2011年10月29日土曜日

終戦物語ソ連軍が新京を占領

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宮崎県   新京【現長春】  関口 妙子

私は昭和19年4月から、満州電信電話局に入社して下牟田さんと同じ新京電話局に交換係として勤務しました。講習を終えてから寮をでて、兄夫婦の家から電話局に通勤していました。兄は電信局に勤めており、兄嫁産婆「現助産婦」さんでした。

ソ連軍が新京を占領した当時は、避難した日本人家屋の家財道具を満人が持ち出し、ソ連兵は時計、万年筆などを奪い、女性を連れ去ったりして、恐怖におののく毎日でした。ソ連兵がきた。と聞いたら家の床下に隠れていました。落ち着いてからは、今までの様に兄嫁は産婆として満人の子供を取り上げて、私は付き削いで行く様になりました。お陰で満人には親切にしてくれました、食糧には困りませんでした。兄夫婦と一緒だったので、本当に運が良かったと思いいます。兄夫婦と一緒にコロ島から 
博多港に、そして故郷に帰ったのは、終戦から一年目の昭和21年8月15日でした

引用元 「えびの市史談会第45号」 (えびの史談史45号大牟田一成手記より」

2011年10月27日木曜日

終戦物語 私達はポーヅ頭になり顔を汚し

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満州 長春 [現長春]にて   宮崎県   下牟田 シメ

私は昭和19年4月から満州電信電話局に入社して、3カ月の講習を終えて新京市[現長春]の神京電話局交換係として勤務しました。関口さんも一緒でした。20年8月9、10日頃ソ連機の爆撃がありました。ソ連軍が新京を占領してからは、物品の強奪、婦女子への暴行と危険な怖ろしい毎日でした。私達はボーヅ頭に成り、顔を汚したりして男の格好をし、びくびくした日々でした。

寮には門番の年配の方が、不審・危険な侵入者の時は非常ベルを鳴らすようにしていました。ある日二階で出会い頭のソ連兵に大声を上げて叫びました。ソ連兵は私の腕を引っ張り何かいつていました。後で知りましたが、ソ連の憲兵でソ連兵の見回りにきたのでした。心配ないと言ったのでしょうか、恐怖の一瞬でした。

暫くして治安がいくらかおさまつてから、寮の舎監そんの世話で、満人のキヤンデイーさんに、3人住み込みで働きました、夜は主人のぢいさんの部屋に休ませて私達を守ってくれました。舎監さんが仕入れたタバコを箱にいれ、箱に紐をとおして首にかけ、3人組んで街頭にでてタバコ売りもしました。

寮き食糧不足で、僅かなコーリヤンと味噌の食事でした。栄養失調と、極寒の寒さにたえられず、寮の仲間に死亡者がでました。病院はなく手当てもできず、寮の片隅に埋葬されました。今思うと胸が痛み冥福を祈っています。翌年の21年にはソ連軍と入れ変わった中国軍同士の間で、戦闘が新京の近くでありました。中国の重慶軍と八路軍の戦いだったとききました。寮には開拓団や子供連れの方などが言ってきました。

昭和21年8月。コロ島から、加治木、都城の先輩と貨物船に乗船し、博多港に引き揚げました。玄海灘などで機雷接触の恐れが有るとのことでね船の中では浮き袋を着用し、船を降りる時は頭から白い粉 ddt をかぶりました。故郷の土を踏んだのは8月22日でした。いざとなれば自決して異国の土に果てる覚悟をしていました。

身はたとえ満州野の野辺に果つるとも 操守りし大和撫子

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引用元  「えびの市史談会えびの第45号」  【史談史第45号満州の終戦大牟田
一成手記抜粋】

2011年10月24日月曜日

終戦物語 冬期は猛吹雪

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千島     神奈川県  青木 伸静

北千島列島最北端カムチャツカ半島に隣接する小島、旧名占守島、北方派遣軍防空部隊所属、陸軍兵長【18歳 】冬期は猛吹雪、夏は殆どガスに覆われはれる日は少なく、全て樹木は強風のため地を這う。平時、冬期は無人島であった。

