2011年10月12日水曜日

終戦物語 ソ連 捕虜抑留者を自国の労働力として 国際法違反

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ソ連は第二次世界大戦で約3千万人の犠牲者わだした。スターリンは、戦後復興の為の労働力として
すでにドイツなどの敗戦国の捕虜を強制労働をさせていた。日本の捕虜 抑留者にも方針どおり強制労働を実施してのである。 ボツタム宣言は「日本の軍隊は武装解除されたあと各自の家庭に復帰し平和的且世生産的の生活を営む機会を与え羅れる」 とある。又捕虜の取り扱いについて「平和克服の後は、成るべく速やかに俯虜を其の本国に帰還せしむべし」と定めたハーク条約に違反し、明らかに国際法違反である。

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満蒙開拓団の悲劇

終戦を知らずに戦い抵抗し、現地住民や土匪におそわれ、山野を彷徨うなかで多くの犠牲者を出した 

満州開拓民秘史の「事件別開拓団死亡者一欄」 を見て死亡別に纏めると。ソ連軍の攻撃・満軍の反乱と土匪の襲撃での戦死者は八開拓団の計1766人、戦死、自決者は三開拓団で計1317人、
自決者は六開拓団で計1491人、満軍による殺害は二開拓団で計182人の犠牲者を出して居る【本書関係のみの開拓団 】


佐渡開拓団跡事件 【東安省ポツリ県】 満州開拓民秘史に依ると

新潟県第10次佐渡開拓団が既に避難したあと、奥地からの開拓団が避難途中に、佐渡開拓団地に集結していた。東安省の一番東のソ連国境沿いの虎林県の清和開拓団【新潟県第七次】と完達嶺義勇隊開拓団、宝清県の埴科郷団、高社宕郷、更科郷、阿智郷、など長野県送出の開拓団が計八団、揚栄庄内などの山形県送出の開拓団が計5団、茨木県送出のの開拓団などその他の開拓団そして報国農業に入っていた青少年などで有ったという。

8月24日夕方ソ連軍偵察機一機が佐渡開拓団近くに不時着し、快諾団がソ連機を炎上させ、搭乗員を射殺したが何人かは逃がしてしまつた。26日ソ連軍が白旗を掲げ進んできた。ソ連兵は女性を連行するときはこうしていて、何回も被害に遭っていたので、開拓団側は女性を連れ出しに来たと判断し、機関銃を乱射してソ連兵20余人を殺害した。

激怒した連軍は28日早朝、迫撃砲等で約一時間に渡り開拓団地を砲撃し、残った生存者を建物の中に閉じこめ、手瑠弾を投げ込み火を放ち焼死させた。撃ち殺し焼き殺し徹底し殺害している。
埴科郷、高社郷、更科郷開拓団の殆どが全滅し、佐渡開拓団の地は焦土と化し、避難集結した開拓団の殉職者総数は1464人で有ったと記してある。終戦をしらず関東軍を信じての、開拓団のなかでも最大の犠牲者をだした事件である。て

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引用元  「えびの市史談会史談史えびの 【第45号えびの40記念号大牟田一成満蒙開拓団】
記事より抜粋

国の為 異国で国を信じ 、関東軍を頼りにした開拓団の悲劇は書くに忍びない現実に起きた事実
です、合掌。

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