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満州 長春 [現長春]にて 宮崎県 下牟田 シメ
私は昭和19年4月から満州電信電話局に入社して、3カ月の講習を終えて新京市[現長春]の神京電話局交換係として勤務しました。関口さんも一緒でした。20年8月9、10日頃ソ連機の爆撃がありました。ソ連軍が新京を占領してからは、物品の強奪、婦女子への暴行と危険な怖ろしい毎日でした。私達はボーヅ頭に成り、顔を汚したりして男の格好をし、びくびくした日々でした。
寮には門番の年配の方が、不審・危険な侵入者の時は非常ベルを鳴らすようにしていました。ある日二階で出会い頭のソ連兵に大声を上げて叫びました。ソ連兵は私の腕を引っ張り何かいつていました。後で知りましたが、ソ連の憲兵でソ連兵の見回りにきたのでした。心配ないと言ったのでしょうか、恐怖の一瞬でした。
暫くして治安がいくらかおさまつてから、寮の舎監そんの世話で、満人のキヤンデイーさんに、3人住み込みで働きました、夜は主人のぢいさんの部屋に休ませて私達を守ってくれました。舎監さんが仕入れたタバコを箱にいれ、箱に紐をとおして首にかけ、3人組んで街頭にでてタバコ売りもしました。
寮き食糧不足で、僅かなコーリヤンと味噌の食事でした。栄養失調と、極寒の寒さにたえられず、寮の仲間に死亡者がでました。病院はなく手当てもできず、寮の片隅に埋葬されました。今思うと胸が痛み冥福を祈っています。翌年の21年にはソ連軍と入れ変わった中国軍同士の間で、戦闘が新京の近くでありました。中国の重慶軍と八路軍の戦いだったとききました。寮には開拓団や子供連れの方などが言ってきました。
昭和21年8月。コロ島から、加治木、都城の先輩と貨物船に乗船し、博多港に引き揚げました。玄海灘などで機雷接触の恐れが有るとのことでね船の中では浮き袋を着用し、船を降りる時は頭から白い粉 ddt をかぶりました。故郷の土を踏んだのは8月22日でした。いざとなれば自決して異国の土に果てる覚悟をしていました。
身はたとえ満州野の野辺に果つるとも 操守りし大和撫子
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引用元 「えびの市史談会えびの第45号」 【史談史第45号満州の終戦大牟田
一成手記抜粋】
2011年10月27日木曜日
2011年10月24日月曜日
終戦物語 冬期は猛吹雪
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千島 神奈川県 青木 伸静
北千島列島最北端カムチャツカ半島に隣接する小島、旧名占守島、北方派遣軍防空部隊所属、陸軍兵長【18歳 】冬期は猛吹雪、夏は殆どガスに覆われはれる日は少なく、全て樹木は強風のため地を這う。平時、冬期は無人島であった。
腹切らんと 思いし十八の夏ありき
千島列島「占守島国端 末松 達
独立臼砲大隊附高級軍医、千島海峡を連日荷物満載して通過する米船の数々が詔勅一週間前から全く停止、詔勅後4日ほどしてソ連囚人部隊来襲交戦したが、軍命令により停戦、武装解除、捕虜生活となる、。米船通過停止と北海の特有なうねり、国端海岸へ打ち寄せた激しい白波の凄ましさが一時的にしろ、静かになったのが無気味であつた。
夏の暁囚人兵が 襲い来て
****************ここまで************
引用元 「昭和万葉俳句前書集」 【高木 二郎
千島 神奈川県 青木 伸静
北千島列島最北端カムチャツカ半島に隣接する小島、旧名占守島、北方派遣軍防空部隊所属、陸軍兵長【18歳 】冬期は猛吹雪、夏は殆どガスに覆われはれる日は少なく、全て樹木は強風のため地を這う。平時、冬期は無人島であった。
腹切らんと 思いし十八の夏ありき
千島列島「占守島国端 末松 達