腹切らんと 思いし十八の夏ありき


千島列島「占守島国端    末松 達

独立臼砲大隊附高級軍医、千島海峡を連日荷物満載して通過する米船の数々が詔勅一週間前から全く停止、詔勅後4日ほどしてソ連囚人部隊来襲交戦したが、軍命令により停戦、武装解除、捕虜生活となる、。米船通過停止と北海の特有なうねり、国端海岸へ打ち寄せた激しい白波の凄ましさが一時的にしろ、静かになったのが無気味であつた。

夏の暁囚人兵が 襲い来て


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引用元   「昭和万葉俳句前書集」  【高木 二郎

2011年10月23日日曜日

終戦物語 零戦36機散華する

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台湾    福島県   酒井  信

昭和18年より終戦そして復員まで、台南海軍空軍に転属、零戦の整備兵として勤務すす。沖縄戦には、比島より飛来する米軍機の連日の空襲、緒戦遊撃に発進せる36機の零戦は、数百機の敵グラマンと空中戦奮戦するも、衆寡敵せず、台南上空において勇壮なる散華をする。残るあらゆる機は、殆ど特校機として沖縄沖へと、近く終戦となる日も知らず飛び去ったのである。一昨年【昭和58年】台南空戦友会有志により台湾戦戦没慰霊団を結成し、戦没者への鎮魂への旅を実施した。

戦友【とも】の茶毘せし跡 失せて草茂る

台湾   長崎県  小林 誠美

私は昭和20年8月15日、台湾新竹市郊外の林の中で、米軍上陸に備えて陣地作りの穴堀りをしておりました。ぎらぎらと太陽が照り付ける暑い日でした。部隊長から昼に重大放送があるとの伝達があり、終戦をつげられました。ついに来るものがきたという感じて゛、全身から力が抜ける思いでした。町は既に中国の国旗を掲げているところ多く、異状な活気がみなぎっておのました。 陸軍兵長 ゜「無線通信」

竹の春 拳銃を片手に座り込む


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引用元  「昭和万葉俳句前書集」   【高木 二朗発行】

2011年10月20日木曜日

終戦物語 清和開拓団の悲劇

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清和開拓団
満州の広野に情熱を傾け、村全体で分村計画を推進し、土地財産すべてを処分し家族を引きつれて途満、開墾に苦労を重ねてようやく前途に光明が見え始めた時、再び全てを放棄しなければならなかった開拓団の心境、残された老人や主人を終戦前の根こそぎ召集で応召された家族などの開拓団や義勇隊開拓団、訓練中の青少年義勇隊、報国農場奉仕隊など、ソ連の攻撃、満軍・土匪や現地住民の襲撃に防戦し逃れて山野をほうかいし、雨の中や飢餓と寒さに耐えての難行苦行の逃避行となった。
婦女子の待避移動の為に関東軍に助けを求めたが、2回とも拒否されて、婦女子を引きつれての避難は難しいと判断し、自決に追い込まれた開拓団もあつた。

敗戦

世界各国どんな国でも、軍隊はまず婦女子を保護するのが任務であり、その為に行動している。開拓団や民間人は日本軍に置き去りにされたので有る。
中村幸二郎氏【満拓理事、満州開拓研所長の任にあり戦後は引き揚開拓団民ともに北海道開拓に入植】は「満州開拓の反省」 【ああ満州】に、

今更ながら、いかに反省するも及ばぬことであるが当時の日本には、あの終戦前後の満州大撤収計画を指揮する智将も名参謀をも欠いていていたことである。物質↑
上の損耗は取り戻すことも可能であろうが、開拓事業のみは「人」がそのはじまりで有る。終戦処理に当たって特に開拓関係においては、いかに多くの人命が失われ
、又傷付けられたことか、その損耗をいくらでも低減するために、どれほどの組織と努力とかが払われたで有ろうか。

戦火に失われた損耗は、戦後引揚完了までに払われた「発疹チフス」「栄養失調」とによる人命の大損失であった。特に満州で生まれ満州で育てられた日本人の幼児の壊滅的損耗は現在の日本経済復興を目のあたり見るに当たって、いかに惜しみみてもなを余りあるものがある。

