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絵柳 益夫様 宮崎県
陸軍 海軍に志願する。海軍より合格通知が早くきた。そして後から陸軍よりも通知があった。昭和20年6月13日
栗下を後にする。加久籐1名 真幸2名だった。6月15日奈良航空隊に少年航空兵として入隊。7月頃から空襲が激しくなる。20年8月15日、奈良航空隊練兵場に全員集合して天皇陛下のラジオ放送を聞く。一同声無く胸中張りさけるものあり、
全国より志願せし第64分隊245人を集め、国の再建は君達にあると分隊長の訓辞があり、滅私 奉公 国に殉する事無く一週間かかって栗下に復員する。
.帰路貨車であったがあったが広島の原爆の跡を垣間見る事が出来て其の光景は忘れる事はできない。近所の山林に石川部隊こが残留していた。空に雲を引いて飛ぶ
B29 を見上げ、何か空しい気持ちとなる。宮崎空港 今の赤江などで作ぎように従した事が思い出される、復員後は家で農業にはげんだ。昭和61年栗下区民生委員を拝命、戦後を支えた人達も高齢者となられ、これからは福祉社会への杖となる事を願った。氏は長年の民政委員として市より特別表彰をうけられました。
現在もご 元気にて区民の信望を得ましてご活躍されておられます
「私の終戦」長谷著者より
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2011年6月30日木曜日
2011年6月28日火曜日
終戦物語
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子供達に竹細工を教える
軍歴 海軍佐世保機関兵入隊、現役で入隊駅前で多数の見送り有り、代表で挨拶した事が今でも忘れる事が出来ない。海軍は軍艦で甲板掃除が大変だった。250メートルの甲板洗い、竹ムチできたえられた。空襲は度々あった、軍艦でなく近くの工場が被弾した。幾度か乗船をくりかえした。出て行く船は途中で撃沈された様だ。制空権がないので大勢の戦友が死んだ。千人針の腹巻を巻生きては帰らじ
と決意で行ったが、途中で船が満員になり3回家に帰った。3回の帰省で終戦を家でむかえた。家の付近には大阪の兵隊が沢山いた
生前
は高齢者クラブ会員として、育成会との交流には積極的に参加されましてその竹を利用した物作りには、子供達には素晴らしい経験を与えました故人となられましたが、其の冥福をお祈りいたします。
「私の終戦」著者長谷敏通
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茨城県 竹川 浩様
私は昭和19年9月、宇都宮東部第40部隊に入隊、野砲隊として、厳しい訓練を受け、終戦当日は、栃木県下都賀郡奈佐原に駐屯していた。終戦の玉音は、村の中学校で拝聴した。この時慟哭し、自刃をはかった若き中尉をわすれない。
鞘はしる自刃の将の剣の露
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昭和万葉俳句前書集 編集マルホ株式会社発行者高木二朗より引用
終戦当日の混乱がいかに大きな衝撃を与えたか、胸詰まる思いです .長谷
子供達に竹細工を教える
軍歴 海軍佐世保機関兵入隊、現役で入隊駅前で多数の見送り有り、代表で挨拶した事が今でも忘れる事が出来ない。海軍は軍艦で甲板掃除が大変だった。250メートルの甲板洗い、竹ムチできたえられた。空襲は度々あった、軍艦でなく近くの工場が被弾した。幾度か乗船をくりかえした。出て行く船は途中で撃沈された様だ。制空権がないので大勢の戦友が死んだ。千人針の腹巻を巻生きては帰らじ
と決意で行ったが、途中で船が満員になり3回家に帰った。3回の帰省で終戦を家でむかえた。家の付近には大阪の兵隊が沢山いた
生前
は高齢者クラブ会員として、育成会との交流には積極的に参加されましてその竹を利用した物作りには、子供達には素晴らしい経験を与えました故人となられましたが、其の冥福をお祈りいたします。
「私の終戦」著者長谷敏通
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茨城県 竹川 浩様
私は昭和19年9月、宇都宮東部第40部隊に入隊、野砲隊として、厳しい訓練を受け、終戦当日は、栃木県下都賀郡奈佐原に駐屯していた。終戦の玉音は、村の中学校で拝聴した。この時慟哭し、自刃をはかった若き中尉をわすれない。
鞘はしる自刃の将の剣の露
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昭和万葉俳句前書集 編集マルホ株式会社発行者高木二朗より引用
終戦当日の混乱がいかに大きな衝撃を与えたか、胸詰まる思いです .長谷
2011年6月27日月曜日
