戦争は負けるとは思いもしなかった、何も無い時代だったが、朝から遅くまで
今思えばよく働いた毎日だった、戦争が終わり米で品物が手にいる様に成った、
買出しの人がよくくるものだった、家に一人居たとき、都会の人と分かる品の良い
若い婦人が襟巻と米と替えてくれと拝むように幾度も頭を下げた、品物は田舎で
は手に入らない良い物だったがまだ嫁の身、貴重な米には手を入れる事は許さ
れる時代では無かった、此の歳に為り子供、孫達に囲まれ過ごす事の出来る身
となりましたが、ふとあの時の事が思いだされます、世の中が変わりましたが、
年寄には有難い世と成りました
私の終戦 平成18年編集 長谷 敏通より引用
昭和20年7月14日15日 両日に渡って米軍艦載機のしっような攻撃に、釧路
市の中心部は灰燼に帰し、国鉄鋼材や港湾施設も多大な損害を受けた、
旭国民学校を初め、焼失した建物面積25万平方メートル 死者183人 負傷者
273人 焼失 倒壊家屋1396戸、被害者6211人に達し、他に多くの汽船
魚船 の沈没も少なくなかつた、其れから一か月8月15炎天の中で、天皇陛下
の終戦放送を聴いた、当時父は軍属として、北千島にあり、私は7人姉妹の長女
として、港湾事所に勤務していた 炎天に父母塊となり野を耕す引用元 『昭和20年8月15日を詠う 昭和万葉俳句前書集』
発行者 高木二郎
発行所 マルホ株式会社
0 件のコメント:
コメントを投稿