2011年12月9日金曜日

終戦物語 市街の殆どが焼きつくされ

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東京都   高瀬 吉佐子

終戦、それは市街の殆どが焼き尽くされた熊本市大空襲の5日後の事である。まだくすぶる我が焼け跡に両親と佇み、私は女学生2年。両親の号泣が耳に残ります。

玉音を賜ふ 焦土の盃蘭盆会


大阪府  山名 又助

昭和20年8月私は、熊本市御船町小学校にて、歩兵第522連隊第一大隊長として。本土防衛の任に付いていた。8月1日小学校は爆撃をうけ、20数名の戦死者を出した。15日遺骨をもって御船駅にて終戦の玉音を拝聴した。

蓑虫も 泣きしか8月15日


熊本県  西村 行夫

当時、日本通運宇土営業所長。数日前の空襲で鹿児島本線緑川鉄橋が落ち、列車不通。トラックを持っていたので、闇の食料をあさって来ては、分け合うるのが仕事だった。夕刻非常呼集して、終戦を伝えた。兄が沖縄で戦死していた事も、当時は知らなかった

吾の召集 なきを妻言う汗も拭わず

兵庫県  吉田 陽美  

昭和20年6月10日、鹿児島18部隊【歩兵】に入隊、沖縄決戦出動の為の訓練を受けていたが、戦局不利になって急遽熊本県八代の山奥の農村に駐屯して、本土決戦に備えて、山腹の壕堀をしていた。食糧難で、甘蔗が常食の毎日であった。

崩れしわ 不滅の神話敗戦忌


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引用元   「昭和万葉俳句前書集」   【高木 二朗発行】

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