終戦物語郷土終戦語り
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郷土の部隊、都城23連隊後西部17部隊「宮崎県」は中国各地での戦闘に参加、昭和18年にはソロモン群島のブ-ゲンビルへ転進し、ここで多くの戦死も者を出していいる。「筆者の義兄北野與三朗大尉機関銃隊戦死宮崎県西諸方郡加久藤村終戦当時住所」 西川北地区「加久藤村の地区名」では、明治35年生まれから昭和5年生まれの少年兵まで、地区228名の男子の内1136名『6割」が出征し、その内27%が戦死いている。特に大正生まれれは7割が召集を受け、其の4分の一が戦死している。4月には本土決戦に備えて満州から国部隊が西諸全土に配置され、様々な軍への協力をしてきた、又60歳位上の年寄りまで、都城志和池の飛工場作りに動員されている。物資欠乏の為真幸村は塩田開発隊を組織し、西川北からも代表が出て、宮崎の広瀬の海へ2回出かけたが、米軍のグラマンが頭上を飛び回つて、使命を果たさずに帰ってきている。8月には小林で戦闘隊の結成式があり、女の人も竹槍訓練にかりだされていた。「竹槍は戦国時代、本能寺の変のあと土民に襲われた明智光秀の頃の話である」衛生状態も悪く8月には地区に赤痢が発生し、死者まで出ている。
昭和20年の平均寿命男性23,90歳 女性37,50歳という数字は、戦場で、空襲で又乏しい食料,医療の中で死んでいった若者や幼い命の故である。今日繁栄のもとに、どれだけ多くの犠牲があったか、戦後60年を過ぎて知る人も少なくなった極寒のシベリヤで、熱帯の密林で尊い命を落とした人が、現在の我々の暮らしを見たら極楽浄土に見えるだろう。
いじめや自殺が話題となっている今、戦争を知っている高齢者はもっと若者や子供達に昔の話をしてやるべきではなかろうか。
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「えびの第45号」創立40周年記念号「発行者 えびの市史談会記事引用
【山下常昌氏紹介】
第八代の史談会長は、温厚な人柄で、「人に頼まれれば、いやの出来ない性格で・・・・」と云われるように、史談会の会長も快く引き受けていただき六年間も会の為に尽力していただきました。
その間にもえびの市社会福祉協議会の依頼を受けて、「えびの福祉作業所」の設立に尽力され、立ち上げられると、初代所長として運営に努力され、当初、飯野中央公民館の南にあった場所から、大明司保育所の跡に移転され、事業を軌道にのせられました。
また西川北の民謡芸能である「鏡とぎ踊り」を福活、子供達に継承されるなど、多方面にわたって尽力され、其の功績が認められて、平成22年の「えびの市制40周年記念式」で教育・文化部門の功労者として表彰をうけられました。
なをこの時、えびの市史談も表彰を受けました。長谷も「私の終戦」の発行に当たり 「発刊によせて」と有難い祝文をいただきました。
郷土の部隊、都城23連隊後西部17部隊「宮崎県」は中国各地での戦闘に参加、昭和18年にはソロモン群島のブ-ゲンビルへ転進し、ここで多くの戦死も者を出していいる。「筆者の義兄北野與三朗大尉機関銃隊戦死宮崎県西諸方郡加久藤村終戦当時住所」 西川北地区「加久藤村の地区名」では、明治35年生まれから昭和5年生まれの少年兵まで、地区228名の男子の内1136名『6割」が出征し、その内27%が戦死いている。特に大正生まれれは7割が召集を受け、其の4分の一が戦死している。4月には本土決戦に備えて満州から国部隊が西諸全土に配置され、様々な軍への協力をしてきた、又60歳位上の年寄りまで、都城志和池の飛工場作りに動員されている。物資欠乏の為真幸村は塩田開発隊を組織し、西川北からも代表が出て、宮崎の広瀬の海へ2回出かけたが、米軍のグラマンが頭上を飛び回つて、使命を果たさずに帰ってきている。8月には小林で戦闘隊の結成式があり、女の人も竹槍訓練にかりだされていた。「竹槍は戦国時代、本能寺の変のあと土民に襲われた明智光秀の頃の話である」衛生状態も悪く8月には地区に赤痢が発生し、死者まで出ている。
昭和20年の平均寿命男性23,90歳 女性37,50歳という数字は、戦場で、空襲で又乏しい食料,医療の中で死んでいった若者や幼い命の故である。今日繁栄のもとに、どれだけ多くの犠牲があったか、戦後60年を過ぎて知る人も少なくなった極寒のシベリヤで、熱帯の密林で尊い命を落とした人が、現在の我々の暮らしを見たら極楽浄土に見えるだろう。
いじめや自殺が話題となっている今、戦争を知っている高齢者はもっと若者や子供達に昔の話をしてやるべきではなかろうか。
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「えびの第45号」創立40周年記念号「発行者 えびの市史談会記事引用