満州の防衛を放棄し、本土決戦一億玉砕ですべてを失うこともせず、只国体が護持されればよいという、自国の領土も国民の生命、財産の保護も二の次であった。
国が亡びるという国運をかけての戦いではなかつた。天皇制が脅かさられるといゆような危険はどこにもなかった戦争で敗北した

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引用元   「えびの市史談会発行第45号」【史談史大牟田一成手記抜粋】

終戦物語 清和開拓団の悲劇

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清和開拓団【新潟県第七次】全新潟混成の集団開拓団

昭和13年1月ー2月に東安省虎林県青和村に入植し依来順調に営農を進め、ソ侵攻時の在団者656人、応召者144人、合計810だったとされている 。8月9日ソ連侵攻の急報で、馬車を連ねて避難を開始。途中山岳地帯に入り、虎林県の完達嶺義勇開拓団【団員144人】で休息し、宝青街と満人の部落を通過する12日ー13日に満軍と土匪集団と満人の襲撃を受ける。  

後続は先頭から5時間遅れており、うしるの婦女子集団は特に死傷者を多くだした。開拓団は死者181名、同行の完達嶺義勇隊開拓団は150人中130名戦死した。
ようやく21日夕方に佐渡開拓団に到着する。28日の事件に遭遇し423人が死亡し、計604名を喪っとている。新潟県で最大の犠牲者をだした開拓団であった。中には一家9人で都満し、父母兄弟妹7人を亡くし、ただ一人悲惨な逃避行をして生還。後に復員してきた兄と只2人だけとなった女性もいた。

**************ここまで続く*************

引用元   「えびの市史談会史談史45号満州と長崎での終戦」
{大牟田一成手記抜粋」

2011年10月16日日曜日

終戦物語 本隊から孤立し

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蒙古  東京都   的場 武治

保定幹部候補生十三期「内地の予備仕官学校に相当」生、ソ連参戦によりきゅうきよ布定市をさり、八達嶺から蒙古の山中に入り、張家口から侵入するソ連軍遊撃の為谷あいに散開して陣地構築中、終戦となる。約40名「一区隊」本体から孤立し、状況の和からぬまま徹底抗戦、玉砕、自決、浮虜の覚悟あるいわ自重論など様々で、一日一日が深刻な対決を迫られていた。

音信「おと」絶えて方丈の土塁日章旗「はた」降す


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アンダマン諸島     東京都     梅澤 和記男

印度洋アンダマン諸島のポートデレアにて、独立混成部隊の一員として終戦日を迎う、北支よりの
本隊【楓部隊 】は南支那海において敵潜水艦により撃沈され、全滅と聞く。

空に書く 妻子への文遠銀河

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インドネシヤ・セラム島  群馬県  中澤 文次郎


濠北方方面参謀部通信調査隊隊員として、当時セラム島にありて、時に甘蔗作りなどせり、終戦前夜此の島玉砕との情報もいりて、我等死を決意せり、しかるにこの終戦報に接し、血涙とめどなし、往時既に茫々


椰子炎えて 涙の煮ゆる孤島かな

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引用元  「昭和万葉俳句前書集」   【高木 二朗発行】

2011年10月13日木曜日

終戦物語 通信筒が終戦を知らせた

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フイリッピン-ルソン島   北海道 太田 信義

ルソン島山中にて、何日も続いた砲撃がピタリと止んで半月も過ぎた頃、日の丸鮮やかなトンボ飛行機からの通信筒が終戦を知らせてくれた。それまでの間、山中では乏しい食料を食い繋ぐが精いっぱい、湯飲茶碗一杯の米に雑草の若葉を混ぜて、日没を待ち、集めた古木でお粥にし、翌日の三食に充てる日が続いた。

灼熱下 マラリヤの友に経を読む


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カンボジアにて     東京都  洗居 三男

空の先駆けたわむらと、共に誓い励まし合った仲間達が幽明を異にして、今日この日「終戦」を迎え様とは、灼熱の空せ血に染めて幾千の将兵が散華した激戦の「ビルマ」から、仏印プノンペン飛行場への転身を余儀なされ同地で終戦となる。元陸軍航空兵。

