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長崎と満州での終戦記事
日課は朝食前に燃料用の羊草刈りの作業があり、学習時間を取ってその後の作業にいる。6月は主に南瓜畑や小豆畑などの雑草刈りや水田の草取りなので、7月は麦刈り作業中であった、動員は2カ月り予定で7月28日には帰校するはずであったが、学校から「在満教務部の指示により当分の動員期間を延長をする」の電報が届いた。
学校との詳細な打ち合わせの為小川教官は8月4日農場を出発し8月9日を迎えた。小川隊と斉藤隊を斉藤教官が引率して東寧駅に到着した時は、避難列車は既に発車した後で、歩いての苦難の逃避行が始まった
斉藤教官は、先発隊を出して状況把握と安全確保に努め的確な判断で生徒を引率している。途中満州国警官から「安全な道はここから山むこに入り朝鮮の図門え逃げる道しか無い」と南下の道を勧められたが、斉藤教官はうっそうとした森林をみて北上の道へとむかったが正しい選択であった。また幸運にも直接戦火に合わず、万歳峠
、大城廠を経て石頭に到達した8月18日の夕刻に敗戦をしる。
21日、東京城の守備隊兵営でソ連軍の捕虜となる。日本軍の兵士や義勇隊の18歳以上の者と、斉藤教官も有無もいわさず連れ出された。生徒は指揮官を失ってしまったが、生徒の中から小川小隊は古畑を、斉藤隊は福井を小隊長に選び全体の指揮を古畑がとることにし、外に副官3名付けた。指揮系統を明確にし結束を図り団結を維持している。
10月12日、捕虜から解放の身となり東京城を古畑の指揮の元に出發、再び北頭、寧安を経て16日に牡丹江に到着する。18日ハルピン行きむの貨物列車に乗り込み、ハルビンを経由して乞食同然の姿で新京に帰り付いたのは10月20日であった。
逃避行中の移動・飢えや雨や寒さに、逃避行や収容所での非衛生な生活などで、収容所に残した衰弱者のうち死者も2名あり、又4名は消息がつかめず生還出来なかった
茶臼原農民道場の設立は昭和9年10月1日。設立の趣旨は、当時の農村の疲弊困憊を打破するために、中堅人物を養成することにあった。
道場の修練期間は青年部が1年、短期生が10日間であった。本道場で修業した者約2千人。昭和13年4月1日には、満州農業移民訓練所が付設され、満州農業移民団員の開拓訓練が行われている。戦後農民道場は高鍋軍馬補充部跡に移転。昭和
21年6月緊急開拓事業の一環として開拓農場として復員軍人軍属、海外引揚などの、開拓農業志望者(126人)の農業技実の訓練を行っている。
その後高等営農研修所となり、昭和47年より、農業大学校として県の農業発展と後継者育成に果たす役割は大きい。(宮崎大百科より)
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引用元「えびの市史談会史談史45号」(大牟田一成記事より)
2011年11月29日火曜日
2011年11月28日月曜日
終戦物語 東京の中央政府機関かその機能を喪失
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東京都 武籐 文雄 広島県
終戦直後、東京の中央政府機関がその機能が喪失した場合の為、地方ブロックごとに地方総監府を設け、府県及び政府出先官庁の一切を指揮する事になり、私は総監秘書官として広島に赴任しました。しかし、その機能を発揮する前に原爆に遭い、総監をはじめとし多数の殉職者がでました。私は九死に一生を得、まもなく8月15日を迎えました。当時の事は生涯私の脳裏を離れません。
終戦日 被爆のドームとこしなに
京都市 薄木 千代子 広島にて
終戦当日、広島で被爆した夫の看病をして広島にいました、電車の中で原爆に遭った夫は、一見無傷でしたが、次第に喉、胃とい痛み、兆候が現れ、被爆人ばかりで病院も手足らず、医者も手当ての分からぬ有様で、井戸水を貰い、冷やすぐらいしか出来ぬ始末でした (30日逝く) 合掌
被爆夫 とおほみこと聞く終戦日
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引用元 「昭和万葉俳句前書集」 (高木 二郎発行)
東京都 武籐 文雄 広島県
終戦直後、東京の中央政府機関がその機能が喪失した場合の為、地方ブロックごとに地方総監府を設け、府県及び政府出先官庁の一切を指揮する事になり、私は総監秘書官として広島に赴任しました。しかし、その機能を発揮する前に原爆に遭い、総監をはじめとし多数の殉職者がでました。私は九死に一生を得、まもなく8月15日を迎えました。当時の事は生涯私の脳裏を離れません。
終戦日 被爆のドームとこしなに
京都市 薄木 千代子 広島にて
終戦当日、広島で被爆した夫の看病をして広島にいました、電車の中で原爆に遭った夫は、一見無傷でしたが、次第に喉、胃とい痛み、兆候が現れ、被爆人ばかりで病院も手足らず、医者も手当ての分からぬ有様で、井戸水を貰い、冷やすぐらいしか出来ぬ始末でした (30日逝く) 合掌
