2011年6月12日日曜日

終戦 物語 終戦はジャワ島 アリホン市 25歳

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えびの市 松岡 宗清様
徴兵検査118人、甲種合格は15人、その内の一人となる、支那事変に参加重慶まで進軍した、いろんな作戦に参加したが苦しい戦闘がおおかった、西小林の戦友が隣にいて戦死した、何時も故郷の話をしながら助けあい死ぬ時は供にとちかった仲だったが、其れからは仇を討ってやるんだと気持ちが強くなり、怖ろしい物はなくなった、馬の背に括りつけ運び野原で火葬した、敵の抵抗はしぶといものだった。

連日の雨、雷 水ぶくれ足は靴には入らず肩にかけ前々へと歩いた、腹にはローブでみんな結ばれていた、隊から離れると死が待っていた、迫撃砲は敵の自慢の武器だった、山の向こうから突然飛んでくるヤツカイな弾だつた、南方へ転身の命ありて上海港より確か12艘の船団の様だったが残念言葉無し、敵潜の襲撃に遭いほとんどの船は波に消えた、無数の兵が漂っていた海が燃えた、地獄とはこんな事かとおもった。私の船は不思議に浮いていた。引き上げる兵はほとんど命はなかつた。

連隊の損害は連隊名が消える程だつた、ジャワ島で敗戦を聴き、信ずる者はいなかつた、一周間ぐらいは皆あれた生活だつた、島には無数の猿が居た、上から椰子の実を投げるので鉄砲を向けると手を合わせ拝む仕草をするので、ドゥする事もできなか 、インドネシヤの独立に荷担したせいか引きあげまで武器は持っていた。

倉庫のけい備の任だった。二年間米飯とは縁がなかった。椰子の実を汁でおかゆみたいに作っていた。ジャカルタ入港、宇部港に復員、7年間の長い軍隊生活だった。

語ればつきない毎日が男の生活だった。体力が落ち歳を取った今できない事だが昔の自分に帰りたい。
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長谷敏通編「私の終戦」より 
14年 陸軍軍曹。天寿を全うされましたご冥福をお祈り致します。


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千葉県 関口 柳紫様
妹愛子は愛知県豊川市の海軍工廠に戦時動員され、終戦近き日、大爆撃をうけて、多くの人と一いっしよに一片の肉も残さず飛び散りました、未だ若き処女のまま幸うすい一生をおわりました、私は愛知県新城市に子供達と疎開して、夫は軍部に関係の仕事で東京に残りました、豊川と新城は近く、其の日の音を今もはるか夢の様に忍び何時までも忘れられません、病で入院、やっと命を得てこれをかきました。
 
     慰霊碑の灼け豆粒ほどの妹の名

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     高木二朗発行 昭和万葉俳句前書集より引用

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