2011年10月20日木曜日

終戦物語 清和開拓団の悲劇

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清和開拓団【新潟県第七次】全新潟混成の集団開拓団

昭和13年1月ー2月に東安省虎林県青和村に入植し依来順調に営農を進め、ソ侵攻時の在団者656人、応召者144人、合計810だったとされている 。8月9日ソ連侵攻の急報で、馬車を連ねて避難を開始。途中山岳地帯に入り、虎林県の完達嶺義勇開拓団【団員144人】で休息し、宝青街と満人の部落を通過する12日ー13日に満軍と土匪集団と満人の襲撃を受ける。  

後続は先頭から5時間遅れており、うしるの婦女子集団は特に死傷者を多くだした。開拓団は死者181名、同行の完達嶺義勇隊開拓団は150人中130名戦死した。
ようやく21日夕方に佐渡開拓団に到着する。28日の事件に遭遇し423人が死亡し、計604名を喪っとている。新潟県で最大の犠牲者をだした開拓団であった。中には一家9人で都満し、父母兄弟妹7人を亡くし、ただ一人悲惨な逃避行をして生還。後に復員してきた兄と只2人だけとなった女性もいた。

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引用元   「えびの市史談会史談史45号満州と長崎での終戦」
{大牟田一成手記抜粋」

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