2011年6月30日木曜日

終戦物語 奈良の航空隊現在天理市

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絵柳 益夫様 宮崎県

陸軍 海軍に志願する。海軍より合格通知が早くきた。そして後から陸軍よりも通知があった。昭和20年6月13日
栗下を後にする。加久籐1名 真幸2名だった。6月15日奈良航空隊に少年航空兵として入隊。7月頃から空襲が激しくなる。20年8月15日、奈良航空隊練兵場に全員集合して天皇陛下のラジオ放送を聞く。一同声無く胸中張りさけるものあり、
全国より志願せし第64分隊245人を集め、国の再建は君達にあると分隊長の訓辞があり、滅私 奉公 国に殉する事無く一週間かかって栗下に復員する。
.帰路貨車であったがあったが広島の原爆の跡を垣間見る事が出来て其の光景は忘れる事はできない。近所の山林に石川部隊こが残留していた。空に雲を引いて飛ぶ     
B29 を見上げ、何か空しい気持ちとなる。宮崎空港 今の赤江などで作ぎように従した事が思い出される、復員後は家で農業にはげんだ。昭和61年栗下区民生委員を拝命、戦後を支えた人達も高齢者となられ、これからは福祉社会への杖となる事を願った。氏は長年の民政委員として市より特別表彰をうけられました。

現在もご 元気にて区民の信望を得ましてご活躍されておられます

 「私の終戦」長谷著者より

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2011年6月28日火曜日

終戦物語

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子供達に竹細工を教える

軍歴 海軍佐世保機関兵入隊、現役で入隊駅前で多数の見送り有り、代表で挨拶した事が今でも忘れる事が出来ない。海軍は軍艦で甲板掃除が大変だった。250メートルの甲板洗い、竹ムチできたえられた。空襲は度々あった、軍艦でなく近くの工場が被弾した。幾度か乗船をくりかえした。出て行く船は途中で撃沈された様だ。制空権がないので大勢の戦友が死んだ。千人針の腹巻を巻生きては帰らじ
と決意で行ったが、途中で船が満員になり3回家に帰った。3回の帰省で終戦を家でむかえた。家の付近には大阪の兵隊が沢山いた
 
生前
は高齢者クラブ会員として、育成会との交流には積極的に参加されましてその竹を利用した物作りには、子供達には素晴らしい経験を与えました故人となられましたが、其の冥福をお祈りいたします。

「私の終戦」著者長谷敏通

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茨城県 竹川 浩様
私は昭和19年9月、宇都宮東部第40部隊に入隊、野砲隊として、厳しい訓練を受け、終戦当日は、栃木県下都賀郡奈佐原に駐屯していた。終戦の玉音は、村の中学校で拝聴した。この時慟哭し、自刃をはかった若き中尉をわすれない。

   鞘はしる自刃の将の剣の露
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昭和万葉俳句前書集 編集マルホ株式会社発行者高木二朗より引用

終戦当日の混乱がいかに大きな衝撃を与えたか、胸詰まる思いです .長谷

2011年6月27日月曜日

終戦物語郷土終戦語り

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郷土の部隊、都城23連隊後西部17部隊「宮崎県」は中国各地での戦闘に参加、昭和18年にはソロモン群島のブ-ゲンビルへ転進し、ここで多くの戦死も者を出していいる。「筆者の義兄北野與三朗大尉機関銃隊戦死宮崎県西諸方郡加久藤村終戦当時住所」 西川北地区「加久藤村の地区名」では、明治35年生まれから昭和5年生まれの少年兵まで、地区228名の男子の内1136名『6割」が出征し、その内27%が戦死いている。特に大正生まれれは7割が召集を受け、其の4分の一が戦死している。4月には本土決戦に備えて満州から国部隊が西諸全土に配置され、様々な軍への協力をしてきた、又60歳位上の年寄りまで、都城志和池の飛工場作りに動員されている。物資欠乏の為真幸村は塩田開発隊を組織し、西川北からも代表が出て、宮崎の広瀬の海へ2回出かけたが、米軍のグラマンが頭上を飛び回つて、使命を果たさずに帰ってきている。8月には小林で戦闘隊の結成式があり、女の人も竹槍訓練にかりだされていた。「竹槍は戦国時代、本能寺の変のあと土民に襲われた明智光秀の頃の話である」衛生状態も悪く8月には地区に赤痢が発生し、死者まで出ている。

昭和20年の平均寿命男性23,90歳 女性37,50歳という数字は、戦場で、空襲で又乏しい食料,医療の中で死んでいった若者や幼い命の故である。今日繁栄のもとに、どれだけ多くの犠牲があったか、戦後60年を過ぎて知る人も少なくなった極寒のシベリヤで、熱帯の密林で尊い命を落とした人が、現在の我々の暮らしを見たら極楽浄土に見えるだろう。

いじめや自殺が話題となっている今、戦争を知っている高齢者はもっと若者や子供達に昔の話をしてやるべきではなかろうか。
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「えびの第45号」創立40周年記念号「発行者 えびの市史談会記事引用