独立臼砲大隊附高級軍医、千島海峡を連日荷物満載して通過する米船の数々が詔勅一週間前から全く停止、詔勅後4日ほどしてソ連囚人部隊来襲交戦したが、軍命令により停戦、武装解除、捕虜生活となる、。米船通過停止と北海の特有なうねり、国端海岸へ打ち寄せた激しい白波の凄ましさが一時的にしろ、静かになったのが無気味であつた。
夏の暁囚人兵が 襲い来て
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引用元 「昭和万葉俳句前書集」 【高木 二郎
2011年10月23日日曜日
終戦物語 零戦36機散華する
***************ここから**************
台湾 福島県 酒井 信
昭和18年より終戦そして復員まで、台南海軍空軍に転属、零戦の整備兵として勤務すす。沖縄戦には、比島より飛来する米軍機の連日の空襲、緒戦遊撃に発進せる36機の零戦は、数百機の敵グラマンと空中戦奮戦するも、衆寡敵せず、台南上空において勇壮なる散華をする。残るあらゆる機は、殆ど特校機として沖縄沖へと、近く終戦となる日も知らず飛び去ったのである。一昨年【昭和58年】台南空戦友会有志により台湾戦戦没慰霊団を結成し、戦没者への鎮魂への旅を実施した。
戦友【とも】の茶毘せし跡 失せて草茂る
台湾 長崎県 小林 誠美
私は昭和20年8月15日、台湾新竹市郊外の林の中で、米軍上陸に備えて陣地作りの穴堀りをしておりました。ぎらぎらと太陽が照り付ける暑い日でした。部隊長から昼に重大放送があるとの伝達があり、終戦をつげられました。ついに来るものがきたという感じて゛、全身から力が抜ける思いでした。町は既に中国の国旗を掲げているところ多く、異状な活気がみなぎっておのました。 陸軍兵長 ゜「無線通信」
竹の春 拳銃を片手に座り込む
***************ここまで************
引用元 「昭和万葉俳句前書集」 【高木 二朗発行】
台湾 福島県 酒井 信
昭和18年より終戦そして復員まで、台南海軍空軍に転属、零戦の整備兵として勤務すす。沖縄戦には、比島より飛来する米軍機の連日の空襲、緒戦遊撃に発進せる36機の零戦は、数百機の敵グラマンと空中戦奮戦するも、衆寡敵せず、台南上空において勇壮なる散華をする。残るあらゆる機は、殆ど特校機として沖縄沖へと、近く終戦となる日も知らず飛び去ったのである。一昨年【昭和58年】台南空戦友会有志により台湾戦戦没慰霊団を結成し、戦没者への鎮魂への旅を実施した。
戦友【とも】の茶毘せし跡 失せて草茂る
台湾 長崎県 小林 誠美
私は昭和20年8月15日、台湾新竹市郊外の林の中で、米軍上陸に備えて陣地作りの穴堀りをしておりました。ぎらぎらと太陽が照り付ける暑い日でした。部隊長から昼に重大放送があるとの伝達があり、終戦をつげられました。ついに来るものがきたという感じて゛、全身から力が抜ける思いでした。町は既に中国の国旗を掲げているところ多く、異状な活気がみなぎっておのました。 陸軍兵長 ゜「無線通信」
竹の春 拳銃を片手に座り込む
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引用元 「昭和万葉俳句前書集」 【高木 二朗発行】
2011年10月20日木曜日
終戦物語 清和開拓団の悲劇
*****************ここから続き**************
清和開拓団
満州の広野に情熱を傾け、村全体で分村計画を推進し、土地財産すべてを処分し家族を引きつれて途満、開墾に苦労を重ねてようやく前途に光明が見え始めた時、再び全てを放棄しなければならなかった開拓団の心境、残された老人や主人を終戦前の根こそぎ召集で応召された家族などの開拓団や義勇隊開拓団、訓練中の青少年義勇隊、報国農場奉仕隊など、ソ連の攻撃、満軍・土匪や現地住民の襲撃に防戦し逃れて山野をほうかいし、雨の中や飢餓と寒さに耐えての難行苦行の逃避行となった。
婦女子の待避移動の為に関東軍に助けを求めたが、2回とも拒否されて、婦女子を引きつれての避難は難しいと判断し、自決に追い込まれた開拓団もあつた。
敗戦
