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満州満鉄で働いていたが、カツケにかかり二月島から島をめぐり、内地に引きあげる。終戦は実家で、生きてかえって良かったと胸がふるえた。昼間精米にいっていた山あいのむこうに山火事があったと見たらが其の色は黄色か紫かよく言え無い原子爆弾であった。
長崎におらずによかったと思った、弟は爆弾にあつた。終戦のラジオはきこえなかった 。進駐軍が防空壕の中まで調べにきた。怖ろしかった。満州に残った友たちは丸坊主でかえってきた
語られた方は終戦の歳 20歳 平成23年家族に看取られて永眠去られ
りましたご冥福をお祈りします
[私の終戦」 著者 長谷敏通
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兵庫県 中田 節子様
兵庫県赤穂町国民学校訓導、児童数1500人、広い運動場は芋畑。空襲を受けた浜松高射砲隊が移動してきて駐屯。教室は兵舎に、校庭の芋畠に高射砲が何機もならんでいました。上級生は工場へ、下級生は軍馬の草借、山から薪ヲ背負ってつて、直接軍へ奉仕しました
軍馬草刈り来し児等を抱いて泣く
昭和万葉俳句前集 発行者高木二朗 発行所マルホ株式会社より引用
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私の故郷は宮崎県ですが、私の村の校庭にも「さつまいも」、薩摩語で「カライモ」とよびますが植えてあつたと聴いております 。厳しい食料難がしのばれます。 長谷
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