【山下常昌氏紹介】
第八代の史談会長は、温厚な人柄で、「人に頼まれれば、いやの出来ない性格で・・・・」と云われるように、史談会の会長も快く引き受けていただき六年間も会の為に尽力していただきました。

その間にもえびの市社会福祉協議会の依頼を受けて、「えびの福祉作業所」の設立に尽力され、立ち上げられると、初代所長として運営に努力され、当初、飯野中央公民館の南にあった場所から、大明司保育所の跡に移転され、事業を軌道にのせられました。

また西川北の民謡芸能である「鏡とぎ踊り」を福活、子供達に継承されるなど、多方面にわたって尽力され、其の功績が認められて、平成22年の「えびの市制40周年記念式」で教育・文化部門の功労者として表彰をうけられました。

なをこの時、えびの市史談も表彰を受けました。長谷も「私の終戦」の発行に当たり 「発刊によせて」と有難い祝文をいただきました。

2011年6月24日金曜日

終戦 物語 空襲と戦闘による者続き

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宮崎県 山下常昌様
郷土では
郷土の部隊、都城23連隊後西部17部隊は中国各地での戦闘に参加、昭和18年にはソロモン群島のブ-ゲンビルへ転進し、ここで多くの犠牲者を出して居る【私長谷の義兄陸軍大尉北野與三朗ブ-ゲンビル島トロキナにて戦死】西川北地区では、明治35年生まれから昭和5年生まれの少年兵まで、地区228名の男子内136名6割が出征し、その内37名 27%

2011年6月23日木曜日

終戦 物語 空襲 戦闘での死者

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宮崎県   山下常昌様
平成3年、東大の図書館にねむっていた秋丸機関の名が初めて世にでた。其の秋丸機関の予言よりも早く、開戦後1年を経ず敗戦のきざしは見え始めていたここで改めて昭和20年を振り返ってみる。昭和史年表によると大本営は240万の防備隊を編成して本土決戦の準備を始めた 3月334機のB29、東京を空襲、死者84,000人 罹災者150万人 消失戸数23万戸 主要都市への無差別爆撃がはじまった。都市の内40%が焼かれ、25%の住宅が焼失し、空襲による死者・行方不明33万人 負傷者34万人 焼け出された人は880万人にもなった。東京空襲での死者84、000人はえびの市23,000人 小林市40,000人 高原町10,000人 野尻町8,500人の合計よりも多い数である。これだけの死者はどのように処理されたのだろうか、年表によると、3月、形政憤激挺身隊「囚人141人で組織」、錦糸公園付近の戦災遺体処理に初出動、一穴200体収容の大穴10個を作り、遺体をトラックで搬入し、埋葬と有る。

おそらく全国主要都市での空襲による死者33万人も同じように処理されたで有ろう。・3月、政府、「決戦教育措置要項」で、国民学校初等科以外の授業を4月から1年間停止。・4月、米軍、沖縄本島に上陸開始。・6月、沖縄前戦で、負傷兵看護に従事した師範女子部と第一高女の生徒49人が集団自決「沖縄戦での集団自決があい次ぐ」6月、沖縄での日本軍全滅、軍人軍属の死者12万人、一般県民の死者約17万。・6月 義勇兵役交布本土決戦に供え、男子15-60歳、女17-40歳の者を国民義勇戦闘隊に編成。8月、広島に原爆投下、「年末までの死者推定14万人」、8月ソ連、日本に宣戦布告、満州へ進撃開始、関東軍75万のうち捕虜50万人、8月、長崎に原爆投下、゜「年末までの死者7万人+-1万人。

此の大戦での犠牲者
戦死者・行方不明者    186万人
負傷者          468万人
一般市民の死傷者      67万人

前編終わり 著者山下常昌 「えびの第41号」発行者えびの史談会より引用



  

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2011年6月21日火曜日

終戦 物語 敗戦 復員 父の死

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20年8月15日 全員にて敗戦を聞く。交戦を主帳する声大なるも大勢は無条件降伏の止む無きに至る。一時現地人不穏な空気あれど大きな混乱はありませんでししたた。武装解除は平穏にイギリス軍の立合でした。驚いた事に婦人の軍人が多い事でした兵隊は黒人兵でした。半年ばかし食べる事に苦労しましたが、後から改善されました。二年以上の抑留でしたが、使役は 荷揚 便所汲み 道路作り 洗濯でした。必勝を信じ若き血潮を祖国に捧げんと国を後にしましたが果たせず、22年10月1日シンガポ-ルで復員船に10月14日、宇治港上陸して無事復員し現在に至っております。


父の死
南方に出撃前国富の宿に父が面会にきました。滅私奉公生きて帰らじと涙をながして励ましてくれました。今子を持つ身となり私自身頼りの子供  (宇宙に衛星打ち上げ業務)優秀な青年でした病にて早く無くなりました」を無くした今励ましてくれた父の胸中を思い複雑な気持ちです。命長らえ帰還せしも父の姿無く私の命と
換であったとしか思われません。復員後宮崎復員局より通知が有り引揚金支払を受け取りに妹と出かけました。宮崎は焼け野原でした。支払金は以外に少く妹との約束どころか帰りの旅費もやっとで帰る事ができました。終わります。
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(私の終戦 2)    長谷敏通著

