2011年8月30日火曜日

宮崎県 宮崎日 日新聞窓欄に投稿

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パソコン使い戦争を伝える

昭和20年、満州新京(現長春)満鉄社員輸送業務に励む。7月現地で入隊、北満州国境部隊配属かなたはソ連の山だと古兵が語る。9日ごろソ連軍突如侵入、其の重装備に抗する手段もなく我が中隊は後方に転進。10日後に山中で終戦をしる。現地で中隊は解散する。

5人して逃亡中ソ連兵に包囲され、銃撃、最悪の捕虜となり、3年の抑留のはじまりであった。異国に眠る多くの友への思いを胸に残し23年舞鶴上陸。鹿児島の戦友の安否を役場に連絡すると、戦死との返信で戦争の残酷を悲し憎しみ胸がつまる。

孫も離れ 友人も多く亡くなっていき、昔話も消え行く今日。終戦前後の様々な出来事を若い人達につたえたく、少し覚えたパソコンで内地、外地で国の保護をなくした日本人の苦しみを体力の続く限り伝えたいと思います。世が変わり今ではえびの市に長春より多くの学生が留学して、日本の大学受験に勉学に励んでおります。素晴らしいことです。また、孫がぢいちゃんみてるとのメ-ルが楽しみです。

宮崎県 えびの市      長 谷 敏 通 投稿  86歳 平成23年 8月27日宮崎日日新聞

2011年8月29日月曜日

終戦物語  敵中突入を決して、

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東部満州     愛知県   木屋 孝正

旧満州の老国山、羅子溝方面において、対ソ聯との戦闘に参加したが、停戦となり、敗戦による武装解除を受ける、満ソ国境に近い所、部隊は全滅に近い。僅かの経理班員は、敵中突入をけっして、手りゅう弾を手に立ち上がった、折しも停戦命令がきた。行動を中止して雑木の丘にのぼる。そこ軍旗の奉旗ありと知らされ、全員挙手のうち点火わなす。嗚呼。

手りゅう弾 もつ掌むなしもいくさ止む














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東部満州     大分県   富田 晋



昭和20年5月、ソ聯の参戦に備え、満ソ国境の東寧に召集され、毎日毎日が陣地構築に重労働の連続でした、小銃は3人に一つ、帯剣と手瑠弾だけの装備、いかにも敗戦末期の症状でした。8月9日ソ連の参戦で、ソ連軍が戦車を戦闘に怒濤の如き勢いで国境を突破して進攻してきました、今日で私の命は終わるのかと思うと、両親、兄弟のことが思い出されて泣いてしまいました。


終戦に もろ手をあげる初年兵


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引用元 ****゜「昭和万葉俳句前書集」  (高木 二朗発行)


国境 老国山 部隊に7月現地人召集で私 輸送業務関係者にも最後の現地入隊、お二人
の記事の内容に衝いては私も同じ体験です、 国境の日本軍が重装備のソ連軍に身をすて
国の守りの為戦った事を残したい思いす。

2011年8月27日土曜日

)終戦物語  ルソン島東海岸

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.ルソン島にて    茨城県   新井 関乃助 

ルソン島東海岸をほう徨していた。至る所に日本兵の死体が転がっていた   。
軍服を着たまま白骨化している腐りかかった死体には、宿借りが群がって
いた。明日は我が身、俊寛僧都さながら海草を、宿借りを求めてさまよって
いた。

友の腐肉 食うやどかりをくらいけり
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比島呂宋島山嶽州アシン谷に在り  東京都 木下 和信

尚武軍司令部は比島呂島山嶽州アシン谷に在り。地獄谷といわる。軍指令
官山下泰文大将、最後の策を講じつつありき。私は参謀附少尉。その日、
日直将校。夜9時頃か、松明を掲ぐ特情、伊藤、吉岡大尉,暗闇を衝き大
詔の報告に来る。

最後の策 大詔に止む山下兵団

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ラバウルで孤立   愛知県  寺西 金一

孤立したラバウルの海軍253空零戦隊の基地に、いつか再び精鋭の飛行を信じ
て、薯作りに励む上等整備兵曹の惨めな勇姿。敗れし朝、星のマークの敵機が
乱舞する。とっておきの新しい褌を締めて、あの詔勅を聴く嗚呼。

