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東京都にて 千葉県 杉浦 舟山
当時医薬品統制会社の人事係長として、空襲下の労務管理に苦労した。終戦当日は、日本橋の三共ビルに本社があったが、慶松左右衛門社長いか全員直立不動で天皇のお言葉にただ涙するのみであつた。
壕に寝て 焦土の夏を悲しめり
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東京都にて 千葉県 山崎 長夫
東京都千代田区東京逓信病院にて終戦をむかえた。当時、各地域ごとに、防護団が結成された、北支から野戦帰りしたばかりの私は、軍医でなく、歯科医であり、歩兵出身ということで、避難隊長に抜てきされ、独立防護団奈長故石原忍院長の下で、病棟裏の斜面の崖に、勤労奉仕の職員の方々と、最後の決戦に備えて防空壕を掘っていた。
明日ありと 耐えし戦友亡く蝉しぐれ
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神奈川県三浦半島 東京都 藤井 弥十太
神奈川県三浦半島油壺湾内、海軍基地内、海軍水兵 【兵長】として基地内の取り締まり衛生兼公用便として、毎日横須賀鎮守府に書類持参、又、横須賀市及び三浦町の営内必需品の買い出し等が日課、他営内のみまわりも重要な任務でした。当地の海軍の装備は誠にお粗末そのもので、ボートの先端に爆薬を積み、敵舟に近づき舟もろともに体あたりという若い200名の志願兵と召集兵の集団でした。
いくさ人夢 やぶれたり灼けの原
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引用元 「昭和万葉俳句前書集」 【高木 二朗発行】
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