2011年6月20日月曜日

終戦 物語 続き 特攻機 志願

戦局が厳しくなり、20年3月全員があつまり特攻機について上官より詳しい説明がありました。上からの命令で無くあくまでも君達の判断であると個人的にすべての家庭的事情間で話しあいました。決断は全員が目隠する事になり、志願する隊員は手を上げる事になりました。私迷う事無く右手をあげました。後日お互いに胸中を話し合いましたが複雑なものがありました。

私は新田原を出発する前父が面会にきました。特別の許可をえて宿で父が戦地に行く私に滅私奉公を説き命は国に捧げて来いと言われました。

時局といえ当時の父の胸中を思い私も子を持つ親となり時代の流れと平和な今を有難くおもいます。戦時中は出征兵士の家の庭には必ず大くて長い竹に日の丸をつけて立って居ました。父母がどんな思いで見ていたか知る由も有りません。連合軍の攻撃は激しく昼夜とはず其の物量には抗する事出来ず、決死の覚悟で待機せしも、出撃の時無く無念終戦と成りました。知覧特攻平和会館に一番機で出撃した戦友の大村小尉の遺影があります。私は出撃する事無く帰還しました。

中編 終わり

    「私の終戦 2号」 (長谷著)より

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北街道 吉田 龍耳 様

終戦の日、上官である校長から其の事実をしらされ、みんなで号泣した。処は滋賀県 大津市にあった陸軍少年飛行学校、16歳の少年は、空駆ける職業軍人を夢見ていたのである。大空にこそ死
に場所があると信じていたのである。

  少年兵 死を阻まれし 終戦日  
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   昭和万葉俳句前書集(発行者 高木二朗 発行所マルホ株式会社)より引用

2011年6月19日日曜日

終戦 物語 戦闘機操縦士 当時18歳終戦マーレ半島 アロルスータ

18年 10月大刀洗陸軍学校入校。滋賀県大津少年飛行兵学校入校。昭和19年7月20日ー大刀洗陸軍飛行学校卒業。19年8月新田原より重曝機に7人の戦友と南方戦線に向かう途中台湾をへてクラーク飛行場着「19年8月」 伍長拝命10月1日。19年10月22日 マニラ港出発。11月3日シンガポール上陸。20年3月泰 ・仏国境通過20年3月9日マレー半島アロルスタ-基地。6月9日南方軍第一行航空隊戦闘機操縦士となる。

訓練 郷土訪問飛行
大刀洗での訓練はグライダ-での訓練でした。60人の戦友が力を合わせ大きなゴム紐を引き反動で上に飛ぶのです。はじめは地上を滑るだけて゛したが少しづつ空に上がる様になりました。飛行兵
としての気持が強くなりました。

宮崎移動 初等練習機での訓練 
宮崎への移動が有り練習機での訓練を受けました。高千穂の峰上空での訓練飛行でしたが、教官の厚意で加久藤の母校上空を2度も飛ぶ事が出来ました。私に取っては夢みたいな出来ごとでした。フィリピンのクラークにて約4ケ月97式戦闘機の厳しい訓練を受け、戦闘機乗りの飛行兵となりました。連合軍の攻撃織烈となりました。 前の語り終わり 続きとします。

    「私の終戦」 (長谷敏通著)より

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愛知県 鈴木七朗様

7月20日の空襲により家は灰燼に帰し、私は瀕死の重傷を負い、まだ臥床中で、勤務先の東海銀行を休んでいた。ようやく近所に焼け残った家を借り、同じように被災した親族二家族と、隣家の
一家族の15人が雑居中で、飢餓生活の最中で、8月15日当日御前崎の防備隊に召集されていた弟が私の見舞に来ており、天皇の詔勅を聴いて戦争は終わったと飛んで帰って行った。

   けふをある命一つを雲の峰

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  昭和万葉俳句前書集(発行者 高木二朗 マルホ株式会社)より引用

2011年6月18日土曜日

終戦 物語 女学生ながらも モンペ姿に軍帽

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静岡県 杉山雅子様

学徒動員先の日本兵器廠豊橋工場空襲で焼け、幸田工場へ、しばしば汽車が動かず、線路づたいに歩いて通勤しました。玉音は、夏草茂る工場の空地で。女学生ながらモンペ姿に軍帽。一途に国を思い、国の為に一生懸命働きました。
 
    青春のぽかり穴あき夏の雲

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愛知県 安藤幸子様
終戦当時、私は国民学校四年生の夏休みでした、幸い戦災もうけず、当日は自宅の庭で、近所の人たちと玉音放送を聴き、これで南方の父も帰ると喜んだののでした。奇しくも二年後、父の戦死の公報は終戦の日でした。

    終戦日寡婦となりたる母老いし

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     昭和万葉俳句前書集(発行者 高木二朗)より引用



