2011年7月11日月曜日

終戦物語 死ぬこととは

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新潟県 金子 しんや様

戦争程悲惨なものはない、聞けわだつみの声、平和程尊いものはない。平和の守り手、若人に老いの身が印し残しおく、正直のところ迷いながら敗戦の記録をしるす。

北鮮に程ちかい東満、延吉の第28歩兵部隊収容所での悲惨な状況、師団司令部で埋めた死体わ1週間で78遺体、部隊の丘に掘られた大きな穴に逃亡を計つて捕られた仲間達が、マンドリンで銃殺されてほりこまれた下士官、兵7名此の眼底に焼きついている。富濠では工場の内にいた千人余りの内、生きのこった者400人余り、毎日毎日が転がされている死体を運んで、河原に埋めるのが私の仕事でした、発疹チフスで大隊長や中隊長に気にいれられない私達31人ず取り残され,幸か不幸か、子茂山駅での作業はソ連へ抑留されて、病気になった人、送り返されてくる戦友の処理に、ソ連兵と収容する為の作業です、到着する気車「貨車}死体を送り還して来る、いな輸送中に息を引き取つたのだろう。唯一人の少尉が高熱にうかされてフラフラで申告しますなんて言うんです、死人特有のにおいが車中にただよつている。此の人は別の車で収容所へ移ってもらったが其の後の事は分からない500人ぐらい取扱わされた

まもなく図もんから来た30人程と、富濠では1人の仲間がソ連兵に射殺された興南でも一人外出中に射殺された、ソ連領ポシェット港へ上陸し小高い丘を行軍中に見たものは拉致抑留中死んだであろう戦友達の死の墓標、数へ切れない、おびた゛たしい「そとぅば」の森立、今でも8月の盆が来ると祈らずにおられない。

幾度酷寒を過ごし帰国を間近にして今一つ悲しい思いでを書いておかねばならない。同じ日本人の仲間同士で在るはずなのに故国の土を踏めるとカザックから、ナホトカに集結時のことアクチーブと言う成り上がりのカブレ者達、暖かく迎えてくれるのが゜人の道であるのにこの者達は露助と同じように憎みても憎み足りない、せっかく2000人連れだって海の見える所まできたのに彼等アクチーブの奴、教育が足らぬと再度シベリヤに帰れと命令しょつた。運良く我々を送って来た政治局のマルチヘノフ中尉にあった先の400人はシベリヤへ再教育としようして車中の人になつた、悔しかった事だろう。400人と
分かれて1600人は故国の土をふみしめたが分かれた人達の消息は今もってしれません、残念でたまらない、そして憎らしい事である、再び同じてつを踏まない為に人の命の尊そを叫び続けたい

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私長谷も抑留3年 同じ思いをしました 延吉収容所は私もいたです、海の見えるナホトカにたどり着いた感激は又ひとしおの思い出ががあります。迎えの船のタラップを踏む間では、何どんな事がおこるか分からない毎日でした、タラップの前にソ連の将校が立っており彼がダバイとひと声駆けられると、又引き戻されるのです、
外地での日本人が敗戦によりどの様な目に遭ったか書き残したいと思います。
                                                                                   {長谷」
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シベリヤ抑留体験記 発行人城田敬助発行所全抑協中央連合会より引用

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