幾千の魂魄真白灼くる空
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引用元    「昭和万葉俳句前書集」  【高木 二朗発行】

2011年10月12日水曜日

終戦物語 ソ連 捕虜抑留者を自国の労働力として 国際法違反

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ソ連は第二次世界大戦で約3千万人の犠牲者わだした。スターリンは、戦後復興の為の労働力として
すでにドイツなどの敗戦国の捕虜を強制労働をさせていた。日本の捕虜 抑留者にも方針どおり強制労働を実施してのである。 ボツタム宣言は「日本の軍隊は武装解除されたあと各自の家庭に復帰し平和的且世生産的の生活を営む機会を与え羅れる」 とある。又捕虜の取り扱いについて「平和克服の後は、成るべく速やかに俯虜を其の本国に帰還せしむべし」と定めたハーク条約に違反し、明らかに国際法違反である。

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満蒙開拓団の悲劇

終戦を知らずに戦い抵抗し、現地住民や土匪におそわれ、山野を彷徨うなかで多くの犠牲者を出した 

満州開拓民秘史の「事件別開拓団死亡者一欄」 を見て死亡別に纏めると。ソ連軍の攻撃・満軍の反乱と土匪の襲撃での戦死者は八開拓団の計1766人、戦死、自決者は三開拓団で計1317人、
自決者は六開拓団で計1491人、満軍による殺害は二開拓団で計182人の犠牲者を出して居る【本書関係のみの開拓団 】


佐渡開拓団跡事件 【東安省ポツリ県】 満州開拓民秘史に依ると

新潟県第10次佐渡開拓団が既に避難したあと、奥地からの開拓団が避難途中に、佐渡開拓団地に集結していた。東安省の一番東のソ連国境沿いの虎林県の清和開拓団【新潟県第七次】と完達嶺義勇隊開拓団、宝清県の埴科郷団、高社宕郷、更科郷、阿智郷、など長野県送出の開拓団が計八団、揚栄庄内などの山形県送出の開拓団が計5団、茨木県送出のの開拓団などその他の開拓団そして報国農業に入っていた青少年などで有ったという。

8月24日夕方ソ連軍偵察機一機が佐渡開拓団近くに不時着し、快諾団がソ連機を炎上させ、搭乗員を射殺したが何人かは逃がしてしまつた。26日ソ連軍が白旗を掲げ進んできた。ソ連兵は女性を連行するときはこうしていて、何回も被害に遭っていたので、開拓団側は女性を連れ出しに来たと判断し、機関銃を乱射してソ連兵20余人を殺害した。

激怒した連軍は28日早朝、迫撃砲等で約一時間に渡り開拓団地を砲撃し、残った生存者を建物の中に閉じこめ、手瑠弾を投げ込み火を放ち焼死させた。撃ち殺し焼き殺し徹底し殺害している。
埴科郷、高社郷、更科郷開拓団の殆どが全滅し、佐渡開拓団の地は焦土と化し、避難集結した開拓団の殉職者総数は1464人で有ったと記してある。終戦をしらず関東軍を信じての、開拓団のなかでも最大の犠牲者をだした事件である。て

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引用元  「えびの市史談会史談史えびの 【第45号えびの40記念号大牟田一成満蒙開拓団】
記事より抜粋

国の為 異国で国を信じ 、関東軍を頼りにした開拓団の悲劇は書くに忍びない現実に起きた事実
です、合掌。

2011年10月9日日曜日

終戦物語 直立不動で

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東京都にて  千葉県   杉浦 舟山

当時医薬品統制会社の人事係長として、空襲下の労務管理に苦労した。終戦当日は、日本橋の三共ビルに本社があったが、慶松左右衛門社長いか全員直立不動で天皇のお言葉にただ涙するのみであつた。

