2011年11月29日火曜日

終戦物語 新京一中生徒

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 長崎と満州での終戦記事

日課は朝食前に燃料用の羊草刈りの作業があり、学習時間を取ってその後の作業にいる。6月は主に南瓜畑や小豆畑などの雑草刈りや水田の草取りなので、7月は麦刈り作業中であった、動員は2カ月り予定で7月28日には帰校するはずであったが、学校から「在満教務部の指示により当分の動員期間を延長をする」の電報が届いた。

学校との詳細な打ち合わせの為小川教官は8月4日農場を出発し8月9日を迎えた。小川隊と斉藤隊を斉藤教官が引率して東寧駅に到着した時は、避難列車は既に発車した後で、歩いての苦難の逃避行が始まった

斉藤教官は、先発隊を出して状況把握と安全確保に努め的確な判断で生徒を引率している。途中満州国警官から「安全な道はここから山むこに入り朝鮮の図門え逃げる道しか無い」と南下の道を勧められたが、斉藤教官はうっそうとした森林をみて北上の道へとむかったが正しい選択であった。また幸運にも直接戦火に合わず、万歳峠
、大城廠を経て石頭に到達した8月18日の夕刻に敗戦をしる。

21日、東京城の守備隊兵営でソ連軍の捕虜となる。日本軍の兵士や義勇隊の18歳以上の者と、斉藤教官も有無もいわさず連れ出された。生徒は指揮官を失ってしまったが、生徒の中から小川小隊は古畑を、斉藤隊は福井を小隊長に選び全体の指揮を古畑がとることにし、外に副官3名付けた。指揮系統を明確にし結束を図り団結を維持している。

10月12日、捕虜から解放の身となり東京城を古畑の指揮の元に出發、再び北頭、寧安を経て16日に牡丹江に到着する。18日ハルピン行きむの貨物列車に乗り込み、ハルビンを経由して乞食同然の姿で新京に帰り付いたのは10月20日であった。
逃避行中の移動・飢えや雨や寒さに、逃避行や収容所での非衛生な生活などで、収容所に残した衰弱者のうち死者も2名あり、又4名は消息がつかめず生還出来なかった


茶臼原農民道場の設立は昭和9年10月1日。設立の趣旨は、当時の農村の疲弊困憊を打破するために、中堅人物を養成することにあった。

道場の修練期間は青年部が1年、短期生が10日間であった。本道場で修業した者約2千人。昭和13年4月1日には、満州農業移民訓練所が付設され、満州農業移民団員の開拓訓練が行われている。戦後農民道場は高鍋軍馬補充部跡に移転。昭和
21年6月緊急開拓事業の一環として開拓農場として復員軍人軍属、海外引揚などの、開拓農業志望者(126人)の農業技実の訓練を行っている。
その後高等営農研修所となり、昭和47年より、農業大学校として県の農業発展と後継者育成に果たす役割は大きい。(宮崎大百科より)

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引用元「えびの市史談会史談史45号」(大牟田一成記事より)

2011年11月28日月曜日

終戦物語 東京の中央政府機関かその機能を喪失

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東京都   武籐 文雄 広島県

終戦直後、東京の中央政府機関がその機能が喪失した場合の為、地方ブロックごとに地方総監府を設け、府県及び政府出先官庁の一切を指揮する事になり、私は総監秘書官として広島に赴任しました。しかし、その機能を発揮する前に原爆に遭い、総監をはじめとし多数の殉職者がでました。私は九死に一生を得、まもなく8月15日を迎えました。当時の事は生涯私の脳裏を離れません。

終戦日 被爆のドームとこしなに

京都市  薄木 千代子  広島にて

終戦当日、広島で被爆した夫の看病をして広島にいました、電車の中で原爆に遭った夫は、一見無傷でしたが、次第に喉、胃とい痛み、兆候が現れ、被爆人ばかりで病院も手足らず、医者も手当ての分からぬ有様で、井戸水を貰い、冷やすぐらいしか出来ぬ始末でした (30日逝く) 合掌

被爆夫 とおほみこと聞く終戦日


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引用元  「昭和万葉俳句前書集」 (高木 二郎発行)