【山下常昌氏紹介】
第八代の史談会長は、温厚な人柄で、「人に頼まれれば、いやの出来ない性格で・・・・」と云われるように、史談会の会長も快く引き受けていただき六年間も会の為に尽力していただきました。
その間にもえびの市社会福祉協議会の依頼を受けて、「えびの福祉作業所」の設立に尽力され、立ち上げられると、初代所長として運営に努力され、当初、飯野中央公民館の南にあった場所から、大明司保育所の跡に移転され、事業を軌道にのせられました。
また西川北の民謡芸能である「鏡とぎ踊り」を福活、子供達に継承されるなど、多方面にわたって尽力され、其の功績が認められて、平成22年の「えびの市制40周年記念式」で教育・文化部門の功労者として表彰をうけられました。
なをこの時、えびの市史談も表彰を受けました。長谷も「私の終戦」の発行に当たり 「発刊によせて」と有難い祝文をいただきました。
2011年6月25日土曜日
2011年6月24日金曜日
終戦 物語 空襲と戦闘による者続き
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宮崎県 山下常昌様
郷土では
郷土の部隊、都城23連隊後西部17部隊は中国各地での戦闘に参加、昭和18年にはソロモン群島のブ-ゲンビルへ転進し、ここで多くの犠牲者を出して居る【私長谷の義兄陸軍大尉北野與三朗ブ-ゲンビル島トロキナにて戦死】西川北地区では、明治35年生まれから昭和5年生まれの少年兵まで、地区228名の男子内136名6割が出征し、その内37名 27%
宮崎県 山下常昌様
郷土では
郷土の部隊、都城23連隊後西部17部隊は中国各地での戦闘に参加、昭和18年にはソロモン群島のブ-ゲンビルへ転進し、ここで多くの犠牲者を出して居る【私長谷の義兄陸軍大尉北野與三朗ブ-ゲンビル島トロキナにて戦死】西川北地区では、明治35年生まれから昭和5年生まれの少年兵まで、地区228名の男子内136名6割が出征し、その内37名 27%
2011年6月23日木曜日
終戦 物語 空襲 戦闘での死者
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宮崎県 山下常昌様
平成3年、東大の図書館にねむっていた秋丸機関の名が初めて世にでた。其の秋丸機関の予言よりも早く、開戦後1年を経ず敗戦のきざしは見え始めていたここで改めて昭和20年を振り返ってみる。昭和史年表によると大本営は240万の防備隊を編成して本土決戦の準備を始めた 3月334機のB29、東京を空襲、死者84,000人 罹災者150万人 消失戸数23万戸 主要都市への無差別爆撃がはじまった。都市の内40%が焼かれ、25%の住宅が焼失し、空襲による死者・行方不明33万人 負傷者34万人 焼け出された人は880万人にもなった。東京空襲での死者84、000人はえびの市23,000人 小林市40,000人 高原町10,000人 野尻町8,500人の合計よりも多い数である。これだけの死者はどのように処理されたのだろうか、年表によると、3月、形政憤激挺身隊「囚人141人で組織」、錦糸公園付近の戦災遺体処理に初出動、一穴200体収容の大穴10個を作り、遺体をトラックで搬入し、埋葬と有る。
おそらく全国主要都市での空襲による死者33万人も同じように処理されたで有ろう。・3月、政府、「決戦教育措置要項」で、国民学校初等科以外の授業を4月から1年間停止。・4月、米軍、沖縄本島に上陸開始。・6月、沖縄前戦で、負傷兵看護に従事した師範女子部と第一高女の生徒49人が集団自決「沖縄戦での集団自決があい次ぐ」6月、沖縄での日本軍全滅、軍人軍属の死者12万人、一般県民の死者約17万。・6月 義勇兵役交布本土決戦に供え、男子15-60歳、女17-40歳の者を国民義勇戦闘隊に編成。8月、広島に原爆投下、「年末までの死者推定14万人」、8月ソ連、日本に宣戦布告、満州へ進撃開始、関東軍75万のうち捕虜50万人、8月、長崎に原爆投下、゜「年末までの死者7万人+-1万人。
此の大戦での犠牲者
戦死者・行方不明者 186万人
負傷者 468万人
一般市民の死傷者 67万人
前編終わり 著者山下常昌 「えびの第41号」発行者えびの史談会より引用
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宮崎県 山下常昌様