敗れし夜 サザンクロスのうるみいし

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引用元 ***「昭和万葉俳句前書集」  (高木 二朗発行)


終戦66年 過ぎし今 書き込む私も胸が痛みます、勝利を最後まで信じ祖国
の為、遠く離れた島島で思いもしない終戦、。戦争で亡くなられた方のご冥福
を祈り、戦争のむなしさを語り継ぐ思いです。 (合掌)

2011年8月26日金曜日

終戦物語 故郷に帰れ

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鹿児島県鹿屋    香川県   豊田 健三

甲飛予科練習生として鹿屋基地の横穴壕で起居していました。終戦もしらされず、敵の爆撃
の目をくらますための模造の飛行機の場所替えなど、作業ばかりしていました。8月20日
過ぎ夜半起こされ、故郷に帰れとの事でした・

炎天下 拾い手捨てぬ敵のビラ

鹿児島県 伊作町   福岡県  鹿児島 泰蔵

8月15日早朝、薩摩半島伊作町と谷山町を結ぶ国道の峠の杉林の中にある野営地を出發
して、池田湖畔の軍弾薬集積所に向かった時の「弾薬受領」という武者震にもにた緊張感は
私終戦の聖勅と共にひとたまりもなく崩れ、放心にた気持で帰途をいそぐ

何で負けたか、やはり物量戦に惨敗だ。悔しさが込み上げてくる。最初の応召で中支、北支
を駆け回った記憶がよみがえる。二度目の応召は原隊で、そして今度の三度目の応召に*
*********。ささやかな私一人の軍歴が泡の様に消えさつた。これからの日本はとうなるも
のか。故郷の年老いた両親をどう守ってゆけばよいのか。そして自分は・

終戦日 消えし手牒の兵事歴


鹿児島県桜島   香川県  豊嶋 俊夫


鹿児島県桜島、海軍の第五特攻戦隊司令部「水上特攻隊」で、南九州の海岸防衛に従事。
米軍の宮崎、鹿児島への進行が迫っており、皆必死必殺を期しながらも、好み身が玉と
る散る時と 所を模索していた。

生くべきか 死ずべきか立つか雲の峰

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引用元****「昭和万葉俳句前書集  (高木 二朗)



2011年8月23日火曜日

終戦物語  爆撃機150機の集中爆撃をうく

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愛知県      阿垣 映子

愛知県豊川市にありました豊川海軍工廠は敷地坪総坪数594.400坪・最盛期の工
員数約6万人、海軍兵器生産東洋一の大偉容を誇っておりました、昭和20年8月日
午前10時30分、b29 爆撃機約150機の集中爆撃を受け、死者2,477人負傷者1万余人といぅ犠牲者をだしました。私わ、豊川海軍共済病院看護婦養成所第三期生。当時15歳でした、

防空壕の中で此の弾でも生きていた、又生きていたね、と友達同士手を握り締めておりました、一瞬母に、家族に会いたい、母の顔を瞼に焼き付けて、死を覚悟しておりました、防空壕を出た途端、一面黒煙が上がり、負傷者がゴロゴロしております。負傷者を担送しているのに執拗に艦載機が追撃してきます、木陰に隠れながら走りました、救護所は各所に設置されました。民家の座敷もみるみるうちに負傷者で阿鼻叫喚の修羅場と化しました、遺体は松原に、見渡す限り置き去りにされておりました。

艦載機 木陰に隠れ 担送す

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引用元***「昭和万葉俳句前集」   (高木 二朗)


2011年8月22日月曜日

終戦物語  青天白日旗が広がる。

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 香港  愛知県   小山 歌三郎 「南 史」

陸軍、暁部隊召集下士官、在香港、8月15日朝、家ごとに青天白日旗がひるがえる
2時、副官より終戦の大勅下りし事、3時、前言取り消し、支那派遣軍百万健在の達し、
翌日の新聞、日本降服の大活字。

