2011年7月16日土曜日

20年5月11日 市の東部と武庫郡御影町、住吉村、本庄村 「現東灘区」の空襲では、焼夷弾、爆弾の雨を降らせ 木造家屋は爆風で倒壊し持てるたけの物を持ち避難する人。

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長崎県  後藤 なせ様

昭和20年8月15日は、鳥取県三保海軍基地に、主人は海軍小尉として勤務、私は長男、長女と基地近くに住む、8月9日故郷長崎に原爆が投下され、母、姉、従兄、叔父、叔母、8名犠牲となる、基地は幸いに余り動揺なく、皆帰郷の準備、帰崎は終戦一ケ月日の まだ死臭と瓦礫の有様でした。

水欲りて 阿鼻叫喚の夏を逝き

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引用元ー「昭和万葉俳句前書集」「高木二朗発行」

長崎では23、753人が死亡、行方不明 1927人、重軽傷 40933人の散状となりました、放射線の権威、永井隆博士もその一人だった、博士は
「長崎の鐘」などおおくの手記、記録を残し、原爆の恐怖を後生に伝えられました。

「一億火との昭和史」より 抜粋   「編集者 長谷敏通」
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