて、警視庁内菊水通信隊へ、電電会社より応援の為、電話交換手として勤務中、終戦となる。決死の鉢巻きに毒を秘めていた女子隊員もいたが、私達は最後の刻のため、町へ石けんと剃刀を買いにいった、帰り一兵より米を頂いたが、子供連れの方にあげてしまう。死を刻々と見つめ、友と水で髪を洗った。剃刀は守り刀として。
我もまた 明日の糧なし敗戦日
西部満州 宮崎県 細川 雅尊
元満州国空軍特別攻撃隊にて、来襲するb29を数度にわたり迎撃。しかるに、8月9日、不可侵条約を無視したソ軍の侵攻により、終戦の詔勅に万解の涙を呑む暇も無く、身は捕虜、妻子を戦野に曝すも、奇しくも生還を得た経験は、筆跡に尽くし難きものあり。
終戦の 空よ崩るる雲の峰
西部満州 兵庫県 天谷 輝久
終戦当日、私は15歳。満州開拓青年義勇隊員として、満州国北安省海倫県海北鎮街におりました。伝令が飛び、終戦をしりました。暑い日でした。暴徒と化した現地人は付近の開拓団を襲撃しました。終生忘れ得ません。
孤立せし 団攻めたてる土匪群
**************ここまで*************
引用元 「昭和万葉俳句前書集」 【高木 二朗発行
】
北部満州 栃木県 荒井 菊江
旧満州国北安街にて、警視庁内菊水通信隊へ、電電会社より応援の為、電話交換手として勤務中、終戦となる。決死の鉢巻きに毒を秘めていた女子隊員もいたが、私達は最後の刻のため、町へ石けんと剃刀を買いにいった、帰り一兵より米を頂いたが、子供連れの方にあげてしまう。死を刻々と見つめ、友と水で髪を洗った。剃刀は守り刀として。
我もまた 明日の糧なし敗戦日
西部満州 宮崎県 細川 雅尊
元満州国空軍特別攻撃隊にて、来襲するb29を数度にわたり迎撃。しかるに、8月9日、不可侵条約を無視したソ軍の侵攻により、終戦の詔勅に万解の涙を呑む暇も無く、身は捕虜、妻子を戦野に曝すも、奇しくも生還を得た経験は、筆跡に尽くし難きものあり。
終戦の 空よ崩るる雲の峰
西部満州 兵庫県 天谷 輝久
終戦当日、私は15歳。満州開拓青年義勇隊員として、満州国北安省海倫県海北鎮街におりました。伝令が飛び、終戦をしりました。暑い日でした。暴徒と化した現地人は付近の開拓団を襲撃しました。終生忘れ得ません。
孤立せし 団攻めたてる土匪群
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引用元 「昭和万葉俳句前書集」 【高木 二朗発行
】
2011年10月1日土曜日
終戦物語 米兵の歓声で終戦をしる
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沖縄県 沖縄県 大山 盛英
この日、沖縄では既に戦終わり、生き残った人々は食を求め、はぐれた親兄弟の安否をきづかいながら、米兵の救出食糧で生きる毎日でした。私も大学の学友を失い、虚無的な収容所生活を送っておりました。あの日は玉音放送もなく、米兵の歓声で終戦を知りました。
国敗れ 島は異人闊歩する
沖縄県 愛媛県 井上 泰蔵
沖縄本島北部の金武の収容所に、三度目の切り込みで受けた左大腿部と左前肘貫通創の身を養っていた。そして湧きき立つ望郷の念と其の又裏で、当時の風潮として俘虜の果てなるものに心おののいたことであった。
飯盒に 戦友の骨鳴り盆がくる
沖縄県 東京都 山口 米治
沖縄の最南端摩文仁の丘に独立無線通信隊は、軍司令部附きとして洞窟の中で従事。最後の抵抗も空しく25万の戦死者を出し、6月25日無刻、牛島指令官と長参謀は自決。将兵は食に食無く飲み水無き暑い毎日を蘇鉄の葉陰で知る。
唐 をわかつ寸時も迫撃砲
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引用元 「昭和万葉俳句前書集」 【高木 二朗発行】
沖縄県 沖縄県 大山 盛英
この日、沖縄では既に戦終わり、生き残った人々は食を求め、はぐれた親兄弟の安否をきづかいながら、米兵の救出食糧で生きる毎日でした。私も大学の学友を失い、虚無的な収容所生活を送っておりました。あの日は玉音放送もなく、米兵の歓声で終戦を知りました。
国敗れ 島は異人闊歩する
沖縄県 愛媛県 井上 泰蔵
沖縄本島北部の金武の収容所に、三度目の切り込みで受けた左大腿部と左前肘貫通創の身を養っていた。そして湧きき立つ望郷の念と其の又裏で、当時の風潮として俘虜の果てなるものに心おののいたことであった。
飯盒に 戦友の骨鳴り盆がくる
沖縄県 東京都 山口 米治
沖縄の最南端摩文仁の丘に独立無線通信隊は、軍司令部附きとして洞窟の中で従事。最後の抵抗も空しく25万の戦死者を出し、6月25日無刻、牛島指令官と長参謀は自決。将兵は食に食無く飲み水無き暑い毎日を蘇鉄の葉陰で知る。
唐 をわかつ寸時も迫撃砲
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引用元 「昭和万葉俳句前書集」 【高木 二朗発行】
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