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徳島県 佐光 典子
父の出征後、過労で倒れた母と私達姉妹は、徳島県小松市の母の実家に身を寄せていました。辺りは農村、9歳の私はまだ父の戦死したこともしらず、干梅を口に含みながら、いつになくしずかな村に異様な零囲気を感時じていました。
勝利者へ 幼き敵意花かぼちや
徳島県 芝 利勝
当時私は40歳の老兵て゜゛応召し、本土の護土部隊として配属され、徳島県の南部沿岸警備の為、敵の上陸阻止に備えアンバン作戦と称し、一身をもつて敵戦車一りょうを破壊する訓練に明けくれの毎日であった。
敗戦や 仮寝の夢の蚤虱
徳島市 志満 加芽枝
昭和20年7月3日夜半より4日未明にかけて、徳島市内米軍機の空襲。町の大半全焼。当時徳島医学専門学校付属病院(現医大)看護婦として勤務。病院全焼、着のみ着むのまま呆然もつかの間、被災傷病市民の救急処置にと富田小学校を仮救護所として、医師、医学生、看護婦一丸となり救護活動を続けました。
炎昼や 針合針は木綿針
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引用元 「昭和万葉俳句前書集」 (高木 二朗発行)
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