流れ星 妻子に 生きて還えらねば



香港  東京都   田中 義勇 「竹 影 」

香港方面海軍特別根拠地隊として、該地区の警備に当たり、日夜訓練に励んでいた。戦況は日び不りな状きようになり、玉砕を覚悟、ひしひしと緊迫の度を深めいた降り、玉音放送を聴き、緊張した前身が一度に崩れ落ちていつた。

号泣の 部下を諭す吾も 灼けゐたり

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2011年8月21日日曜日

終戦物語  シンガポール市街は

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 シンガポール    神奈川県  加部 言治

終戦時、私は、スマトラより昭南島防衛隊の暗号士として在島していた。暗号通訳は無電が主体であり、暗号士は一般の者の知らない軍事秘密を全部しつていた。玉音放送により日本の敗戦を一番早くしったが、一般の将兵は敵の謀略であると憤激して耳もかさなかつた。シンガポ-ルは、占領より終戦日まで一発の銃声もきかぬ平和な日が続いていたからであり

兵に配られた新聞ゃ情報は、すべて勝った勝ったの報道ばかりであったからだ。ところ
が現地人は情報ヲキャツチするのが早く、一夜にして日本の敗戦を知り。中国人街、
インド人街、馬来人街、インドネシャ人街のすべてが、自分達の居住区域を自ら守ることと、独立に向かって一斉に蜂起し、シンガポ-ル市街は混乱の坩堝と化して、騒然として地安は無秩序の状態に陥った。

弾残る 肩疼き来る 終戦日

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引用元 ***「昭和万葉俳句前集」   (高木 二朗 )


一夜にしてすべてが変わる、しかも命も 終戦でなく敗戦なのです、平和な街のよぅすが分かる様です、前戦で戦っていた人達のその後の苦労はいかばかりで遭ったことでしよう、過ぎった戦争での苦しみは忘れる事なく、平和の望みをいつまでも強く持ちつづける事と思います。

2011年8月20日土曜日

終戦物語 踊り狂う兵隊

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パラオ島       東京都  直井 正武 

南洋群島パラオ島に有り。飢餓戦線をさまよう目に映ったのは、島を見張はって
いる敵艦 艦上で、赤、黄、青、など原色の鮮やかなシャツを着てダンスをする敵
兵の姿だった。後で知ったことだが、これは日本の降伏を知り、踊り狂う兵隊だつ
たらしい。

艦上に 色シャツ動く 敗れしなり


ボナベ島゜「現在のミクロネシヤ連邦』  鳥取県 宮地 和子

カロリン諸島 ボナペ島のジャングルの中で終戦を迎えました、ラジオ等はありま
せんので数日後になって知りました、島民に日本が負けたと聞かされた時はデマ
でないかとさえ思いました。クエゼリン島ゃサイパン島等が玉砕し、ボナベ島でも
玉砕を覚悟で、上陸する敵兵を待っていました。

玉砕は あすかもしれぬ 島の夏

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引用元  **『昭和万葉俳句前集」   (高木 二朗)

2011年8月17日水曜日

終戦物語  もう日本語は通じない

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南部朝鮮    大分県    財前 義一 「一笑」

8月14日、北鮮威興刑務所から大田刑務所に出張する。15日朝、京城駅着、街も平静である、大田駅着、歩く事30分、灼熱の照り付ける太陽、正午を時計は少し回っている。ここ大田刑務所で聞く敗戦の知らせ、今日まで大切に守ってきた官職、今、古靴のよぅに捨てる。其の歓声、夕闇も迫っている。北鮮への最終列車の中、もう日本語は通じない。

独立の 万歳に酔う京城の街

******ここまで********

引用元  (昭和万葉俳句前書集)     「高木 二朗著」


思ってもいなかった敗戦、多くの人がそれぞれの立場で特に外地では一日ですべてのものが逆転したのです、考えもしてない事が現実に起きたのです。国の保護をうしなった日本人が一夜にして明日の命さえ分からない現実、66年前の終戦の出来ごと
です、日本語は通じない 其の言葉の意味に込められた敗戦の思いは胸中を刺される思いです。