平成3年、東大の図書館にねむっていた秋丸機関の名が初めて世にでた。其の秋丸機関の予言よりも早く、開戦後1年を経ず敗戦のきざしは見え始めていたここで改めて昭和20年を振り返ってみる。昭和史年表によると大本営は240万の防備隊を編成して本土決戦の準備を始めた 3月334機のB29、東京を空襲、死者84,000人 罹災者150万人 消失戸数23万戸 主要都市への無差別爆撃がはじまった。都市の内40%が焼かれ、25%の住宅が焼失し、空襲による死者・行方不明33万人 負傷者34万人 焼け出された人は880万人にもなった。東京空襲での死者84、000人はえびの市23,000人 小林市40,000人 高原町10,000人 野尻町8,500人の合計よりも多い数である。これだけの死者はどのように処理されたのだろうか、年表によると、3月、形政憤激挺身隊「囚人141人で組織」、錦糸公園付近の戦災遺体処理に初出動、一穴200体収容の大穴10個を作り、遺体をトラックで搬入し、埋葬と有る。
おそらく全国主要都市での空襲による死者33万人も同じように処理されたで有ろう。・3月、政府、「決戦教育措置要項」で、国民学校初等科以外の授業を4月から1年間停止。・4月、米軍、沖縄本島に上陸開始。・6月、沖縄前戦で、負傷兵看護に従事した師範女子部と第一高女の生徒49人が集団自決「沖縄戦での集団自決があい次ぐ」6月、沖縄での日本軍全滅、軍人軍属の死者12万人、一般県民の死者約17万。・6月 義勇兵役交布本土決戦に供え、男子15-60歳、女17-40歳の者を国民義勇戦闘隊に編成。8月、広島に原爆投下、「年末までの死者推定14万人」、8月ソ連、日本に宣戦布告、満州へ進撃開始、関東軍75万のうち捕虜50万人、8月、長崎に原爆投下、゜「年末までの死者7万人+-1万人。
此の大戦での犠牲者
戦死者・行方不明者 186万人
負傷者 468万人
一般市民の死傷者 67万人
前編終わり 著者山下常昌 「えびの第41号」発行者えびの史談会より引用
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2011年6月21日火曜日
終戦 物語 敗戦 復員 父の死
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20年8月15日 全員にて敗戦を聞く。交戦を主帳する声大なるも大勢は無条件降伏の止む無きに至る。一時現地人不穏な空気あれど大きな混乱はありませんでししたた。武装解除は平穏にイギリス軍の立合でした。驚いた事に婦人の軍人が多い事でした兵隊は黒人兵でした。半年ばかし食べる事に苦労しましたが、後から改善されました。二年以上の抑留でしたが、使役は 荷揚 便所汲み 道路作り 洗濯でした。必勝を信じ若き血潮を祖国に捧げんと国を後にしましたが果たせず、22年10月1日シンガポ-ルで復員船に10月14日、宇治港上陸して無事復員し現在に至っております。
父の死
南方に出撃前国富の宿に父が面会にきました。滅私奉公生きて帰らじと涙をながして励ましてくれました。今子を持つ身となり私自身頼りの子供 (宇宙に衛星打ち上げ業務)優秀な青年でした病にて早く無くなりました」を無くした今励ましてくれた父の胸中を思い複雑な気持ちです。命長らえ帰還せしも父の姿無く私の命と
換であったとしか思われません。復員後宮崎復員局より通知が有り引揚金支払を受け取りに妹と出かけました。宮崎は焼け野原でした。支払金は以外に少く妹との約束どころか帰りの旅費もやっとで帰る事ができました。終わります。
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(私の終戦 2) 長谷敏通著
20年8月15日 全員にて敗戦を聞く。交戦を主帳する声大なるも大勢は無条件降伏の止む無きに至る。一時現地人不穏な空気あれど大きな混乱はありませんでししたた。武装解除は平穏にイギリス軍の立合でした。驚いた事に婦人の軍人が多い事でした兵隊は黒人兵でした。半年ばかし食べる事に苦労しましたが、後から改善されました。二年以上の抑留でしたが、使役は 荷揚 便所汲み 道路作り 洗濯でした。必勝を信じ若き血潮を祖国に捧げんと国を後にしましたが果たせず、22年10月1日シンガポ-ルで復員船に10月14日、宇治港上陸して無事復員し現在に至っております。
父の死
南方に出撃前国富の宿に父が面会にきました。滅私奉公生きて帰らじと涙をながして励ましてくれました。今子を持つ身となり私自身頼りの子供 (宇宙に衛星打ち上げ業務)優秀な青年でした病にて早く無くなりました」を無くした今励ましてくれた父の胸中を思い複雑な気持ちです。命長らえ帰還せしも父の姿無く私の命と
換であったとしか思われません。復員後宮崎復員局より通知が有り引揚金支払を受け取りに妹と出かけました。宮崎は焼け野原でした。支払金は以外に少く妹との約束どころか帰りの旅費もやっとで帰る事ができました。終わります。
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(私の終戦 2) 長谷敏通著
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