2011年11月27日日曜日

終戦物語 戦争は負けたんじゃ

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愛媛県    木口 さだお

敗戦の日、呉海軍工廠の工員一員として、徹夜作業のあと、睡眠中に終戦詔勅が、放送された。下宿のおばさんが「戦争は負けたんじや」と話しているのを聞いて飛びおきた。それは真実であった。b29 は悠々と定空を飛び、人々は虚脱したように焦土をよろよろとあるいた

敵というもの 無くくなりし雲の嶺


山口県    高野

終戦物語 飛行機は一機も無く

北街道    高橋 春男

当時。鹿児島県鹿屋海軍航空基地付近に散開、壕内生活の毎日。連日、空襲のため、飛行機は一機も無く、総員特攻肉迫戦闘員となり、昼夜問わずアメリカ軍の上陸に備え臨戦態勢にあった。終戦当日は炎暑、長い一日であつた。

飛機も無し 撃つ弾丸尽きて壕暑し

2011年11月25日金曜日

終戦物語 焦土と化した現世とは思えない

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山口県    板谷 政典

下関の造船所で、海軍の将兵らと人間魚雷を製作中、敗戦にと同時に人間魚雷を開門海峡にしずめにいったまま、帰らず人となった若き海軍の下士官等が痛ましい。

炎天下 人間魚雷 沈め逝く


山口県   後藤 いそ子


21歳青春盛りの終戦日でした。友達となけなしの毛糸を出し合って特攻人形を作り、中乃町の暁部隊に届けたり、夜ごとの空襲警報に、モンペの奥をぞろぞろと虱が這い回ったり、妙にしんかんとした静かな終戦の昼の空でした。いびり大豆を食べ過ぎて腹が下り、ソ連兵が上陸する噂にもがいた物です。

雑貨屋の跡の大穴終戦日

山口県   斉藤 美智子

山口県三隅町で終戦。連隊旗手の夫が軍旗を焼いて戻った日、自決も考えて拳銃の使い方を習う。其の夜、広島から無傷で帰隊した将校が一夜で死亡。童貞で征つた弟は、一片の骨も無いままついに戻らず。命得手複雑な涙を流した日でした。

恋もせで 征きし弟青林檎

山口県   前田 律子

当時、私わ主人の徴用令により、山口県光市に住んでおりました、沖には回転基地、街には海軍工廠がありました。工廠が爆撃されて幾百人もの人が犠牲になったのは、終戦の前日の事です。翌15日に終戦の玉音を拝聴した後、海にでて痛切な黙祷をささげました。

砂に残る 幼き手型終戦日

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引用元 [昭和万葉俳句前書集」  (高木 二郎発行)

2011年11月19日土曜日

終戦物語 大和魂のみでは

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 満州    神奈川県 吉田 正義

ソ連軍国境突破、侵攻により、満州国立中央特別連成所生3,200余人は、召集令一片により、戦闘要員となり、関東軍教育班員が中概となり、臨戦態勢をととのえる。各所に歩哨地、戦車壕を堀りて防戦態勢なるも、火器少なく、他の装備も悪かった。

大和魂のみではどうにも鳴らない、職業軍人は一人も無く、召集兵のみでは、悲しい極みであった。満州国立中央特別錬成所福所長

汗に泣き 夏草刈りて土壕ほる 

広島県   林 つぎ

昭和20年8月九日ソ連の参戦、爆撃を受けつつソ満国境の東満総省より、五月生まれの嬰児を抱き、リユサックを背負い、着のみ着のままの姿で避難民となり、新京の小学校に収容さのました。主人は応召中でした。

炎天にたどる 異国の収容所

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引用元  「昭和万葉俳句前書集」   (高木 二朗発行)

2011年11月18日金曜日

終戦物語 全員無事内地に帰還せよ

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南部朝鮮  群馬県  野口 とよ子

朝鮮江原道春川緑ケ丘国民学校【日本人学校】にて三年生の担任。8月15日の放送は、全職員ラジオの置かれいた宿直室に集合し玉音を聴き、一同泣く。外地なる故ただ泣いてばかりはおられない、直ちに全校児童を一堂に集め、学校長より敗戦を伝え「全員無事内地に帰還せよ」と激励して解散。