戦争で多くの人が亡くなりました 待ちに待った夫の戦死 戦争は残酷 無情 残された人達の苦労はいかばかりで合った事でしょう。

    終戦時 平均寿命 男24 女38 悲しい事実

2011年6月17日金曜日

 終戦 物語 ノン と シタメ

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人の血を吸って生きる物に蚤と虱がいた。ノンは赤茶色か飴色で光沢があり胡麻より小さく230センチは軽くとんだ。肌着にいて逃げるのが速「蚤一匹若い女を裸にし」とか云う川柳も有り、指に唾を付けて素早く抑えないと次に飛んでいった。畳で繁殖するとも言われ、臼庭にも沢山いて、足に飛びついてぞろぞろと上ってくるもだった。ノンの多い家少ない家があって「どこどこの家はノンが多かがなー」といつたりした、夏にいた。  シタメには髪の毛にいる黒いのと肌着にいる白い衣虱が板。男は皆丸坊主だったのでいなかったが女の子の髪に沢山いた。母親が取ってくれたり姉妹で取り合ったりしていた。

頭を洗わ無い人に多いようで親の注意や生活程度とも関係があるように思えた。ビンダレ『木製洗面器」に湯を入れ上半身裸で髪を洗うのをよく見かけた。頭の地肌か髪の毛にしがみ付いており、爪でしごき取り縁の板の上の上等で親指の爪で潰すのだった。

衣虱は満州から兵隊が持って来たとも衣われていた。冬の寒い時季に肌着の縫い目におり、体のあらゆる所を刺すといぅか吸い付いて血を吸うのであった。肌には赤い吸口が沢山出来、痒いので常に体を動かし「シメタ踊り」と言う新語もうまれた。繁殖が早くシャツ等の縫目に何十匹もいて両手の親指の爪で潰すと爪は血で真赤になるのだった。またシメタも白いのに血を吸って腹が赤くなっていた。又縫い目には何百個もの白く光る卵を生み付けていた。とても取り切れないので母は下着を風呂に入れて煮るのだった。それでも何日かすると湧く様に繁殖しシメタ踊りをさせられるのだった。米軍がDDT殺虫剤を持って来て絶滅したようだった。 
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  「第33号 えびの」(発行者えびの市 史談会 江藤則男編集)より引用

シラミ.では私達ソ連での抑留 生活で シラミの大軍には手をあげました、江藤さんの話と全く同じで大変な苦労しました今では笑い話になりますが、熱が出でて苦しむ戦友もいました。後ではソ連側の協力でおらなくなりましたが、鉄条網で囲まれた捕慮と故郷の人達と同じ苦しみをした事は語りつぎたいと思います。

2011年6月16日木曜日

終戦物語 兵庫県

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姫路市 中村登様

8月15日、茨城県筑紫郡、振武特攻基地。筑紫山麓飛行場警備の為、陸軍衛生兵長として、東部第188部隊配属独立機関砲部隊の要員勤務。看護衛生に服務する。当時年齢25歳。敗戦の玉音放送を聴く、上空晴天敵機無し、心は暗く,炎天下の兵舎と裸の兵隊と戦争の空虚と命の安堵を痛感して、夏の夜の月明かりと、筑紫名物の蟇の声を深更まで聴いて、ねむれむ夜であった

   命抛つ一機の影や雲の峰
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奈良県 牧建様

橘部隊に所属し、茨城県河根村で,初年兵教育を民家に分宿しながら受けていた、終戦当日は、空襲警報発令中で、米艦載機が超低空で飛び、玉音放送をとぎれ とぎれで聴いた、そして本土決戦を誓い合って、銃を握りしめた。

   聞きにくき玉音へ 「気を付け」す

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 昭和万葉俳句前書集(発行者 高木二朗 発行所 マルホ株式会社)より引用