壕に寝て 焦土の夏を悲しめり

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     東京都にて   千葉県   山崎 長夫

東京都千代田区東京逓信病院にて終戦をむかえた。当時、各地域ごとに、防護団が結成された、北支から野戦帰りしたばかりの私は、軍医でなく、歯科医であり、歩兵出身ということで、避難隊長に抜てきされ、独立防護団奈長故石原忍院長の下で、病棟裏の斜面の崖に、勤労奉仕の職員の方々と、最後の決戦に備えて防空壕を掘っていた。

明日ありと 耐えし戦友亡く蝉しぐれ


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神奈川県三浦半島   東京都   藤井 弥十太

神奈川県三浦半島油壺湾内、海軍基地内、海軍水兵 【兵長】として基地内の取り締まり衛生兼公用便として、毎日横須賀鎮守府に書類持参、又、横須賀市及び三浦町の営内必需品の買い出し等が日課、他営内のみまわりも重要な任務でした。当地の海軍の装備は誠にお粗末そのもので、ボートの先端に爆薬を積み、敵舟に近づき舟もろともに体あたりという若い200名の志願兵と召集兵の集団でした。

いくさ人夢 やぶれたり灼けの原

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引用元  「昭和万葉俳句前書集」    【高木 二朗発行】

2011年10月8日土曜日

終戦物語 竹槍で最後まで

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南部朝鮮    兵庫県   高  すず

当時女学校3年生。朝鮮慶尚南道馬山府在住。授業は短縮され、松根油採取、高射砲陣地構築
、軍服りボタン付け、魚雷部品作り等、動員学徒として働いておりました。当時の女子学生は最後まで戦う覚悟でした。

汗拭う者なし 玉音拝聴す


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南部朝鮮  奈良県  志岐 勝歳

大正14年生まれの初年兵「昭和19年12月入隊」。沖縄作戦に応じて、南京から昭和20年5月京城にいる。第四気象連隊本部の暗号兵である。8月8日、ソ連軍が、白城子から旧満州になだれこんだ暗号伝報も、やはり早朝に訳した、

昭和20年8月15日早朝も長文の漢字ばかりの暗号電報を訳して、敗戦を知る。時の暗号班長奥村中尉「慶応卒」の顔から、血の気が引くのお見た。12時のラジオ放送後の召集兵は本当に喜んでいた。私も生命をとりとめた事を喜んでいたと同時に、多数の兵隊の死を考え込んでいた。

召集兵 詔勅聴いて よろこべり

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引用元   「昭和万葉俳句前書集」   【高木 二朗発行】

2011年10月6日木曜日

終戦物語 敵の爆撃がピタリやむ

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南セレベス島     東京都    桐岡  博


セレベス島南部の山中、航空地区司令部の電報班に属しいいました。当日正午に玉音放送を聴き敗戦を知りました。其の夜の、第一線陣地から引き揚げてきた兵隊の、うつろなひとみを見たた時のやりきれない絶望的な気持ちが思い出されます。しかし、敵の爆撃のピタリと無くなった戦野の静かな夕焼けが印象に残っています。

戦記焼き 今なお悔やむ終戦日

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ニユ-ギニヤ ソロモン地区   大阪府  駒井 正三

昭和20年8月一五日、西部ニュ-ギニヤ、ソロモン地区サラワチ島サマテの奥地で、現地自活で農耕作業をして現役四年兵の陸軍上等兵でした。20年十月頃にホ-ランジヤにオランダの捕虜として使役に従事、21年頃復員。

風鈴にサマテの亡友【とも】を偲びつつ
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サイパン島   茨木県  石浜 とみ子

サイパン島にアメリカ軍上陸依来、逃避行を続け、19年十月投降し、同島ススッペの邦人民間抑留所内のキャンプにて、米軍人向けの手工芸品を作っていた。

捕らわれ身に 一條の月あかり

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2011年10月3日月曜日

終戦物語 新京一中生徒隊の終戦

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昭和20年8月9日午前5時、国境守備隊司令部から、東寧農場本部に「****我が軍は国境各地でソ連軍と交戦中なり。農場隊員各隊はあらゆる事態に備えて準備すべし*****}とあり。6時以降に東寧県公社から「報国農場隊は、国境守備隊と連絡をとり、適宜の行動をとられたし、病弱者は東寧街民と共に避難させるから県公署まで護送それたし 」「学徒勤労隊員「新京一中三年生」の動員を解除するたただちにら県公舎に護送せよ  」の伝令通達が届く