日盛にチマ す終戦日


東京都     前田 雅子

朝鮮京城府梨泰院町で主人臨時召集のため生後7カ月の長男との二人暮らし、前日の予告で隣組集合、ラジオを囲む、その時負傷兵護送に外出許可を得て主人帰宅。皆驚き共に泣く、玉音放送なので始めはわからなかったが、暫くして負けたとわかり
皆泣いた、ふと北鮮にいる両親友人のこと、明日からの事を思った。長い一日だった

軍服に 泣き出す嬰児鳳仙花

千葉県   岡野 修

釜山港より木造漁船で引き揚げの際、玄海灘で船のエンジンが三回故障しました。当時子供でしたが、敗戦、学校閉鎖、引き揚げ後の生活不安と期待で、漂う船の中から揺れて大きく動く星を眺めていました

エンジンがとまりて あおぐ流星。

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引用元  「昭和万葉俳句前書集」  【高木 二朗発行】

2011年11月17日木曜日

終戦物語千人針の歌

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 宮崎県    長谷敏通


戦争に出征して行く人達に心こめて送った千人針の歌

橋のたもとに町角に 並木の路に停車場に 千人針の人の数心こめて運ぶ針

とび行く号外鈴の音に 胸は湧きたつ引きしまる どうぞ一針兄のため
背の君の為 叔父の為

人は変われど真心は みんなひとつに国の為 私も一針縫いたいと
じっとみている昼の月

私が子供の頃 父が出征しました、当時の事を忘れる事は出来ません
、時は流れて私も腹に巻いて入隊しました、父も南から内地に向かう船が魚雷にあたり、船は沈みましたが無事呉港に裸姿で上陸したとききました。私もシベリヤ抑留3年
命を取り留め舞鶴港に帰り着きました、70年前の歌ですので間違いが在るかもしれませんが。昔を偲ぶ忘れされ様としております

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2011年11月11日金曜日

終戦物語 宝物の様な砂糖を嘗めた

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東京都   熊倉 ともこ

当時陸軍製紙廠足利利工場に勤む。敗戦の夜、糧秣倉庫があけられ、寮生に砂糖が配られた。寮の縁に腰掛け、宝物の様な砂糖を嘗めた。昼から泣き通し、泣き疲れ混沌とした15歳の頭の上に皓々と輝く夏の満月が永遠の光を投げていた。

夏満月 敗れし山河あまねくし


東京都   佐藤 一雄

宇都宮の兵営を出發したのは15日の早朝だった。車窓から荒れた風景が飛ぶたびに胸が痛んだ。父母のやっれた顔に出会った時、言葉はなかつた。巻脚袢をはずして
いると、母は「戦争は終わったんだよ」と言った。

敗戦を 背に片蔭をさまよへり


愛知県  高柳 善明 

栃木県黒磯町で終戦。陸軍一等兵の私は、敗戦を信じない殺気だった上官の命令で、本土決戦に備える為の兵器を、防空壕へ運び続けた。濠から眺めた空の青さと、泣き明かす蝉声が今も忘れられない。

父ははの 空戻り来ぬ終戦日

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引用元  「昭和万葉俳句前書集」  【高木 二郎発行】

2011年11月9日水曜日

終戦物語 昼ご飯も喉もとをらず

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福岡県   池辺 芳子



学校勤務の良人を北九州の戸畑に一人いてもらい、私わ幼い4人の子供と共に田川郡の田舎の村に疎開して畑を造り、農家から分けて貰った米で残飯は、干飯にして本土決戦の折りの食糧に蓄え足りしておりました。降服の報に接し、子供とかこんだ昼食も喉かとおらず、蝿がたまるままで有ったのを思い出します。 

決戦も せぬまま無念干飯櫃


福岡市在住 城谷 文四郎 

福岡市立第一病院長。正午陛下の御放送を汗と涙をもって拝聴。進駐軍に備え、患者、看護婦の手配。自らも院長として病院と運命を共にすべき院内に残瑠。 崎八万宮に詣で、勅額の伏手鬼門を仰ぎ涙が止まらなかった。


勅額の伏敵門下汗滂沱 



福岡県   亀山 正義  


学徒出陣の幹部候補生として久留米予備仕官学校に在り、連日激しい肉弾戦の訓練をしていました。空襲で瓦礫と化した市内で作業中に終戦の詔勅を聴き、若い血のたぎり押さえ難い気持でした。


