当時長崎市軍需工場に勤務し、又生徒として在学中だった14歳から16歳達の体験
宮崎県 横手 貞夫
あの残酷なな出来事を想い出すのは、とても辛く心が重く、日一日とのばす内、やっとペンをとりました。若い方に読ンで戴きたいと想い、世界で初めての原子爆弾の被害者として体験を伝うさせて戴きます。戦争の悲惨さ、残酷そ、又平和の有り難さを感じとつて戴けたら幸いです
私は半年の学科と実習の教育ヲ受けて、昭和19年10月以降は機械工として大橋工場の第4機械工場で働いておりました。航空機魚雷の国内生産
90%ヲ生産する工場でした。20年4月にいると、魚雷を抱いて敵艦に体当たりする特校機の攻撃雅始まり、工場は昼夜二交代の「月月火水木金金」の態勢で増産に追い立てられてられていました、宿舎の道の尾寮には舎監、寮母、の指導監督のもとに、一小隊25人から30人の5小隊が起居を共にしていました。
8月9日、夜勤を終えて朝方かえり、寮の食堂で朝食をすませ、二階の部屋の真ん中に机を出して家に手紙を書いていました。さっきまで食堂の方では、炊事の人達が片付けする音がしていましたが、もう終わったらしく静かになりました、階下の一年生の寮生も寝付いたらしい。母が3月に亡くなり初盆だけど、戦局が厳しい中とても帰れそうに無いからとペンを
走らせている時でした。
前書はここまでにします、ながくなりますので次のページで書かせて戴きます
引用元 「えびの市史談会45号より」 【大牟田 一成 長崎原爆より」
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