2011年10月27日木曜日

終戦物語 私達はポーヅ頭になり顔を汚し

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満州 長春 [現長春]にて   宮崎県   下牟田 シメ

私は昭和19年4月から満州電信電話局に入社して、3カ月の講習を終えて新京市[現長春]の神京電話局交換係として勤務しました。関口さんも一緒でした。20年8月9、10日頃ソ連機の爆撃がありました。ソ連軍が新京を占領してからは、物品の強奪、婦女子への暴行と危険な怖ろしい毎日でした。私達はボーヅ頭に成り、顔を汚したりして男の格好をし、びくびくした日々でした。

寮には門番の年配の方が、不審・危険な侵入者の時は非常ベルを鳴らすようにしていました。ある日二階で出会い頭のソ連兵に大声を上げて叫びました。ソ連兵は私の腕を引っ張り何かいつていました。後で知りましたが、ソ連の憲兵でソ連兵の見回りにきたのでした。心配ないと言ったのでしょうか、恐怖の一瞬でした。

暫くして治安がいくらかおさまつてから、寮の舎監そんの世話で、満人のキヤンデイーさんに、3人住み込みで働きました、夜は主人のぢいさんの部屋に休ませて私達を守ってくれました。舎監さんが仕入れたタバコを箱にいれ、箱に紐をとおして首にかけ、3人組んで街頭にでてタバコ売りもしました。

寮き食糧不足で、僅かなコーリヤンと味噌の食事でした。栄養失調と、極寒の寒さにたえられず、寮の仲間に死亡者がでました。病院はなく手当てもできず、寮の片隅に埋葬されました。今思うと胸が痛み冥福を祈っています。翌年の21年にはソ連軍と入れ変わった中国軍同士の間で、戦闘が新京の近くでありました。中国の重慶軍と八路軍の戦いだったとききました。寮には開拓団や子供連れの方などが言ってきました。

昭和21年8月。コロ島から、加治木、都城の先輩と貨物船に乗船し、博多港に引き揚げました。玄海灘などで機雷接触の恐れが有るとのことでね船の中では浮き袋を着用し、船を降りる時は頭から白い粉 ddt をかぶりました。故郷の土を踏んだのは8月22日でした。いざとなれば自決して異国の土に果てる覚悟をしていました。

身はたとえ満州野の野辺に果つるとも 操守りし大和撫子

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引用元  「えびの市史談会えびの第45号」  【史談史第45号満州の終戦大牟田
一成手記抜粋】

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