被爆夫 とおほみこと聞く終戦日
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引用元 「昭和万葉俳句前書集」 (高木 二郎発行)
2011年11月27日日曜日
終戦物語 戦争は負けたんじゃ
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愛媛県 木口 さだお
敗戦の日、呉海軍工廠の工員一員として、徹夜作業のあと、睡眠中に終戦詔勅が、放送された。下宿のおばさんが「戦争は負けたんじや」と話しているのを聞いて飛びおきた。それは真実であった。b29 は悠々と定空を飛び、人々は虚脱したように焦土をよろよろとあるいた
敵というもの 無くくなりし雲の嶺
山口県 高野
愛媛県 木口 さだお
敗戦の日、呉海軍工廠の工員一員として、徹夜作業のあと、睡眠中に終戦詔勅が、放送された。下宿のおばさんが「戦争は負けたんじや」と話しているのを聞いて飛びおきた。それは真実であった。b29 は悠々と定空を飛び、人々は虚脱したように焦土をよろよろとあるいた
敵というもの 無くくなりし雲の嶺
山口県 高野
終戦物語 飛行機は一機も無く
北街道 高橋 春男
当時。鹿児島県鹿屋海軍航空基地付近に散開、壕内生活の毎日。連日、空襲のため、飛行機は一機も無く、総員特攻肉迫戦闘員となり、昼夜問わずアメリカ軍の上陸に備え臨戦態勢にあった。終戦当日は炎暑、長い一日であつた。
飛機も無し 撃つ弾丸尽きて壕暑し
当時。鹿児島県鹿屋海軍航空基地付近に散開、壕内生活の毎日。連日、空襲のため、飛行機は一機も無く、総員特攻肉迫戦闘員となり、昼夜問わずアメリカ軍の上陸に備え臨戦態勢にあった。終戦当日は炎暑、長い一日であつた。
飛機も無し 撃つ弾丸尽きて壕暑し
2011年11月25日金曜日
終戦物語 焦土と化した現世とは思えない
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山口県 板谷 政典
下関の造船所で、海軍の将兵らと人間魚雷を製作中、敗戦にと同時に人間魚雷を開門海峡にしずめにいったまま、帰らず人となった若き海軍の下士官等が痛ましい。
炎天下 人間魚雷 沈め逝く
山口県 後藤 いそ子
21歳青春盛りの終戦日でした。友達となけなしの毛糸を出し合って特攻人形を作り、中乃町の暁部隊に届けたり、夜ごとの空襲警報に、モンペの奥をぞろぞろと虱が這い回ったり、妙にしんかんとした静かな終戦の昼の空でした。いびり大豆を食べ過ぎて腹が下り、ソ連兵が上陸する噂にもがいた物です。
雑貨屋の跡の大穴終戦日
山口県 斉藤 美智子
山口県三隅町で終戦。連隊旗手の夫が軍旗を焼いて戻った日、自決も考えて拳銃の使い方を習う。其の夜、広島から無傷で帰隊した将校が一夜で死亡。童貞で征つた弟は、一片の骨も無いままついに戻らず。命得手複雑な涙を流した日でした。
恋もせで 征きし弟青林檎
山口県 前田 律子
当時、私わ主人の徴用令により、山口県光市に住んでおりました、沖には回転基地、街には海軍工廠がありました。工廠が爆撃されて幾百人もの人が犠牲になったのは、終戦の前日の事です。翌15日に終戦の玉音を拝聴した後、海にでて痛切な黙祷をささげました。
砂に残る 幼き手型終戦日
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引用元 [昭和万葉俳句前書集」 (高木 二郎発行)
山口県 板谷 政典
下関の造船所で、海軍の将兵らと人間魚雷を製作中、敗戦にと同時に人間魚雷を開門海峡にしずめにいったまま、帰らず人となった若き海軍の下士官等が痛ましい。
炎天下 人間魚雷 沈め逝く
山口県 後藤 いそ子
21歳青春盛りの終戦日でした。友達となけなしの毛糸を出し合って特攻人形を作り、中乃町の暁部隊に届けたり、夜ごとの空襲警報に、モンペの奥をぞろぞろと虱が這い回ったり、妙にしんかんとした静かな終戦の昼の空でした。いびり大豆を食べ過ぎて腹が下り、ソ連兵が上陸する噂にもがいた物です。
雑貨屋の跡の大穴終戦日
山口県 斉藤 美智子
山口県三隅町で終戦。連隊旗手の夫が軍旗を焼いて戻った日、自決も考えて拳銃の使い方を習う。其の夜、広島から無傷で帰隊した将校が一夜で死亡。童貞で征つた弟は、一片の骨も無いままついに戻らず。命得手複雑な涙を流した日でした。
恋もせで 征きし弟青林檎
山口県 前田 律子
当時、私わ主人の徴用令により、山口県光市に住んでおりました、沖には回転基地、街には海軍工廠がありました。工廠が爆撃されて幾百人もの人が犠牲になったのは、終戦の前日の事です。翌15日に終戦の玉音を拝聴した後、海にでて痛切な黙祷をささげました。
砂に残る 幼き手型終戦日
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引用元 [昭和万葉俳句前書集」 (高木 二郎発行)
