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東京都 高瀬 吉佐子
終戦、それは市街の殆どが焼き尽くされた熊本市大空襲の5日後の事である。まだくすぶる我が焼け跡に両親と佇み、私は女学生2年。両親の号泣が耳に残ります。
玉音を賜ふ 焦土の盃蘭盆会
大阪府 山名 又助
昭和20年8月私は、熊本市御船町小学校にて、歩兵第522連隊第一大隊長として。本土防衛の任に付いていた。8月1日小学校は爆撃をうけ、20数名の戦死者を出した。15日遺骨をもって御船駅にて終戦の玉音を拝聴した。
蓑虫も 泣きしか8月15日
熊本県 西村 行夫
当時、日本通運宇土営業所長。数日前の空襲で鹿児島本線緑川鉄橋が落ち、列車不通。トラックを持っていたので、闇の食料をあさって来ては、分け合うるのが仕事だった。夕刻非常呼集して、終戦を伝えた。兄が沖縄で戦死していた事も、当時は知らなかった
吾の召集 なきを妻言う汗も拭わず
兵庫県 吉田 陽美
昭和20年6月10日、鹿児島18部隊【歩兵】に入隊、沖縄決戦出動の為の訓練を受けていたが、戦局不利になって急遽熊本県八代の山奥の農村に駐屯して、本土決戦に備えて、山腹の壕堀をしていた。食糧難で、甘蔗が常食の毎日であった。
崩れしわ 不滅の神話敗戦忌
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引用元 「昭和万葉俳句前書集」 【高木 二朗発行】
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