    敗戦の思いは 場所また其の状況でいろいろです。

23年6月14日 晴れ 終戦物語グラマン機の惨劇

麦の供出をするために荷馬車に麦を積んで、駅前の農協倉庫に向かっていた、
坂元、芋畠の白坂盛行さんは、突然、東の方からこちらに向かって八幡ケ丘
れすれに飛んでくるみられ無い飛行機が眼につきました、其れは見る見るまに
近づき、ダツ ダツ タツ゛とおおきな音で機関銃を発射すると、グ-ンと眼の前
の赤松林をさけて急上昇して西の方に飛び去りました、駅前の作業員所と其の
周辺には機銃の弾丸の後が18ケ所もみっかったと言います、其れはいっしゅんの
出来事でした、其の時、危ないと感じた白坂さんは、とっさに荷馬車の下に身を伏せ
ました、我に返った白坂さんが、馬車の下からはい出てみると、馬の腹に機銃弾が
命中して腸が飛び出し、地べたまでたれさがって息もたえたえでした、白坂さんは
荷馬車の延べ棒をはずしてやると、とりあえず芋畑まで5キロの道を走りましたが、
暫く立っていた馬は ヒヒ ーンと一声なくと、力っきてぱったり倒れて死んでしまい
ました 又荷馬車に積んだ麦のカマスを機銃弾が射ぬいて、荷馬車の心棒に当たっ
ていましたが、飛び散った弾丸の破片が白坂さんのふもとももに、2個入つてした、当時、芋畑には、
飛行場を作る為に、航空部 建設部隊が入っていましたが、隊長は、飯野橋、東
たもとに有る 飯島石油店 の前社長 飯島正三さん 元陸軍大尉 でした
飯島さんは、駅前の状況を受けると、部隊の軍医 草場中尉の治療を受けました。
グラマン機はさらに西へすすみ、加久藤小学校をおそいます、8月10日といえば、お盆前の学校は休みのはずですが、戦いが激しくなつた昭和20年、生徒達も、のんき
に夏休みを楽しんで入られる時代では有りませんでした、加久藤国民学校「当時名」
上級生達は 「祖国振興隊員」として休みも返上して勤労奉仕 「ボランティヤ」にはげ
んでいました 、其の日は栗下の 長谷さん宅付近に国のアルコール工場が建てられる事になり其の整備作業に出ていました、当時学校の向かいには、現在の市役所正
門の所には立派講堂が有り、歩兵第40連隊の兵隊さんが入っていました、「中略」
その日は高等科2年生の 稲留 淳さんと、外に3、4、名の生徒が体のぐあいが悪く
教室に残っていました、稲留さんの教室は二階のはしから2番めの教室だったそうで
す、急にバリ、 バリ、 バリ、と機銃の音が聞こえるのと、ガツ、ガッ、ガッ、と校舎の
板かべがうち砕かれるのとほとんど動じて、何が起こつたのか考えるひまもありませんでした稲留さんは、グワーンと何かに叩きつけられたようなショツクを体ぜんたいに
うけて床に倒れ込みました。ひめいを聞いて、下から兵隊がかけ上がって着て、応急手当の止血をしましたが、銃弾の一発は右足ふもとの付け根を右から左へ突きぬけていました。そして破裂した一発の銃弾の破片は背中の肉にくいこみ、右腕のひじの
部分を切り先、左腕も傷つけました。栗下にいた中俣先生は、同級生の福岡睦夫さ
ン達に「モツコ」を持ってくるようにいわれましたので作業場に投げ出してあつた「モッコ」をもって福岡さんと春口香取さんが走って行って持ってきて、稲留さんをのせました。「中略」駆け足のような早足で大溝原の池田病院へ向かいました。ようやく病院へ
着きますと、池田先生がすぐ出て来て、稲留さんを抱えるようにして治療室に連れて
ゆき治療をはじめ、ふとももの治療のほかに銃弾の破片四個を取りだされて治療は
終わりました。その間、稲留そんはそうとうの出血がありましたので、輸血しなければ
危ないと池田先生が云われましたが、いっしよについてこられた東高雄先生は、自分
の血を取って輸血をしてくださいと申し出られました。「中略」こうして、先生 同級生の
おかげで一命を取り止めた稲留さんは、鹿児島県の横川町で新聞販業をしておられ
ましたが、「今でも冬は傷あとが痛みます」と云っておられました。稲留さんの「第に次
世界大戦」は、まだ終わっていないのです。現在、加久藤の迫田病院の院長、迫田欽一先生も、その時いっしよに教室にいて、飛び散った銃弾の破片で右足に傷を受けられました。 
    中・小学生のための えびのと太平洋戦争 編集 市田 寛幸
                 発 行 所    えびの市民図書館より 引 用
 
私 「長谷」今でも現在地に住んでおります、当時の事は復員して母から聞くものでした、池田先生には診察していただいた事を思い出します、物の不自由な時代でしたが
隣近所助けあって暮らしておりましたと、近くのやまに大勢の兵隊さんが小屋をつくり
住んでいたと話していました、その頃私は、満州 北満の国境の山の部隊に7月に入
隊した裸の兵隊で、武器は無くスコップで壕堀でした8月9日頃と思いますが突然ソ連
機械化部隊が国境を越えて侵入して来ました、前線の部隊は善戦しましたが圧倒適な戦力には抗すべく無く通信不能となり私の中隊は後方の山に陣地を構えました、
下を走る見たことも無い重戦車 タイヤが6輪の車 日本車は4輪でした 、銃は自動
式、 其の戦力には抗する武器も無く後方に撤退するしか無く山の中を彷徨していました..苦しい日びてしたが離れれば死が待っています、国の身上申告書には8月21に
敗戦を知り、中隊は現地で解散しました、私は5人の戦友と山中で突然ソ連兵の撃つ
自動小銃で囲まれ最悪の状態で捕虜になりました、その時に背中 横に食い込んだ
ソ連兵の筒の恐ろしさは忘れる事はできません、シベリヤ抑留の始まりでした。
歩兵284連隊 第15283部隊 二等兵 長谷 敏通 宮崎県 留守業務部第一課
現住所 宮崎県えびの市 東永江浦633  86歳  23年 8月16日

2011年6月12日日曜日

終戦 物語 終戦はジャワ島 アリホン市 25歳

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えびの市 松岡 宗清様
徴兵検査118人、甲種合格は15人、その内の一人となる、支那事変に参加重慶まで進軍した、いろんな作戦に参加したが苦しい戦闘がおおかった、西小林の戦友が隣にいて戦死した、何時も故郷の話をしながら助けあい死ぬ時は供にとちかった仲だったが、其れからは仇を討ってやるんだと気持ちが強くなり、怖ろしい物はなくなった、馬の背に括りつけ運び野原で火葬した、敵の抵抗はしぶといものだった。

