2011年10月20日木曜日

終戦物語 清和開拓団の悲劇

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清和開拓団
満州の広野に情熱を傾け、村全体で分村計画を推進し、土地財産すべてを処分し家族を引きつれて途満、開墾に苦労を重ねてようやく前途に光明が見え始めた時、再び全てを放棄しなければならなかった開拓団の心境、残された老人や主人を終戦前の根こそぎ召集で応召された家族などの開拓団や義勇隊開拓団、訓練中の青少年義勇隊、報国農場奉仕隊など、ソ連の攻撃、満軍・土匪や現地住民の襲撃に防戦し逃れて山野をほうかいし、雨の中や飢餓と寒さに耐えての難行苦行の逃避行となった。
婦女子の待避移動の為に関東軍に助けを求めたが、2回とも拒否されて、婦女子を引きつれての避難は難しいと判断し、自決に追い込まれた開拓団もあつた。

敗戦

世界各国どんな国でも、軍隊はまず婦女子を保護するのが任務であり、その為に行動している。開拓団や民間人は日本軍に置き去りにされたので有る。
中村幸二郎氏【満拓理事、満州開拓研所長の任にあり戦後は引き揚開拓団民ともに北海道開拓に入植】は「満州開拓の反省」 【ああ満州】に、

今更ながら、いかに反省するも及ばぬことであるが当時の日本には、あの終戦前後の満州大撤収計画を指揮する智将も名参謀をも欠いていていたことである。物質↑
上の損耗は取り戻すことも可能であろうが、開拓事業のみは「人」がそのはじまりで有る。終戦処理に当たって特に開拓関係においては、いかに多くの人命が失われ
、又傷付けられたことか、その損耗をいくらでも低減するために、どれほどの組織と努力とかが払われたで有ろうか。

戦火に失われた損耗は、戦後引揚完了までに払われた「発疹チフス」「栄養失調」とによる人命の大損失であった。特に満州で生まれ満州で育てられた日本人の幼児の壊滅的損耗は現在の日本経済復興を目のあたり見るに当たって、いかに惜しみみてもなを余りあるものがある。

満州の防衛を放棄し、本土決戦一億玉砕ですべてを失うこともせず、只国体が護持されればよいという、自国の領土も国民の生命、財産の保護も二の次であった。
国が亡びるという国運をかけての戦いではなかつた。天皇制が脅かさられるといゆような危険はどこにもなかった戦争で敗北した

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引用元   「えびの市史談会発行第45号」【史談史大牟田一成手記抜粋】

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