2011年6月23日木曜日

終戦 物語 空襲 戦闘での死者

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宮崎県   山下常昌様
平成3年、東大の図書館にねむっていた秋丸機関の名が初めて世にでた。其の秋丸機関の予言よりも早く、開戦後1年を経ず敗戦のきざしは見え始めていたここで改めて昭和20年を振り返ってみる。昭和史年表によると大本営は240万の防備隊を編成して本土決戦の準備を始めた 3月334機のB29、東京を空襲、死者84,000人 罹災者150万人 消失戸数23万戸 主要都市への無差別爆撃がはじまった。都市の内40%が焼かれ、25%の住宅が焼失し、空襲による死者・行方不明33万人 負傷者34万人 焼け出された人は880万人にもなった。東京空襲での死者84、000人はえびの市23,000人 小林市40,000人 高原町10,000人 野尻町8,500人の合計よりも多い数である。これだけの死者はどのように処理されたのだろうか、年表によると、3月、形政憤激挺身隊「囚人141人で組織」、錦糸公園付近の戦災遺体処理に初出動、一穴200体収容の大穴10個を作り、遺体をトラックで搬入し、埋葬と有る。

おそらく全国主要都市での空襲による死者33万人も同じように処理されたで有ろう。・3月、政府、「決戦教育措置要項」で、国民学校初等科以外の授業を4月から1年間停止。・4月、米軍、沖縄本島に上陸開始。・6月、沖縄前戦で、負傷兵看護に従事した師範女子部と第一高女の生徒49人が集団自決「沖縄戦での集団自決があい次ぐ」6月、沖縄での日本軍全滅、軍人軍属の死者12万人、一般県民の死者約17万。・6月 義勇兵役交布本土決戦に供え、男子15-60歳、女17-40歳の者を国民義勇戦闘隊に編成。8月、広島に原爆投下、「年末までの死者推定14万人」、8月ソ連、日本に宣戦布告、満州へ進撃開始、関東軍75万のうち捕虜50万人、8月、長崎に原爆投下、゜「年末までの死者7万人+-1万人。

此の大戦での犠牲者
戦死者・行方不明者    186万人
負傷者          468万人
一般市民の死傷者      67万人

前編終わり 著者山下常昌 「えびの第41号」発行者えびの史談会より引用



  

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