2011年12月24日土曜日

終戦物語

いろんな 事があり暫く休んでいましたが又新しい気持で書いてゆこうとパソコンに向かいました、今年もあと少し何とか歳を越えてむかえる新年に挑戦していきます。


老いたれど 戦のかたり ブログにて 命ささげし 戦友のおもいを

20歳で入隊 ひと月ばかしで終戦 シベリヤ抑留3年 過ぎ去りし年月を振りかうれば
全て夢の様です、今では多くの戦友 友人もなくなり 昔を語る友もなく 複雑な思いです、86歳

2011年12月9日金曜日

終戦物語 市街の殆どが焼きつくされ

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東京都   高瀬 吉佐子

終戦、それは市街の殆どが焼き尽くされた熊本市大空襲の5日後の事である。まだくすぶる我が焼け跡に両親と佇み、私は女学生2年。両親の号泣が耳に残ります。

玉音を賜ふ 焦土の盃蘭盆会


大阪府  山名 又助

昭和20年8月私は、熊本市御船町小学校にて、歩兵第522連隊第一大隊長として。本土防衛の任に付いていた。8月1日小学校は爆撃をうけ、20数名の戦死者を出した。15日遺骨をもって御船駅にて終戦の玉音を拝聴した。

蓑虫も 泣きしか8月15日


熊本県  西村 行夫

当時、日本通運宇土営業所長。数日前の空襲で鹿児島本線緑川鉄橋が落ち、列車不通。トラックを持っていたので、闇の食料をあさって来ては、分け合うるのが仕事だった。夕刻非常呼集して、終戦を伝えた。兄が沖縄で戦死していた事も、当時は知らなかった

吾の召集 なきを妻言う汗も拭わず

兵庫県  吉田 陽美  

昭和20年6月10日、鹿児島18部隊【歩兵】に入隊、沖縄決戦出動の為の訓練を受けていたが、戦局不利になって急遽熊本県八代の山奥の農村に駐屯して、本土決戦に備えて、山腹の壕堀をしていた。食糧難で、甘蔗が常食の毎日であった。

崩れしわ 不滅の神話敗戦忌


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引用元   「昭和万葉俳句前書集」   【高木 二朗発行】

2011年12月5日月曜日

終戦物語 皆死必殺を期しながら

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大阪府   川淵 勇

鹿児島県岩川海軍航空隊鉾  部隊淡路隊で防空隊勤務。25ミリ機銃員として空戦闘を行このう。8月15日の終戦も知らされず訓練を行う。又、戦死した戦友を数多く茶毘に付した。 

敵機去り ほっと一息蝉の声


新潟県   渡辺 賢一

終戦の日、私わ鹿屋海軍航空隊で神雷特別攻撃隊として即時待機の命を受けていた。飛行機は7機在るのみ、終日無気味な沈黙が続いた。なお、終戦を知らされたの
は17日であった。当時私は予備学生出身の零戦搭乗員であった。

待命下 蟻と戯る特攻兵


福岡県   鹿児島 泰蔵

8月15日早朝、薩摩半島伊作町と谷山町を結ぶ国道植上の杉林の中に在る野営地を出發して、池田湖畔の軍弾薬集積所に向かった時の」弾薬受領」という武者震いにも似た、緊張感は、終戦の聖勅と共に一方も無く崩れ、放心にもにた気持で帰途を急ぐ。何で負けたのか、やはり物量戦に惨敗だ。苦やし涙が込み上げてくる 。最初の応召で中支、北支を駆け回った記憶がよみがえる。二度目の応召は原隊で、そして三度の応召に******ささやかな私一人の軍歴が泡の様に消え去った。これからの日本はどうなるのか。故郷の年老いた両親をどう護ってゆけばよいのか。そして自分は。

終戦日 消えし手牒の兵事歴
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故郷の年老いた両親を案ずる気持に 私は涙が出ました、親思う心に歳を重ねて有難く感謝あるのみです


引用元  「昭和万葉俳句前書集」 【高木 二朗発行】

2011年12月4日日曜日

終戦物語 走り書きの意書

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徳島県  園田 とく子

内務省勤めの夫は広島に単身赴任で、幼い4人の子供達と徳島県那賀郡富岡町(現阿南市)にいた私は、広島とは何んの連絡もとれぬまま、終戦日を迎えました。私のくるのをひたすら待ちながら、終戦から10日後にこの世去った夫の意書は、紙切れに鉛筆のうすれた走り書きでした。終戦がもう10日はやかったら*******といっも思います

敗戦日 ただ抱きしめし末っ子よ


奈良県   森 博

昭和20年8月15日いた場所、徳島県麻植郡鴨島町喜来365番地。私は中学生であつたが、出征して人出が不足している農家へ勤労奉仕に行っていた。その日教師
は、生徒に休戦になったといった。誰かが戦争に負けたのだといった。負けたなどといつたら、憲兵にひっぱられるのでないかとおもった。

終戦日 玉音聞いて口噛む


兵庫県  松谷 俊弘

徳島市場町の特攻基地で玉音を聴いた。予科練(13期甲)を松山航空隊で卒え、徳島海軍航空隊に転勤後、滑走路1本だけのこの基地勤務となった。敗戦を知った後は同僚たちと、ただやけ酒をあふるだけだった。

武装解かれ 積まれた基地の蝉時雨

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引用元 「昭和万葉俳句前書集」  【高木 二郎発行】

2011年12月3日土曜日

終戦物語 修羅場とは

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徳島県  大野 文平

山口県光工廠にて徴用工員として再三敵機の攻撃を受けしも、8月8日の正午敵機二00の襲来に遭い、五万の徴用工員右往左往、数千人の死傷者を出し、夏の列風にあふらるる世の修羅場とはこんな事か、嗚呼終篇の地ならんや。 

茶毘に 付す僚友夏の夜も三日

徳島県  樫本 浩三

山口県光海軍病院入院中、八月一四日午後一時に光工廠が空襲を受けた。八月一五日は病者に取っては看護婦代わりの戦場みたいな状況で、記憶によると、この二、三日は血と水を欲しがる傷者のうめきは棲ざましきもので、玉音放送は全然しらず。

向日葵や 傷者に水をやる病者

大分県  福田 重己

当日、下関市は二度の焼夷弾空襲で焦土と化ししたるも、安徳天皇の御陵だけのこる。北浦の日本海、玄海灘は魚雷空爆で、艦船の沈没波にさらわる。関門海峡は、
当時は隔日置きに魚雷降下のb29に来襲され、終戦後もしばしば触雷轟沈するものありし。私、下関機関区(鉄道)在

触雷に 船や逆立つ終戦日

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引用元  「昭和万葉俳句前書集」  (高木 二朗発行)