2011年12月3日土曜日

終戦物語 修羅場とは

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徳島県  大野 文平

山口県光工廠にて徴用工員として再三敵機の攻撃を受けしも、8月8日の正午敵機二00の襲来に遭い、五万の徴用工員右往左往、数千人の死傷者を出し、夏の列風にあふらるる世の修羅場とはこんな事か、嗚呼終篇の地ならんや。 

茶毘に 付す僚友夏の夜も三日

徳島県  樫本 浩三

山口県光海軍病院入院中、八月一四日午後一時に光工廠が空襲を受けた。八月一五日は病者に取っては看護婦代わりの戦場みたいな状況で、記憶によると、この二、三日は血と水を欲しがる傷者のうめきは棲ざましきもので、玉音放送は全然しらず。

向日葵や 傷者に水をやる病者

大分県  福田 重己

当日、下関市は二度の焼夷弾空襲で焦土と化ししたるも、安徳天皇の御陵だけのこる。北浦の日本海、玄海灘は魚雷空爆で、艦船の沈没波にさらわる。関門海峡は、
当時は隔日置きに魚雷降下のb29に来襲され、終戦後もしばしば触雷轟沈するものありし。私、下関機関区(鉄道)在

触雷に 船や逆立つ終戦日

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引用元  「昭和万葉俳句前書集」  (高木 二朗発行)

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