連日の雨、雷 水ぶくれ足は靴には入らず肩にかけ前々へと歩いた、腹にはローブでみんな結ばれていた、隊から離れると死が待っていた、迫撃砲は敵の自慢の武器だった、山の向こうから突然飛んでくるヤツカイな弾だつた、南方へ転身の命ありて上海港より確か12艘の船団の様だったが残念言葉無し、敵潜の襲撃に遭いほとんどの船は波に消えた、無数の兵が漂っていた海が燃えた、地獄とはこんな事かとおもった。私の船は不思議に浮いていた。引き上げる兵はほとんど命はなかつた。

連隊の損害は連隊名が消える程だつた、ジャワ島で敗戦を聴き、信ずる者はいなかつた、一周間ぐらいは皆あれた生活だつた、島には無数の猿が居た、上から椰子の実を投げるので鉄砲を向けると手を合わせ拝む仕草をするので、ドゥする事もできなか 、インドネシヤの独立に荷担したせいか引きあげまで武器は持っていた。

倉庫のけい備の任だった。二年間米飯とは縁がなかった。椰子の実を汁でおかゆみたいに作っていた。ジャカルタ入港、宇部港に復員、7年間の長い軍隊生活だった。

語ればつきない毎日が男の生活だった。体力が落ち歳を取った今できない事だが昔の自分に帰りたい。
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長谷敏通編「私の終戦」より 
14年 陸軍軍曹。天寿を全うされましたご冥福をお祈り致します。


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千葉県 関口 柳紫様
妹愛子は愛知県豊川市の海軍工廠に戦時動員され、終戦近き日、大爆撃をうけて、多くの人と一いっしよに一片の肉も残さず飛び散りました、未だ若き処女のまま幸うすい一生をおわりました、私は愛知県新城市に子供達と疎開して、夫は軍部に関係の仕事で東京に残りました、豊川と新城は近く、其の日の音を今もはるか夢の様に忍び何時までも忘れられません、病で入院、やっと命を得てこれをかきました。
 
     慰霊碑の灼け豆粒ほどの妹の名

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     高木二朗発行 昭和万葉俳句前書集より引用

2011年6月11日土曜日

6 月11日 雨 終戦物語 軍歌

ここは御国を何百里、離れて遠き満州の、赤い夕日に照らされて、
友は野末の石の下、思えばかなし昨日まで、真っ先かけて突進し、
敵をさんざん懲らしたる、勇士はここに眠れるか、ああ戦いの最中に、
にわかにはたと倒れしを、我は思わず駆けよって、軍律厳しいなかなれど、
是がみすてておかりょか、しっかりせよと炊きお越し、仮包帯も弾の中、
折りから起こる吶喊に、友はよぅよぅ顔あげて、御国の為がかまわずに、
遅れてくれるな眼に涙、後に心は残れども、残しちゃ成らぬ此のからだ、
それじや行くよと分かれたが、永の別れとなったのか、戦いすんで日が暮れて、
探しに戻る心では、どうぞ生きていてくれよ、ものなどいえとねごうたに、
空しく冷えて魂は、くに帰にかぇつたポケットに、時計ばかしがコチコチと、
動いているのも情けなや、思えば去年船出して、御国が見えなくなったとき、
玄海灘で手を握り、名を名乗ったのが初めにて、其れから後は一本の、
煙草も二人で分けてのみ、着いた手紙も見せおぅて、身の上ばなしくりかえし、
肩を抱いては口ぐせに、死んだら骨を頼むぞと、いい交わしたる二人仲、
思いもよらず我ひとり、不思議に命永らえて、赤い夕陽の満州に、
友の塚穴掘ろうとは、くまなく晴れた月今宵、心しみじみ筆とつて、友の最後をこまごまと、親御へ送るこの手紙、筆の運びはつたないが、行燈の影で親たちの、読まれる心思いやり、思わず落とすひと雫く
    引用  戦友 真下 飛泉 様 作詞

2011年6月10日金曜日

5 月10日 雨 終戦物語 

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山形県  進藤 主税 様
青森県八戸市郊外の陸軍航空隊にいた、航空隊とは名ばかりで、飛行機無はほとんど無く、召集の二等兵である私は、水際作戦用の消耗品であった、殴られながら戦闘訓練をし、畑を作っていた、八月十五日の午後は仕事もなかった。

     ひそひそと 遠き夏の灯を見ておりし

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千葉県  千田 弘子 様
青森市にて、ある夜は母の背に負われ、ある夜は母の胸に抱かれて、空襲警報下を逃げ回った、やがて焦土で迎えた終戦?無一物となつた一家の其れからの生活は、ひとり母の力に負うところが大きかった、40年の歳月が過ぎ、其の母もいない゛゛゛゛゛

