中国軍の将校が立ち並ぶ、日本軍の武装解除だった、持ち物は全部
足もとに並べられた。敵将校の厳しい目が通り過ぎる、小銃の菊の紋
はヤスリで消されていて最早日本軍の姿はなかった、昭和16年2月
熊本連隊に現役で入隊。訓練する間も無く門司港より大連港に上陸、
工兵隊として幾度の戦闘に参加休む日も無い連日の空襲、祖国の必勝
を信じた多くの戦友をうしなつた、果てしない行軍幾百里に並べられた
物は何だったか、敗戦とは気持の切替は厳しいものが有り、荒れた兵隊
もいました、日が流れましたがなんとシラミのの大軍には皆手をあげました、
シラミ取りが大きな仕事でした、シラミで熱がでて、亡くなった人もおりました、
揚子江を多数の小舟で下り、上海から鹿児島に引き揚る開門岳が見えた時
の船内の喜びは何物にも代え難い祖国へ生きてかえつた喜びの叫びでした。
昭和21年6月 鹿児島上陸 語り人は天寿を全うされました
ご冥福をお祈り申し上げます 「私の終戦」より 長谷
終戦の年の札幌は冷夏で、主食の遅配が2か月余となり、野菜の雑炊が主
であった、当時勤務していた軍需工場で炎昼に詔勅を聴き、其の3日後。義兄
が千葉で兵隊に訓辞後自決した、私のすぐ上の兄は未帰還で、兄を待ちつつ
母は逝った。 米軍に母校は接収終戦日 茨城市 小林 幸子 様
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