2011年8月15日月曜日

終戦物語 子供時代の思い出 ノンとシタメ

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宮崎県    江藤 則夫様

人の血を吸って生きる物に蚤と虱がいた。ノンは赤茶色か飴色で光沢があり胡麻よりも小さく二三センチは軽くとんだ。肌着にいて逃げるが速く、「のみ一匹若い女を裸にし」とかという川柳も有り、指に唾を付けて素早く抑え無いと次に飛んで行った、畳で繁殖するともいわれ、臼庭にも沢山いて、足にとびついてぞろぞろと上がって来るものだったノンの多い家少ない家があつて「何処何処の家がノンが多かがなー」と言ったりした夏にいた。

シタメには髪の毛にいる黒いのと肌着にいる白い衣虱がいた。男はみな丸坊主だったのでいなかったが、女の子の髪に沢いた、母親が捕ってくれたり姉妹で取り合ったりした。頭をあらはない人に多い様で親の注意や生活程度とも関係が有るようにみえた。ビンダレ「木製洗面器」に湯を入れ上半身で髪を洗うのをよくみかけた。頭の自肌か髪の毛にしがみ付いており、爪でしごき取り緑の板の上等で親指で潰すのだった。

蚤 虱は満州から兵隊が持ってきたともいわれていた、冬の寒い時季に肌着の縫い目におり、体のあらゆるところ刺すと言うか吸い付いて血を吸うのであつた、肌には赤い吸口が沢山でき、痒いので常に体を動かし「シタメ踊り」という新語も生まれた。繁殖が早くシャツ等の縫目に何十匹もいて両手の爪で潰すと爪は真赤になるものだった。又シタメも白いのに血を吸って腹が赤くなっていた。又縫目には何百個もの白く光る卵を生み付けていた。とても捕りきれないので母は下着は全部風呂にいれて煮る物だった。それでも何日かすると湧く用に繁殖してシタメ踊りをさせられるのだった
。米軍がddt殺虫剤を持ってきて絶滅したようだった。
後 終戦前後のそのままのお話を続けさせて頂きます
*************ここまで続く*****************

引用元 *** えびの市 「史談史より抜粋」   (江藤 則夫著)

2011年8月13日土曜日

終戦物語 是まで生死をかけた苦労はなんだったか


************* ここか*************

台湾にて    平松 正五郎

終戦時は、鹿屋海軍航空隊大鷲部隊残留班と言っても、鹿児島県鹿屋でなく、台湾台北市郊外の松山飛行場「陸軍管理にて周辺は陸軍部隊が固めていた」に飛行場待機員として勤務

15日の放送は敗色濃いものの、ソ蓮参戦に依る激励の勅語とおもいが、終戦の詔勅にて、是までの生死をかけた苦労は何だったのかと、講堂に安置してあった白木の箱の前で、友と号泣したことが昨日の如く偲ばれる。

三日前 終戦なれば 友逝かず

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引用元       (昭和万葉俳句前書集    「高木 二朗著」

2011年8月12日金曜日

新京も奉天も風前の灯になつた。

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福岡県      成松 欽嗣様

その日重大放送が有るとのことで、講堂に集められた。雑音ひどく、よく聞き取れなかったが、日本が降伏したとすぐ分かった。8月9日にソ蓮軍が突然満州になだれ込んで新京も奉天も風前の灯になった。8月13日に召集され、やっと14日にこ奉天市鉄西区にある国民学校に集結した私は、戦況から判断してすでに決死の覚悟が出来ていただけに敗戦がどうしても信じ等れなかった

やがて配属された部隊では、酔っぱらった見習士官が軍刀を振り片っぱしからひまわり切り倒していた。近くにあった日本人民家では、幼い子供を抱えた若い奥さんが
ちいさい紙袋を造って灰を詰めている。暴漢に襲われた時の目つぶしにするのだといぅ。そんな人達が取りすがるのを振り払って、やがて部隊は北へ移動し、そのままソ蓮の奥深く連行されたのである。18歳になったばかりだった