     敗戦や女重たき荷を背負う

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宮城県 菅野 久 様
其の日私たちの、登米郡米谷小学校では、焼畑開墾地へ蕎麦の
種をまく日であった、食糧増産ー夏休み返上の全校作業であつた。
高等科の生徒140名は、蕎麦種6袋を2台の荷車に積んで、学校
から4キロの山道を上り、現地に着いたのはひ高い9時頃であつた
休む間もなく種がまかれた、ひとやすみしょうと思っていた、小使さん
が来て重大放送の有る事をしらされた。

     焼山の開墾の日々夏休み

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  昭和万葉俳句書集 高木 二朗 マルホ株式会社 引 用

2011年6月9日木曜日

終戦物語 千人針と竹やり忘れられない

父が出征中、母は5人の子供を抱えて頑張っていた、物資の配給が有ると
大きな袋を嬉しそう顔して持ち帰っていた母を思い出す、忘れないのが千
人針である、千人の人が一針ずつ白い布に縫っていき兵隊さんのお守りに
していた、虎は千里行って 千里戻るとの言い伝えから 虎年 生まれの人
は自分の年だけ縫っていたので、虎年の姉は7針も縫えたと得意になって
いた、近くの公民館では女の人が竹やりを持って 一歩進んで二進進む
の号令に併せて、藁人形めがけて突進していた、子供の私たちは飛行機
が飛んでくると高い所に上って大きな声で おとうさん と叫んでいた、
父は日は飛行機に乗っているものと思い込んでいた、其の父が復員して
きた日、何も知らない私は友達と高い土手から飛びおりて遊んでいた。
 とぼかい、なにかい、なによっかひっとべ といいながら
         えびの市  福 元 幸 子  主婦

2011年6月8日水曜日

23 年 6月8日終戦物語 千人針の歌

戦争に出征して行く人達に女性達が武運長久を願い、町角に立ちて
道行く人達に一針事腹巻になる布切れに針をとうしてもらい、多くの
人達の願いを貰い腹に巻いて出征するものでした、戦時中はその様
な風景を良く見かけました、父も母が作った千人針巻を巻いて南方
戦線に行きました。
 心込めて送った 千人針の歌
橋の袂に 町角に、並木の路に停車場に、千人針の人の数、心込めて運ぶ針、
飛び行く号外、鈴の音に、胸は沸き達、引き締まる、
どうぞ人針、兄の為、背の君の為 叔父の為。
人は変われど、真心は、皆んな一針縫いたいと、じっと見ている昼の月
 私が子供の頃父が出征しました、当時の事は忘れる事は此の歳にな
 つても忘れる事はありません、70年程の頃の歌ですので間違が有る
 かもしれません、父は当時福岡県八幡駅から多くの人達の万歳の声
 で出征しました、昭和16年だと思います。  長谷 敏通 86歳

2011年6月7日火曜日

23年6月7日 広島の原爆

広島に20年8月6日8時15分原子爆弾が
B29から落とされました
、34万の人口の78。000
人が死に 行方不明51.000人 原爆は世界の歴史をかえました。
中国軍の将校が立ち並ぶ、日本軍の武装解除だった、持ち物は全部
足もとに並べられた。敵将校の厳しい目が通り過ぎる、小銃の菊の紋
はヤスリで消されていて最早日本軍の姿はなかった、昭和16年2月
熊本連隊に現役で入隊。訓練する間も無く門司港より大連港に上陸、
工兵隊として幾度の戦闘に参加休む日も無い連日の空襲、祖国の必勝
を信じた多くの戦友をうしなつた、果てしない行軍幾百里に並べられた
物は何だったか、敗戦とは気持の切替は厳しいものが有り、荒れた兵隊
もいました、日が流れましたがなんとシラミのの大軍には皆手をあげました、
シラミ取りが大きな仕事でした、シラミで熱がでて、亡くなった人もおりました、
揚子江を多数の小舟で下り、上海から鹿児島に引き揚る開門岳が見えた時
の船内の喜びは何物にも代え難い祖国へ生きてかえつた喜びの叫びでした。
  昭和21年6月 鹿児島上陸  語り人は天寿を全うされました
 ご冥福をお祈り申し上げます   「私の終戦」より 長谷

終戦の年の札幌は冷夏で、主食の遅配が2か月余となり、野菜の雑炊が主
であった、当時勤務していた軍需工場で炎昼に詔勅を聴き、其の3日後。義兄
が千葉で兵隊に訓辞後自決した、私のすぐ上の兄は未帰還で、兄を待ちつつ
母は逝った。 米軍に母校は接収終戦日  茨城市 小林 幸子 様

2011年6月6日月曜日

23 ,年6月6日 終戦 物語

戦争は負けるとは思いもしなかった、何も無い時代だったが、朝から遅くまで
今思えばよく働いた毎日だった、戦争が終わり米で品物が手にいる様に成った、
買出しの人がよくくるものだった、家に一人居たとき、都会の人と分かる品の良い
若い婦人が襟巻と米と替えてくれと拝むように幾度も頭を下げた、品物は田舎で
は手に入らない良い物だったがまだ嫁の身、貴重な米には手を入れる事は許さ
れる時代では無かった、此の歳に為り子供、孫達に囲まれ過ごす事の出来る身
となりましたが、ふとあの時の事が思いだされます、世の中が変わりましたが、
年寄には有難い世と成りました 
私の終戦 平成18年編集 長谷 敏通より引用
 
