2011年11月17日木曜日

終戦物語千人針の歌

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 宮崎県    長谷敏通


戦争に出征して行く人達に心こめて送った千人針の歌

橋のたもとに町角に 並木の路に停車場に 千人針の人の数心こめて運ぶ針

とび行く号外鈴の音に 胸は湧きたつ引きしまる どうぞ一針兄のため
背の君の為 叔父の為

人は変われど真心は みんなひとつに国の為 私も一針縫いたいと
じっとみている昼の月

私が子供の頃 父が出征しました、当時の事を忘れる事は出来ません
、時は流れて私も腹に巻いて入隊しました、父も南から内地に向かう船が魚雷にあたり、船は沈みましたが無事呉港に裸姿で上陸したとききました。私もシベリヤ抑留3年
命を取り留め舞鶴港に帰り着きました、70年前の歌ですので間違いが在るかもしれませんが。昔を偲ぶ忘れされ様としております

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2011年11月11日金曜日

終戦物語 宝物の様な砂糖を嘗めた

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東京都   熊倉 ともこ

当時陸軍製紙廠足利利工場に勤む。敗戦の夜、糧秣倉庫があけられ、寮生に砂糖が配られた。寮の縁に腰掛け、宝物の様な砂糖を嘗めた。昼から泣き通し、泣き疲れ混沌とした15歳の頭の上に皓々と輝く夏の満月が永遠の光を投げていた。

夏満月 敗れし山河あまねくし


東京都   佐藤 一雄

宇都宮の兵営を出發したのは15日の早朝だった。車窓から荒れた風景が飛ぶたびに胸が痛んだ。父母のやっれた顔に出会った時、言葉はなかつた。巻脚袢をはずして
いると、母は「戦争は終わったんだよ」と言った。

敗戦を 背に片蔭をさまよへり


愛知県  高柳 善明 

栃木県黒磯町で終戦。陸軍一等兵の私は、敗戦を信じない殺気だった上官の命令で、本土決戦に備える為の兵器を、防空壕へ運び続けた。濠から眺めた空の青さと、泣き明かす蝉声が今も忘れられない。

父ははの 空戻り来ぬ終戦日

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引用元  「昭和万葉俳句前書集」  【高木 二郎発行】

2011年11月9日水曜日

終戦物語 昼ご飯も喉もとをらず

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福岡県   池辺 芳子



学校勤務の良人を北九州の戸畑に一人いてもらい、私わ幼い4人の子供と共に田川郡の田舎の村に疎開して畑を造り、農家から分けて貰った米で残飯は、干飯にして本土決戦の折りの食糧に蓄え足りしておりました。降服の報に接し、子供とかこんだ昼食も喉かとおらず、蝿がたまるままで有ったのを思い出します。 

決戦も せぬまま無念干飯櫃


福岡市在住 城谷 文四郎 

福岡市立第一病院長。正午陛下の御放送を汗と涙をもって拝聴。進駐軍に備え、患者、看護婦の手配。自らも院長として病院と運命を共にすべき院内に残瑠。 崎八万宮に詣で、勅額の伏手鬼門を仰ぎ涙が止まらなかった。


勅額の伏敵門下汗滂沱 



福岡県   亀山 正義  


学徒出陣の幹部候補生として久留米予備仕官学校に在り、連日激しい肉弾戦の訓練をしていました。空襲で瓦礫と化した市内で作業中に終戦の詔勅を聴き、若い血のたぎり押さえ難い気持でした。


御紋章 削りし銃身陽に灼くる。


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引用元   「昭和万葉俳句前書集」  【高木 二朗発行】

2011年11月8日火曜日

終戦物語 第5航空艦隊司令官宇垣海軍中将特攻機に搭乗

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大分県     奈良県  川南 芳三

終戦前、私は海軍の特攻隊員として、大分海軍航空基地で待機していた。昭和20年8月15日、終戦の日夕刻、第5航空司令官宇垣海軍中将は、幕僚、部下の中止の制止も聞かず、沖縄特攻を行うことになり、701航空隊爆撃隊長中津留達雄海軍大尉の操縦すする艦爆機に搭乗し、沖縄の米艦船に特攻攻撃を行った。なを、長官と行動を共にした特校機11機のうち、8機が突入し、3機が不時着した。