音絶えて うす気味悪し夏の午後

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惨めな敗戦残された 婦女子達の心構え 至るところで起きた敗戦の悲劇 僅か18歳の胸中はいかばかしであった事でしょう、私も当時20歳 北満州の山の中を新京目指して当てもなくさまよっていました。無惨にも異国で非業の最期を遂げなれた多くの人の御冥福をお祈りいたします・【合掌】

2011年8月10日水曜日

終戦物語 虜囚 短歌

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札幌市  塚本 光雄様

故郷に帰らむおもい一筋に耐えきし戦友よ凍土冷たし

方五尺余す墓所の冷え冷えと野辺り送り柩小さし

凍寒のきはみ小川も水涸れ生活の氷運びぬ

従容と戦友と廬囚の責うけし豊原の野を馬齢薯の花咲く

凍寒に小鳥も凍へ死ぬというこの山奥は笹さえ生えず

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熊本県   田上 千尋様 

夕刻早や街にソ軍は入りにけりごごたる戦車の響き

左右前後に敵砲弾は破裂す吾も撃ち返す曲射砲弾

血刀わ下げて壕に入りきたる白兵戦の一軍曹ありぬ

決別の杯交わす壕の中宿命なるか終戦の報

戦野に散る戦友「とも」の屍を埋葬す詣でる人無き草むす墓辺「合掌」

***************ここまで 続*************

引用元***「シベリヤ抑留体験記」  「城田 敬助」

2011年8月9日火曜日

終戦物語 軍馬も食を求めて

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南部満州    兵庫県  森本 艶子様

終戦日、旧満州国錦州市向陽街、合成燃料株式会社社宅内軍借上官舎2号に在住‥亡夫「元軍人」は8月9日、ソ蓮参戦と同時に隊に行ったまま終戦を迎える、7歳と4歳と1歳の子供と私、陛下のお言葉は、はっきり聴きとれませんでしたが、周囲の様子の刻々のうっり変わりにより敗戦を知る都同時に、外地での私達の生活は、一分先は闇でした。音もなく崩れる思いがしました、正午頃から陸軍官舎が襲われ、開拓団の方々「殆ど婦女子」が着のみ着のまま、追われるように逃げて来られました、皆で雑居、たちまち病人が出来死亡する人もふえ大変でした、飼い主の敗戦により、 
軍馬も食を求め歩き、痩せ衰え、トボトボと肩を落として、当てもなく行く姿、今思うと
胸が痛みます。

板切れの 墓標たちまち丘暑き


南部満州    香川県   池添 静雄様 

終戦わ迎えたのは石炭露天掘で有名な満州国撫順駅。身分は関東軍668部隊の初年兵。その日の午後郊外同胞農家が暴徒に襲われているのを救出に赴き、戦争に敗れた悔しさ、惨めさをつくづく感じ、夜は貨車の中で一睡も出来なかったことを記憶している。

国破れ 夜の歩哨に虫すだく

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(引用元) 「昭和万葉俳句前書集」   [高木二朗]

2011年8月8日月曜日

終戦物語 中国の兵隊に幾度も

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南部満州   東京   深沢 宏子様


満州国 撫順市の市公社に住んでいました、夫が満州国の官吏で撫順市の防衛参事官でした、私は20年7月に長女を出産しました。敗戦後は中国の兵隊に幾度も家に押し入れられ、又ソ蓮の兵隊も女を出せと押し入ってきて怖ろしい目に遭いました。

乱れにし 心は盆の母のもと


南部満州    大阪府   井上 操乎様


奉天市、8月15日は会社命令で営口へ疎開す、長女3歳、長男11月、不自由な生活の中で長男病得、重体となる。終戦の報伝わるや、すぐ満人は暴虐をきわめ、殺人、暴行多発、生きて心地せず、8月末帰宅、3日後長男死亡、主人は戦地から未だ帰らず、当時24歳。

灼くる風に 大君の声とぎれがち


南部満州    兵庫県    生尾 さだみ様

8月15日には、満州国本渓湖市に住んでいました、当時私は、新京特別市の女子師道大学の学生で、夏休の為自宅に帰省していました。将来は満州国の女子教育に身を捧げたいと決心していたところです、祖国が破れ、原住民の反乱、若かった父の死と、強烈な過去は、未だに拭い切れないのです。