昭和20年7月14日15日 両日に渡って米軍艦載機のしっような攻撃に、釧路
市の中心部は灰燼に帰し、国鉄鋼材や港湾施設も多大な損害を受けた、
旭国民学校を初め、焼失した建物面積25万平方メートル 死者183人 負傷者
273人 焼失 倒壊家屋1396戸、被害者6211人に達し、他に多くの汽船 
魚船 の沈没も少なくなかつた、其れから一か月8月15炎天の中で、天皇陛下
の終戦放送を聴いた、当時父は軍属として、北千島にあり、私は7人姉妹の長女
として、港湾事所に勤務していた 炎天に父母塊となり野を耕す引用元 『昭和20年8月15日を詠う 昭和万葉俳句前書集』
発行者 高木二郎
発行所 マルホ株式会社

2011年6月5日日曜日

23年6月 5日 戦死者の葬式

戦争中戦死された英霊を送る葬式の道中多くの人達が旗を立て墓地に慰霊を担ぎ送りました。

2011年6月4日土曜日

6月 4日

昭和八月十五日、釧路市栄町に住んでおりました。私は小学校六年生、忘れも
しない一日です、この日をさかのぼる7月十四日、旭小学校に爆弾が落ち、
一面火の海となり、隣の防空壕にも爆弾が落ちて、竹内さんと言う一家が全滅
となり奥さん おばおちゃん、三歳の赤ちゃん、御主人はガタカナルに出征中、
一時間後その場にモミジの様な赤ちゃんの手が、木の葉のように落ちて居ました
、私の家も全焼しました、食料も衣類も配給で、今思うとゾッとします、今は良い世
の中で、物に心が足りないと常 常感じます、あの日を繰り返しては成らない 合唱
     空襲の火に夏草の無縁墓    釧路市 松永 和枝引用元 『昭和20年8月15日を詠う 昭和万葉俳句前書集』
発行者 高木二郎
発行所 マルホ株式会社

23 ,年 6月 4日 終戦物語

昭和20年の八月十五日私は、北街道網走市に駐屯する暁部隊の二等兵でした、
当日は網走神社の夏祭り。全将兵が戦勝祈願をして部隊に帰ってみれば敗戦の
報、爆薬を積んで敵艦に体当たりする一人乗りの特攻艇も、出番がないまま朽ち
果てました  遺書遺髪焼く夏空のうす煙  北街道 札幌 野津 正

空襲下、7月十八日、函館から十勝国芽室町中伏古に、女学生四十名を連れ援
農に行く、宿舎は電気も無い寺の本堂で雑魚寝の毎日である、たまたま八月十五
、病気の生徒を連れ、町の病院に行く、そこで詔勅を聴く
         狎れぬホウ狎れて削りし小豆畑  江別市大麻東町 藤田 武男

23 ,年 6月 4日終戦 物語

其の日、私は北海道札幌市に有り、札幌中央放送局でラシ゜オ番組の製作に
当たっていた、終戦の事は、異常な空気から察していたが゜、明白に敗戦を告げ
られ呆然自失、眠られぬ夜を明かした。
      放送塔のあたり 夕焼け怖しき  札幌市 引用元 『昭和20年8月15日を詠う 昭和万葉俳句前書集』
発行者 高木二郎
発行所 マルホ株式会社南区 新妻 博

2011年6月3日金曜日

23 年6月3日 終戦前後の苦労話 栗下地区の高齢者

終戦は佐世保市 近郊当時佐世保ちかくの軍需工場で働いていました。長崎に
爆弾が投下されたときの事、東の空が夕焼空の様にいつまて゛も赤かったのは
長崎が爆弾で、市内が全滅したとの噂が流れました。後で原子爆弾としりました
。八月十五日工場で終戦を知らされました、書類 部品の始末に大変だった事
が思い出されます、家にどうしたら帰れるかが一番の心配事でした、柳行李に
物を詰め父が背中に担ぎ線路を歩いた事が今夢のようによみがえってきます。
当時は塩は貴重品でした、米がなかなか手に入らないので友達と塩を持って
西諸地方が米産地と聞き、米と交換してあるいた。行きも帰りも身にえる重さ
だったが帰りは荷物の重さの喜び怖さの行き帰りでした、加久藤には不思議
にも深い縁が有りました、今では苦労乗り越えた平和な毎日を感謝しております・

23年6月2日 終戦の出来事

私は当時鉱山統制会職員として札幌に住む、たまたま第二回の召集令状を
受領し、入隊日に指定それたのが八月十五であつた,正午に家族と供に、
烈日に灼かれながら玉音放送に聴き入った。ただ感無量であった。
 玉音やじりじり灼きしぼんのくぼ
引用元 『昭和20年8月15日を詠う 昭和万葉俳句前書集』
発行者 高木二郎
発行所 マルホ株式会社