世界各国どんな国でも、軍隊はまず婦女子を保護するのが任務であり、その為に行動している。開拓団や民間人は日本軍に置き去りにされたので有る。
中村幸二郎氏【満拓理事、満州開拓研所長の任にあり戦後は引き揚開拓団民ともに北海道開拓に入植】は「満州開拓の反省」 【ああ満州】に、
今更ながら、いかに反省するも及ばぬことであるが当時の日本には、あの終戦前後の満州大撤収計画を指揮する智将も名参謀をも欠いていていたことである。物質↑
上の損耗は取り戻すことも可能であろうが、開拓事業のみは「人」がそのはじまりで有る。終戦処理に当たって特に開拓関係においては、いかに多くの人命が失われ
、又傷付けられたことか、その損耗をいくらでも低減するために、どれほどの組織と努力とかが払われたで有ろうか。
戦火に失われた損耗は、戦後引揚完了までに払われた「発疹チフス」「栄養失調」とによる人命の大損失であった。特に満州で生まれ満州で育てられた日本人の幼児の壊滅的損耗は現在の日本経済復興を目のあたり見るに当たって、いかに惜しみみてもなを余りあるものがある。
満州の防衛を放棄し、本土決戦一億玉砕ですべてを失うこともせず、只国体が護持されればよいという、自国の領土も国民の生命、財産の保護も二の次であった。
国が亡びるという国運をかけての戦いではなかつた。天皇制が脅かさられるといゆような危険はどこにもなかった戦争で敗北した
*****************ここまで****************
引用元 「えびの市史談会発行第45号」【史談史大牟田一成手記抜粋】
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清和開拓団
満州の広野に情熱を傾け、村全体で分村計画を推進し、土地財産すべてを処分し家族を引きつれて途満、開墾に苦労を重ねてようやく前途に光明が見え始めた時、再び全てを放棄しなければならなかった開拓団の心境、残された老人や主人を終戦前の根こそぎ召集で応召された家族などの開拓団や義勇隊開拓団、訓練中の青少年義勇隊、報国農場奉仕隊など、ソ連の攻撃、満軍・土匪や現地住民の襲撃に防戦し逃れて山野をほうかいし、雨の中や飢餓と寒さに耐えての難行苦行の逃避行となった。
婦女子の待避移動の為に関東軍に助けを求めたが、2回とも拒否されて、婦女子を引きつれての避難は難しいと判断し、自決に追い込まれた開拓団もあつた。
敗戦
世界各国どんな国でも、軍隊はまず婦女子を保護するのが任務であり、その為に行動している。開拓団や民間人は日本軍に置き去りにされたので有る。
中村幸二郎氏【満拓理事、満州開拓研所長の任にあり戦後は引き揚開拓団民ともに北海道開拓に入植】は「満州開拓の反省」 【ああ満州】に、
今更ながら、いかに反省するも及ばぬことであるが当時の日本には、あの終戦前後の満州大撤収計画を指揮する智将も名参謀をも欠いていていたことである。物質↑
上の損耗は取り戻すことも可能であろうが、開拓事業のみは「人」がそのはじまりで有る。終戦処理に当たって特に開拓関係においては、いかに多くの人命が失われ
、又傷付けられたことか、その損耗をいくらでも低減するために、どれほどの組織と努力とかが払われたで有ろうか。
戦火に失われた損耗は、戦後引揚完了までに払われた「発疹チフス」「栄養失調」とによる人命の大損失であった。特に満州で生まれ満州で育てられた日本人の幼児の壊滅的損耗は現在の日本経済復興を目のあたり見るに当たって、いかに惜しみみてもなを余りあるものがある。
満州の防衛を放棄し、本土決戦一億玉砕ですべてを失うこともせず、只国体が護持されればよいという、自国の領土も国民の生命、財産の保護も二の次であった。
国が亡びるという国運をかけての戦いではなかつた。天皇制が脅かさられるといゆような危険はどこにもなかった戦争で敗北した
*****************ここまで****************
引用元 「えびの市史談会発行第45号」【史談史大牟田一成手記抜粋】
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終戦物語 清和開拓団の悲劇