【1】  報国農場隊。 東寧国境守備隊と報国農場隊の終極「北村 幸房氏編集」よれば
「農場では大規模農場経営の習特と食糧増産に希望を燃やしながら、日夜農耕に従事し、内地では得難い大型農業機械の操縦、百数十頭の家畜の飼育管理に若き力を全力灯球してきた。撒種作業から収穫期に入った矢先に、ソ連軍が侵攻してきた。

20年8月9日、伊藤倉吉隊長が引率した病弱者17名の移動待避以外の報国農場隊員は、国境守備隊員司令部内の陣地第785 
大隊の指揮下にいつた。ソ連機の機銃掃射と戦車砲ゃ自働小銃による攻撃を受け、又闇の中での肉薄戦などの中で、遂にばらばらになつてしまった、その後の逃避行と捕虜生活、難民帰還の途上などで確認できた者だけでも54名の犠牲者を出した、なを、いまだ10余名の行く目不明者がいる」とある     1号 終わり 2号 後編 次

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引用元    「えびの市史談会市社会教育 【えびの第45号長崎と満州での終戦記 抜粋              大牟田一成著】

2011年10月2日日曜日

終戦物語 鉢巻きに毒を秘めて

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北部満州  栃木県   荒井 菊江

旧満州国北安街にて、警視庁内菊水通信隊へ、電電会社より応援の為、電話交換手として勤務中、終戦となる。決死の鉢巻きに毒を秘めていた女子隊員もいたが、私達は最後の刻のため、町へ石けんと剃刀を買いにいった、帰り一兵より米を頂いたが、子供連れの方にあげてしまう。死を刻々と見つめ、友と水で髪を洗った。剃刀は守り刀として。

我もまた 明日の糧なし敗戦日

西部満州  宮崎県  細川 雅尊

元満州国空軍特別攻撃隊にて、来襲するb29を数度にわたり迎撃。しかるに、8月9日、不可侵条約を無視したソ軍の侵攻により、終戦の詔勅に万解の涙を呑む暇も無く、身は捕虜、妻子を戦野に曝すも、奇しくも生還を得た経験は、筆跡に尽くし難きものあり。

終戦の 空よ崩るる雲の峰


西部満州  兵庫県  天谷 輝久

終戦当日、私は15歳。満州開拓青年義勇隊員として、満州国北安省海倫県海北鎮街におりました。伝令が飛び、終戦をしりました。暑い日でした。暴徒と化した現地人は付近の開拓団を襲撃しました。終生忘れ得ません。

孤立せし 団攻めたてる土匪群

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引用元   「昭和万葉俳句前書集」   【高木 二朗発行 

2011年10月1日土曜日

終戦物語 米兵の歓声で終戦をしる

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沖縄県   沖縄県   大山 盛英

この日、沖縄では既に戦終わり、生き残った人々は食を求め、はぐれた親兄弟の安否をきづかいながら、米兵の救出食糧で生きる毎日でした。私も大学の学友を失い、虚無的な収容所生活を送っておりました。あの日は玉音放送もなく、米兵の歓声で終戦を知りました。

国敗れ 島は異人闊歩する


沖縄県   愛媛県  井上 泰蔵

沖縄本島北部の金武の収容所に、三度目の切り込みで受けた左大腿部と左前肘貫通創の身を養っていた。そして湧きき立つ望郷の念と其の又裏で、当時の風潮として俘虜の果てなるものに心おののいたことであった。

飯盒に 戦友の骨鳴り盆がくる


沖縄県  東京都  山口 米治  

沖縄の最南端摩文仁の丘に独立無線通信隊は、軍司令部附きとして洞窟の中で従事。最後の抵抗も空しく25万の戦死者を出し、6月25日無刻、牛島指令官と長参謀は自決。将兵は食に食無く飲み水無き暑い毎日を蘇鉄の葉陰で知る。

唐 をわかつ寸時も迫撃砲

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引用元   「昭和万葉俳句前書集」   【高木 二朗発行】