2011年6月28日火曜日

終戦物語

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子供達に竹細工を教える

軍歴 海軍佐世保機関兵入隊、現役で入隊駅前で多数の見送り有り、代表で挨拶した事が今でも忘れる事が出来ない。海軍は軍艦で甲板掃除が大変だった。250メートルの甲板洗い、竹ムチできたえられた。空襲は度々あった、軍艦でなく近くの工場が被弾した。幾度か乗船をくりかえした。出て行く船は途中で撃沈された様だ。制空権がないので大勢の戦友が死んだ。千人針の腹巻を巻生きては帰らじ
と決意で行ったが、途中で船が満員になり3回家に帰った。3回の帰省で終戦を家でむかえた。家の付近には大阪の兵隊が沢山いた
 
生前
は高齢者クラブ会員として、育成会との交流には積極的に参加されましてその竹を利用した物作りには、子供達には素晴らしい経験を与えました故人となられましたが、其の冥福をお祈りいたします。

「私の終戦」著者長谷敏通

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茨城県 竹川 浩様
私は昭和19年9月、宇都宮東部第40部隊に入隊、野砲隊として、厳しい訓練を受け、終戦当日は、栃木県下都賀郡奈佐原に駐屯していた。終戦の玉音は、村の中学校で拝聴した。この時慟哭し、自刃をはかった若き中尉をわすれない。

   鞘はしる自刃の将の剣の露
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昭和万葉俳句前書集 編集マルホ株式会社発行者高木二朗より引用

終戦当日の混乱がいかに大きな衝撃を与えたか、胸詰まる思いです .長谷

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