戦終え 部下待つ空の沖縄へ


大分県  臼杵市  甲斐 フサ子

大分県立三重高等女学校4年生。大分第12海軍航空廠に動員学徒として、射撃機、爆撃機の修理、製造をしていた。激しい空襲に、若い命を散らす学徒も少なくなかった、しかし、8月15日、ただ青い空ばかりの空であった
秋立つや 機影空から 消ゆるとき

引用元   「昭和万葉俳句前書集」  (高木 二郎発行)


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2011年11月5日土曜日

終戦物語 ああ終戦なのだ

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 千葉県    足立 いね

本土決戦を覚悟した兵二人を吾が家に泊め、兵一人と私は、陛下の御詔勅を聴きました。頭を下げた兵の口より「ああ終戦なのだ」とつぶやきに唯ぼんやりとした自分でした。其の兵隊は金沢の人でした。後日一枚のハガキをもらいました。

星月夜 仰ぎて悲し香手向け

東京都   北海道   高木 ナツ

東京都渋谷の日赤産院に卒業後勤めておりました。日一日と激しくなる情勢の中で、
勝利を信じ、薬品不足の中で、精一杯の看護業務でした。人生唯一度の青春を捨てての明けくれ、そして玉音の放送****。過ぎ去った日々をいとおしみ唖然となり、やり場のない気持ちをつと持っていました。口紅を、涙を流しながら思いきり引き、
鏡をみっめました。同級生5,6,人で無断で皇居前へ出かけました


玉音に 滂沱の涙青春惜しむ



東京都   埼玉県 千鳥 槌子


私わ、日本赤十字社691救護班として応召、東京世田谷第2陸軍病院勤務中、空襲で大部分焼けたるも、勤務病棟が焼失を免れ、終戦を迎える、続いて、引きあげをかねた病院船第1号に配属、舞鶴より出港、 機雷に2度ぶつかり、命からがら朝鮮、フイリッピンに航海す。

戦果つ 続く勤務の引揚船

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引用元   「昭和万葉俳句前書集」  (高木 二朗発行)

2011年11月3日木曜日

終戦物語私はまだ父の戦死を知らず

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徳島県   佐光 典子
父の出征後、過労で倒れた母と私達姉妹は、徳島県小松市の母の実家に身を寄せていました。辺りは農村、9歳の私はまだ父の戦死したこともしらず、干梅を口に含みながら、いつになくしずかな村に異様な零囲気を感時じていました。

勝利者へ 幼き敵意花かぼちや


徳島県  芝 利勝  


当時私は40歳の老兵て゜゛応召し、本土の護土部隊として配属され、徳島県の南部沿岸警備の為、敵の上陸阻止に備えアンバン作戦と称し、一身をもつて敵戦車一りょうを破壊する訓練に明けくれの毎日であった。

敗戦や 仮寝の夢の蚤虱


徳島市  志満 加芽枝

昭和20年7月3日夜半より4日未明にかけて、徳島市内米軍機の空襲。町の大半全焼。当時徳島医学専門学校付属病院(現医大)看護婦として勤務。病院全焼、着のみ着むのまま呆然もつかの間、被災傷病市民の救急処置にと富田小学校を仮救護所として、医師、医学生、看護婦一丸となり救護活動を続けました。

炎昼や 針合針は木綿針


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  引用元   「昭和万葉俳句前書集」  (高木 二朗発行)

2011年10月29日土曜日

終戦物語ソ連軍が新京を占領

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宮崎県   新京【現長春】  関口 妙子

私は昭和19年4月から、満州電信電話局に入社して下牟田さんと同じ新京電話局に交換係として勤務しました。講習を終えてから寮をでて、兄夫婦の家から電話局に通勤していました。兄は電信局に勤めており、兄嫁産婆「現助産婦」さんでした。

ソ連軍が新京を占領した当時は、避難した日本人家屋の家財道具を満人が持ち出し、ソ連兵は時計、万年筆などを奪い、女性を連れ去ったりして、恐怖におののく毎日でした。ソ連兵がきた。と聞いたら家の床下に隠れていました。落ち着いてからは、今までの様に兄嫁は産婆として満人の子供を取り上げて、私は付き削いで行く様になりました。お陰で満人には親切にしてくれました、食糧には困りませんでした。兄夫婦と一緒だったので、本当に運が良かったと思いいます。兄夫婦と一緒にコロ島から 
博多港に、そして故郷に帰ったのは、終戦から一年目の昭和21年8月15日でした

引用元 「えびの市史談会第45号」 (えびの史談史45号大牟田一成手記より」