2011年7月13日水曜日

終戦物語 終戦後ハイラルのある日

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熊本県   田上千尋様

武装解除後、陣地を降り兵器廠に収容された、厳しい軍隊生活を終わる事になるが、絶望の虚しい抑留者としての生活がここにあった。日本はとうなったであろう過か将来はどんなになるであろうか、故郷の家族らはどうしているだろうか。

慰霊祭が執りおこなはれた。亡くなった戦友達の冥福を祈る。其の中には親しくしていた幾人の戦友もあった。ハイラルの戦闘で亡くなつた戦友は1、000人近く、全体の五分一か、連日10日間織烈な戦闘であったが、割に弾は当たらないものだと思った。

ハイラルでも毎日使役に出る。亡くなった戦友達の埋葬,物資の少ないソ連は、ありとあらゆる一切の物を貨車に積み込み国内にはこんだ。其の積み込み作業。ある日4名ひと組で、陣地に散った戦友の埋葬にでる。陣地の夏草の中に3名の知らない部隊の戦友の屍を探し埋葬した。野辺の花を一輪さして別れることになるが、これを最後に尋ねるものとて一人もあるまい。その墓辺は夏は夏草が生い茂り、冬は永い永い雪と氷の中に途絶されて、深い眠りを続ける戦友よ、安らかに眠り給え。

晴れた良い天気の朝、使役の為の作業整列、兵器廠の門内に5台のトラックに文乗出発を待った。ソ連の歩哨が門前を動衝していた。其のソ連兵が穴をみっけ、何かめづらしい物を発見したかのように、別の保の歩哨に声をかけて呼び寄せた、2人で暫くのぞいていたが、一人が銃で穴を中をつついたいた。瞬間もの凄い爆発音が耳をつんざいた。2人のソ連兵の姿は見る影もなく消え失せてすいた。私達はトラックの中にふせたが、立っていた戦友の剣つりに飛びちつたソ連兵の肉塊がぶらさがっていた。

一瞬の出来事に騒然となった。ソ連の上官が出てきて大問題となつた、作業も中仕された戦闘間に兵器廠の門の前に濠を堀り、敵戦車の進行に備えた急造爆雷がそのまま放置されたものであった。それをみっけたソ連兵、そして呼び寄せラレタソ連兵の命運を絶った一場面であった。日本軍との終戦を迎え、永い戦雲が全く晴れ全世界に平和の鐘が響いているとき、しかも戦勝国としての誇りもあり、吾々が明日もしれない抑留の身と事と異なり晴れの帰還をまつ故郷と其の肉親ガあつたソ連兵2人、つい先日ま敵兵であったが今考えるとかわいそうなまだうら若い2人のソ連であった。

シベリヤ抑留体験記 発行者城田敬助発行所全抑留中央連合会より引用

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昭和60年6月16日求む 私の人生の支えになりましたみ。
23年 スホトカに3年の抑留 舞鶴港り復員 86歳  宮崎県 長谷

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