2011年7月5日火曜日

終戦物語 戦艦武蔵沈没をしる

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宮崎県    林田 一夫様

終戦は上海。昭和18年まで、徴用で三菱長崎造船所で戦艦「武蔵」の偽装工事に従事していました。戦後あの巨大戦艦「武蔵」がフイリッピンで沈没した事を知り驚く。昭和19年1月15日熊本西部21部隊山砲兵として入隊 10日後北支山西省に遠征 3546部隊の配属1期の検閲は中条三脈の麓で受ける思っても居ないはじまりであった。

休む暇もなく中支で作戦中の本隊遂及が始まる石家荘付近より黄河の鉄橋を渡り中支の信陽。 武昌。まで昼夜の別無く苦闘の強行軍だった。武昌に1月いて   作戦に参加する。私は幸か不幸か病魔におかされ同庭湖近くの野戦病院に入院、武昌。安慶。南京。無鎮と転送される上海の登部隊に転属になり上海にて無念の敗戦となる内地送還復員まで連合軍の使役に耐える。

上海は諸物資が豊富で連戦 連敗であった筈の中国の低力を身をもって体験する。昭和21年1月8日頃米軍のL.S.T.上陸用艇母艦り乗船。佐世保に向かって出港海の色はカツ色青となる。

九州が見える頃には紺碧となり国破れて山河在りと胸中複雑となる。敗戦により内地に帰還したといえ戦死 戦病死の戦友を想い感涙にむせぶ。復員後苦労を供にした妻を今から想うと時突然なくし呆然となりしが子供達又回りの人達の支えに助けられ強く生きと願う。

戦争は絶対にさけよ。するな。 平和が一番と大声で叫びたい

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「私の終戦」(長谷敏通著)より

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大阪府    島津 正史様

満蒙開拓義勇軍、終戦の年、高等科2年の2月入隊、14歳。狭い日本、和歌山では農業の土地分けも出来ない事情もあって志願。茨木県東茨木郡内原の日輪兵舎の生活。終戦の日は快晴、朝より暑い日照り、軽馬「2輪車で馬にひかせる2乗りの車」で水戸街道を伝令で走っていた。

蝉時雨 終戦伝う 砂煙り。
当時政府は、満州の楽土建設を高らかに宣伝若者達えの夢を抱かせました、おおくの人達が将来に希望を抱き渡満しました、筆者もその一人です、結果的に敗戦にて悲惨な犠牲者が出ました、戦争は無慈悲な犠牲を出し人生を狂わせます絶対に戦争はおこしてはなりません。

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昭和万葉俳句前書集 発者高木朗 発行所マルホ株式会社より引用

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