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昭和20年8月9日午前5時、国境守備隊司令部から、東寧農場本部に「****我が軍は国境各地でソ連軍と交戦中なり。農場隊員各隊はあらゆる事態に備えて準備すべし*****}とあり。6時以降に東寧県公社から「報国農場隊は、国境守備隊と連絡をとり、適宜の行動をとられたし、病弱者は東寧街民と共に避難させるから県公署まで護送それたし 」「学徒勤労隊員「新京一中三年生」の動員を解除するたただちにら県公舎に護送せよ 」の伝令通達が届く
【1】 報国農場隊。 東寧国境守備隊と報国農場隊の終極「北村 幸房氏編集」よれば
「農場では大規模農場経営の習特と食糧増産に希望を燃やしながら、日夜農耕に従事し、内地では得難い大型農業機械の操縦、百数十頭の家畜の飼育管理に若き力を全力灯球してきた。撒種作業から収穫期に入った矢先に、ソ連軍が侵攻してきた。
20年8月9日、伊藤倉吉隊長が引率した病弱者17名の移動待避以外の報国農場隊員は、国境守備隊員司令部内の陣地第785
大隊の指揮下にいつた。ソ連機の機銃掃射と戦車砲ゃ自働小銃による攻撃を受け、又闇の中での肉薄戦などの中で、遂にばらばらになつてしまった、その後の逃避行と捕虜生活、難民帰還の途上などで確認できた者だけでも54名の犠牲者を出した、なを、いまだ10余名の行く目不明者がいる」とある 1号 終わり 2号 後編 次
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引用元 「えびの市史談会市社会教育 【えびの第45号長崎と満州での終戦記 抜粋 大牟田一成著】
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