御紋章 削りし銃身陽に灼くる。


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引用元   「昭和万葉俳句前書集」  【高木 二朗発行】

2011年11月8日火曜日

終戦物語 第5航空艦隊司令官宇垣海軍中将特攻機に搭乗

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大分県     奈良県  川南 芳三

終戦前、私は海軍の特攻隊員として、大分海軍航空基地で待機していた。昭和20年8月15日、終戦の日夕刻、第5航空司令官宇垣海軍中将は、幕僚、部下の中止の制止も聞かず、沖縄特攻を行うことになり、701航空隊爆撃隊長中津留達雄海軍大尉の操縦すする艦爆機に搭乗し、沖縄の米艦船に特攻攻撃を行った。なを、長官と行動を共にした特校機11機のうち、8機が突入し、3機が不時着した。

戦終え 部下待つ空の沖縄へ


大分県  臼杵市  甲斐 フサ子

大分県立三重高等女学校4年生。大分第12海軍航空廠に動員学徒として、射撃機、爆撃機の修理、製造をしていた。激しい空襲に、若い命を散らす学徒も少なくなかった、しかし、8月15日、ただ青い空ばかりの空であった
秋立つや 機影空から 消ゆるとき

引用元   「昭和万葉俳句前書集」  (高木 二郎発行)


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2011年11月5日土曜日

終戦物語 ああ終戦なのだ

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 千葉県    足立 いね

本土決戦を覚悟した兵二人を吾が家に泊め、兵一人と私は、陛下の御詔勅を聴きました。頭を下げた兵の口より「ああ終戦なのだ」とつぶやきに唯ぼんやりとした自分でした。其の兵隊は金沢の人でした。後日一枚のハガキをもらいました。

星月夜 仰ぎて悲し香手向け

東京都   北海道   高木 ナツ

東京都渋谷の日赤産院に卒業後勤めておりました。日一日と激しくなる情勢の中で、
勝利を信じ、薬品不足の中で、精一杯の看護業務でした。人生唯一度の青春を捨てての明けくれ、そして玉音の放送****。過ぎ去った日々をいとおしみ唖然となり、やり場のない気持ちをつと持っていました。口紅を、涙を流しながら思いきり引き、
鏡をみっめました。同級生5,6,人で無断で皇居前へ出かけました


玉音に 滂沱の涙青春惜しむ



東京都   埼玉県 千鳥 槌子


私わ、日本赤十字社691救護班として応召、東京世田谷第2陸軍病院勤務中、空襲で大部分焼けたるも、勤務病棟が焼失を免れ、終戦を迎える、続いて、引きあげをかねた病院船第1号に配属、舞鶴より出港、 機雷に2度ぶつかり、命からがら朝鮮、フイリッピンに航海す。

戦果つ 続く勤務の引揚船

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引用元   「昭和万葉俳句前書集」  (高木 二朗発行)

2011年11月3日木曜日

終戦物語私はまだ父の戦死を知らず

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徳島県   佐光 典子
父の出征後、過労で倒れた母と私達姉妹は、徳島県小松市の母の実家に身を寄せていました。辺りは農村、9歳の私はまだ父の戦死したこともしらず、干梅を口に含みながら、いつになくしずかな村に異様な零囲気を感時じていました。

勝利者へ 幼き敵意花かぼちや


徳島県  芝 利勝  


当時私は40歳の老兵て゜゛応召し、本土の護土部隊として配属され、徳島県の南部沿岸警備の為、敵の上陸阻止に備えアンバン作戦と称し、一身をもつて敵戦車一りょうを破壊する訓練に明けくれの毎日であった。

敗戦や 仮寝の夢の蚤虱


徳島市  志満 加芽枝

昭和20年7月3日夜半より4日未明にかけて、徳島市内米軍機の空襲。町の大半全焼。当時徳島医学専門学校付属病院(現医大)看護婦として勤務。病院全焼、着のみ着むのまま呆然もつかの間、被災傷病市民の救急処置にと富田小学校を仮救護所として、医師、医学生、看護婦一丸となり救護活動を続けました。

炎昼や 針合針は木綿針


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  引用元   「昭和万葉俳句前書集」  (高木 二朗発行)