**************ここから**************
清和開拓団【新潟県第七次】全新潟混成の集団開拓団
昭和13年1月ー2月に東安省虎林県青和村に入植し依来順調に営農を進め、ソ侵攻時の在団者656人、応召者144人、合計810だったとされている 。8月9日ソ連侵攻の急報で、馬車を連ねて避難を開始。途中山岳地帯に入り、虎林県の完達嶺義勇開拓団【団員144人】で休息し、宝青街と満人の部落を通過する12日ー13日に満軍と土匪集団と満人の襲撃を受ける。
後続は先頭から5時間遅れており、うしるの婦女子集団は特に死傷者を多くだした。開拓団は死者181名、同行の完達嶺義勇隊開拓団は150人中130名戦死した。
ようやく21日夕方に佐渡開拓団に到着する。28日の事件に遭遇し423人が死亡し、計604名を喪っとている。新潟県で最大の犠牲者をだした開拓団であった。中には一家9人で都満し、父母兄弟妹7人を亡くし、ただ一人悲惨な逃避行をして生還。後に復員してきた兄と只2人だけとなった女性もいた。
**************ここまで続く*************
引用元 「えびの市史談会史談史45号満州と長崎での終戦」
{大牟田一成手記抜粋」
清和開拓団【新潟県第七次】全新潟混成の集団開拓団
昭和13年1月ー2月に東安省虎林県青和村に入植し依来順調に営農を進め、ソ侵攻時の在団者656人、応召者144人、合計810だったとされている 。8月9日ソ連侵攻の急報で、馬車を連ねて避難を開始。途中山岳地帯に入り、虎林県の完達嶺義勇開拓団【団員144人】で休息し、宝青街と満人の部落を通過する12日ー13日に満軍と土匪集団と満人の襲撃を受ける。
後続は先頭から5時間遅れており、うしるの婦女子集団は特に死傷者を多くだした。開拓団は死者181名、同行の完達嶺義勇隊開拓団は150人中130名戦死した。
ようやく21日夕方に佐渡開拓団に到着する。28日の事件に遭遇し423人が死亡し、計604名を喪っとている。新潟県で最大の犠牲者をだした開拓団であった。中には一家9人で都満し、父母兄弟妹7人を亡くし、ただ一人悲惨な逃避行をして生還。後に復員してきた兄と只2人だけとなった女性もいた。
**************ここまで続く*************
引用元 「えびの市史談会史談史45号満州と長崎での終戦」
{大牟田一成手記抜粋」
2011年10月16日日曜日
終戦物語 本隊から孤立し
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蒙古 東京都 的場 武治
保定幹部候補生十三期「内地の予備仕官学校に相当」生、ソ連参戦によりきゅうきよ布定市をさり、八達嶺から蒙古の山中に入り、張家口から侵入するソ連軍遊撃の為谷あいに散開して陣地構築中、終戦となる。約40名「一区隊」本体から孤立し、状況の和からぬまま徹底抗戦、玉砕、自決、浮虜の覚悟あるいわ自重論など様々で、一日一日が深刻な対決を迫られていた。
音信「おと」絶えて方丈の土塁日章旗「はた」降す
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アンダマン諸島 東京都 梅澤 和記男
印度洋アンダマン諸島のポートデレアにて、独立混成部隊の一員として終戦日を迎う、北支よりの
本隊【楓部隊 】は南支那海において敵潜水艦により撃沈され、全滅と聞く。
空に書く 妻子への文遠銀河
****************************
インドネシヤ・セラム島 群馬県 中澤 文次郎
濠北方方面参謀部通信調査隊隊員として、当時セラム島にありて、時に甘蔗作りなどせり、終戦前夜此の島玉砕との情報もいりて、我等死を決意せり、しかるにこの終戦報に接し、血涙とめどなし、往時既に茫々
。
椰子炎えて 涙の煮ゆる孤島かな
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引用元 「昭和万葉俳句前書集」 【高木 二朗発行】
