2012年4月30日月曜日

宮崎県  横手 貞夫

続き 途中の商店なども跡形も無く焼けて、長崎の街は見渡す限り焼け野原になっていました。大橋工場は鉄骨組立スレート葺きだったのが、鉄骨
が飴の様にペシヤンコにつぶれ、屋根は全て崩れ落ち、技じつ本部の鉄
筋コンクリートの建物も、中は黒焦げに焼けてしまつています、建物の一
階には、担架に海軍さんがはちきれんばかりふくれ、焼け爛れた死体が
おかれ、所狭しとずらり並べてありました。次の間には髪は焼け爛れ、
顔は火傷でひきつり、腕や足を怪我した女子挺身隊の姉さん達が変わり
果てた姿となって「水を飲まして、水を飲まして」・死んでも良いからみずを
呑まして」と中原先生に必死にすがりせがまれるのでした

寮に帰り残っていた寮生徒ともに、手分けして負傷者の救助作業や寮無外の片付け作業。道の寮は爆心から三キロメートル離れている丘の反対
側の低地であつた為、倒壊、焼失を免れました。翌11日からは大橋工場
の救護活動と死体の片付けでした。終戦となり被災証明の切符を貰い
加久籐の我が家に帰り、疲れがドットと出て1週間寝込んでしまいました。

9月初めに又大橋工場に行き、後片付け作業。機械などは賠償として差し出す為に撤去が始まりました。九州各地から集まつた連合国の米、英、中国などの捕虜が長崎港から病院船に乗船していました。10月に会社は解散になりました。

父が心配してもう家でるな出て行くなと止めるまま、ずっと農業を続けてきました。気にかけていたのは、長崎で救護活動をした人が白血病に加かつて死んでいかれ、遺体を運びにいった自分も、いっかわ白血病に加かつて死のでないかと心配しながらの毎日でした。被爆者である事は絶対話さず語らずで結婚して、子供が生まれ、孫が出来てほっとしました。
33年ぶりに被爆の申請をしました。
戦争のない平和のありがたさが身にしみる程分かり、日本の繁栄も有るのだとつくづく感謝して、二度と原爆が使用されない事を祈って止みません

引用元  「えびの史談会史談史45号」
【大牟田一成編集 横手 貞夫 長崎原爆体験より】ー

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