2011年11月19日土曜日
終戦物語 大和魂のみでは
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満州 神奈川県 吉田 正義
ソ連軍国境突破、侵攻により、満州国立中央特別連成所生3,200余人は、召集令一片により、戦闘要員となり、関東軍教育班員が中概となり、臨戦態勢をととのえる。各所に歩哨地、戦車壕を堀りて防戦態勢なるも、火器少なく、他の装備も悪かった。
大和魂のみではどうにも鳴らない、職業軍人は一人も無く、召集兵のみでは、悲しい極みであった。満州国立中央特別錬成所福所長
汗に泣き 夏草刈りて土壕ほる
広島県 林 つぎ
昭和20年8月九日ソ連の参戦、爆撃を受けつつソ満国境の東満総省より、五月生まれの嬰児を抱き、リユサックを背負い、着のみ着のままの姿で避難民となり、新京の小学校に収容さのました。主人は応召中でした。
炎天にたどる 異国の収容所
*******************ここまで***********
引用元 「昭和万葉俳句前書集」 (高木 二朗発行)
満州 神奈川県 吉田 正義
ソ連軍国境突破、侵攻により、満州国立中央特別連成所生3,200余人は、召集令一片により、戦闘要員となり、関東軍教育班員が中概となり、臨戦態勢をととのえる。各所に歩哨地、戦車壕を堀りて防戦態勢なるも、火器少なく、他の装備も悪かった。
大和魂のみではどうにも鳴らない、職業軍人は一人も無く、召集兵のみでは、悲しい極みであった。満州国立中央特別錬成所福所長
汗に泣き 夏草刈りて土壕ほる
広島県 林 つぎ
昭和20年8月九日ソ連の参戦、爆撃を受けつつソ満国境の東満総省より、五月生まれの嬰児を抱き、リユサックを背負い、着のみ着のままの姿で避難民となり、新京の小学校に収容さのました。主人は応召中でした。
炎天にたどる 異国の収容所
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引用元 「昭和万葉俳句前書集」 (高木 二朗発行)
2011年11月18日金曜日
終戦物語 全員無事内地に帰還せよ
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南部朝鮮 群馬県 野口 とよ子
朝鮮江原道春川緑ケ丘国民学校【日本人学校】にて三年生の担任。8月15日の放送は、全職員ラジオの置かれいた宿直室に集合し玉音を聴き、一同泣く。外地なる故ただ泣いてばかりはおられない、直ちに全校児童を一堂に集め、学校長より敗戦を伝え「全員無事内地に帰還せよ」と激励して解散。
日盛にチマ す終戦日
東京都 前田 雅子
朝鮮京城府梨泰院町で主人臨時召集のため生後7カ月の長男との二人暮らし、前日の予告で隣組集合、ラジオを囲む、その時負傷兵護送に外出許可を得て主人帰宅。皆驚き共に泣く、玉音放送なので始めはわからなかったが、暫くして負けたとわかり
皆泣いた、ふと北鮮にいる両親友人のこと、明日からの事を思った。長い一日だった
軍服に 泣き出す嬰児鳳仙花
千葉県 岡野 修
釜山港より木造漁船で引き揚げの際、玄海灘で船のエンジンが三回故障しました。当時子供でしたが、敗戦、学校閉鎖、引き揚げ後の生活不安と期待で、漂う船の中から揺れて大きく動く星を眺めていました
エンジンがとまりて あおぐ流星。
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引用元 「昭和万葉俳句前書集」 【高木 二朗発行】
南部朝鮮 群馬県 野口 とよ子
朝鮮江原道春川緑ケ丘国民学校【日本人学校】にて三年生の担任。8月15日の放送は、全職員ラジオの置かれいた宿直室に集合し玉音を聴き、一同泣く。外地なる故ただ泣いてばかりはおられない、直ちに全校児童を一堂に集め、学校長より敗戦を伝え「全員無事内地に帰還せよ」と激励して解散。
日盛にチマ す終戦日
東京都 前田 雅子
朝鮮京城府梨泰院町で主人臨時召集のため生後7カ月の長男との二人暮らし、前日の予告で隣組集合、ラジオを囲む、その時負傷兵護送に外出許可を得て主人帰宅。皆驚き共に泣く、玉音放送なので始めはわからなかったが、暫くして負けたとわかり
皆泣いた、ふと北鮮にいる両親友人のこと、明日からの事を思った。長い一日だった
軍服に 泣き出す嬰児鳳仙花
千葉県 岡野 修
釜山港より木造漁船で引き揚げの際、玄海灘で船のエンジンが三回故障しました。当時子供でしたが、敗戦、学校閉鎖、引き揚げ後の生活不安と期待で、漂う船の中から揺れて大きく動く星を眺めていました
エンジンがとまりて あおぐ流星。
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引用元 「昭和万葉俳句前書集」 【高木 二朗発行】
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