2011年6月27日月曜日

終戦物語郷土終戦語り

*************
郷土の部隊、都城23連隊後西部17部隊「宮崎県」は中国各地での戦闘に参加、昭和18年にはソロモン群島のブ-ゲンビルへ転進し、ここで多くの戦死も者を出していいる。「筆者の義兄北野與三朗大尉機関銃隊戦死宮崎県西諸方郡加久藤村終戦当時住所」 西川北地区「加久藤村の地区名」では、明治35年生まれから昭和5年生まれの少年兵まで、地区228名の男子の内1136名『6割」が出征し、その内27%が戦死いている。特に大正生まれれは7割が召集を受け、其の4分の一が戦死している。4月には本土決戦に備えて満州から国部隊が西諸全土に配置され、様々な軍への協力をしてきた、又60歳位上の年寄りまで、都城志和池の飛工場作りに動員されている。物資欠乏の為真幸村は塩田開発隊を組織し、西川北からも代表が出て、宮崎の広瀬の海へ2回出かけたが、米軍のグラマンが頭上を飛び回つて、使命を果たさずに帰ってきている。8月には小林で戦闘隊の結成式があり、女の人も竹槍訓練にかりだされていた。「竹槍は戦国時代、本能寺の変のあと土民に襲われた明智光秀の頃の話である」衛生状態も悪く8月には地区に赤痢が発生し、死者まで出ている。

昭和20年の平均寿命男性23,90歳 女性37,50歳という数字は、戦場で、空襲で又乏しい食料,医療の中で死んでいった若者や幼い命の故である。今日繁栄のもとに、どれだけ多くの犠牲があったか、戦後60年を過ぎて知る人も少なくなった極寒のシベリヤで、熱帯の密林で尊い命を落とした人が、現在の我々の暮らしを見たら極楽浄土に見えるだろう。

いじめや自殺が話題となっている今、戦争を知っている高齢者はもっと若者や子供達に昔の話をしてやるべきではなかろうか。
**********
「えびの第45号」創立40周年記念号「発行者 えびの市史談会記事引用

【山下常昌氏紹介】
第八代の史談会長は、温厚な人柄で、「人に頼まれれば、いやの出来ない性格で・・・・」と云われるように、史談会の会長も快く引き受けていただき六年間も会の為に尽力していただきました。

その間にもえびの市社会福祉協議会の依頼を受けて、「えびの福祉作業所」の設立に尽力され、立ち上げられると、初代所長として運営に努力され、当初、飯野中央公民館の南にあった場所から、大明司保育所の跡に移転され、事業を軌道にのせられました。

また西川北の民謡芸能である「鏡とぎ踊り」を福活、子供達に継承されるなど、多方面にわたって尽力され、其の功績が認められて、平成22年の「えびの市制40周年記念式」で教育・文化部門の功労者として表彰をうけられました。

なをこの時、えびの市史談も表彰を受けました。長谷も「私の終戦」の発行に当たり 「発刊によせて」と有難い祝文をいただきました。

0 件のコメント:

コメントを投稿