蒙古 東京都 的場 武治
保定幹部候補生十三期「内地の予備仕官学校に相当」生、ソ連参戦によりきゅうきよ布定市をさり、八達嶺から蒙古の山中に入り、張家口から侵入するソ連軍遊撃の為谷あいに散開して陣地構築中、終戦となる。約40名「一区隊」本体から孤立し、状況の和からぬまま徹底抗戦、玉砕、自決、浮虜の覚悟あるいわ自重論など様々で、一日一日が深刻な対決を迫られていた。
音信「おと」絶えて方丈の土塁日章旗「はた」降す
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アンダマン諸島 東京都 梅澤 和記男
印度洋アンダマン諸島のポートデレアにて、独立混成部隊の一員として終戦日を迎う、北支よりの
本隊【楓部隊 】は南支那海において敵潜水艦により撃沈され、全滅と聞く。
空に書く 妻子への文遠銀河
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インドネシヤ・セラム島 群馬県 中澤 文次郎
濠北方方面参謀部通信調査隊隊員として、当時セラム島にありて、時に甘蔗作りなどせり、終戦前夜此の島玉砕との情報もいりて、我等死を決意せり、しかるにこの終戦報に接し、血涙とめどなし、往時既に茫々
。
椰子炎えて 涙の煮ゆる孤島かな
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引用元 「昭和万葉俳句前書集」 【高木 二朗発行】
2011年10月13日木曜日
終戦物語 通信筒が終戦を知らせた
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フイリッピン-ルソン島 北海道 太田 信義
ルソン島山中にて、何日も続いた砲撃がピタリと止んで半月も過ぎた頃、日の丸鮮やかなトンボ飛行機からの通信筒が終戦を知らせてくれた。それまでの間、山中では乏しい食料を食い繋ぐが精いっぱい、湯飲茶碗一杯の米に雑草の若葉を混ぜて、日没を待ち、集めた古木でお粥にし、翌日の三食に充てる日が続いた。
灼熱下 マラリヤの友に経を読む
******************************
カンボジアにて 東京都 洗居 三男
空の先駆けたわむらと、共に誓い励まし合った仲間達が幽明を異にして、今日この日「終戦」を迎え様とは、灼熱の空せ血に染めて幾千の将兵が散華した激戦の「ビルマ」から、仏印プノンペン飛行場への転身を余儀なされ同地で終戦となる。元陸軍航空兵。
幾千の魂魄真白灼くる空
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引用元 「昭和万葉俳句前書集」 【高木 二朗発行】
フイリッピン-ルソン島 北海道 太田 信義
ルソン島山中にて、何日も続いた砲撃がピタリと止んで半月も過ぎた頃、日の丸鮮やかなトンボ飛行機からの通信筒が終戦を知らせてくれた。それまでの間、山中では乏しい食料を食い繋ぐが精いっぱい、湯飲茶碗一杯の米に雑草の若葉を混ぜて、日没を待ち、集めた古木でお粥にし、翌日の三食に充てる日が続いた。
灼熱下 マラリヤの友に経を読む
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カンボジアにて 東京都 洗居 三男
空の先駆けたわむらと、共に誓い励まし合った仲間達が幽明を異にして、今日この日「終戦」を迎え様とは、灼熱の空せ血に染めて幾千の将兵が散華した激戦の「ビルマ」から、仏印プノンペン飛行場への転身を余儀なされ同地で終戦となる。元陸軍航空兵。
幾千の魂魄真白灼くる空
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引用元 「昭和万葉俳句前書集」 【高木 二朗発行】
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