大西日 つぶてとなりていくさ果つ


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引用元**「昭和万葉俳句前書集』 (高木二朗発行  )


敗戦の事実は外地の日本人には住む家も無く命の危険に毎日おびえて暮らす日々
で遭った事を皆様書いておられます、事なかばで多くの命が無惨にも奪われた史実を忘れる事無く、肝に銘じておくべきと思います、私『長谷」も青春時代 新京で5年間
過ごし『20年 7月現地入隊 北満州にて抑留3年 23年舞鶴上陸」想いはつきない
新京特別市です、今えびの市には『長春」前の新京から日本の大学受験のため1年間勉学に励んでおります、まじめな学生ですほとんどの学生が大学に進学しております。新京か懐かしく留学生と楽しく交流しております。世の中が 変わりこんな縁がある事の不思議を感し゜ております。

*****************此の話是まで*****************

2011年8月6日土曜日

終戦物語 女達は髪を切り

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南部満州    千葉県  角川 千枝子様

無蓋車に乗せられて新京「現・長春」を避難。通遠  まで来て敗戦をしりました。置き去れの病兵哀れ。兵の毛の帽子と見たのは虱がとりっいてのです、女達は髪を切り男装していました。当時主婦、24歳。

高梁の 葉ずれの中に葬りし

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南満州    東京都  月岡 チト 様

新京より朝鮮へ疎開の為南下中の無蓋車の中で終戦を迎えた、13日の夕方から無蓋車にすし詰めになった、新京人の南下が始まる、15日玉音放送が終わると、
すぐ気車は原の中で止まる「本渓辺」 満人の略奪に遭いソ蓮機の機銃掃射でバタバタ倒れる、新京へ帰る食物も捕られ、畠の茄子で家族6人の命をつなぐ。

一滴の水なき 夏の逃避行

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2011年8月3日水曜日

終戦物語 特殊潜水艇 3人乗り 艦長19歳

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宮崎県    東 清秋様

佐世保の海軍に志願兵として入隊、呉大竹潜水学校入校、19年特殊潜水艇科配属小豆島 坂部にて訓練をうく 試運転に立ち会い 四国 宿毛にて待機 命令を待つ  


命令に依り特殊潜航艇3人乗り 艦長19歳 操縦科卒 現役太平洋を潜行、苦難筆跡につくしがたし。ハワイの大軍団を見て転身の余儀となる。艇器具故障、万難を乗り越え青森大湊に入港8月16日初めて終戦を聞く、海軍の迎えの飛行艇で呉に帰る、小豆島で艇を自沈、書類を焼く、

復員の途中広島を見る、徳山駅は無くなっていた。次の乗り場まで歩いて行く、下関から門司へ行く、台風で大変な被害の様だった。支給された物資は全部無くなり、其の時の毛布と日の丸は今も持っている、私の分身を見る思いがする、長くて短い世の流を感ずる歳になった
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引用元******* 「私の終戦」    (長谷敏通著)

2011年8月2日火曜日

終戦物語 青酸カリをポケットに

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大阪市     大岩 美智子様

敗戦当日は岡山県赤穂郡瀬戸町瀬戸、県立瀬戸高等女学校にいた。上級生は水島に動員。校舎の半分を呉海軍工廠分工場として使用。私達学年は、学内にあいて双眼鏡の生産に従事、当日だれが持ち出したかのか、青酸カリを各々ポケットにしのばせ、アメリカ兵の来る前にと死を覚悟したのを記憶している。


夏草や 覚悟の薬にぎりしめ



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富山県     川島 勇次様


20年6月、軍艦「利根」に乗り組を命ぜられ、海軍経理学校より呉軍港江田内で乗艦した、当時「利根」は、多くの戦績にもかかわらず、燃料がなく、張り子の虎となって海軍兵学校生徒の乗艦を持つ呉練習隊に編入していた。7月24日と28日の両日にわたり、米英機動部隊の艦載機と大型爆撃機のべ千機が、在港艦船を攻撃した。

「利根」は、伊勢 日向  大淀と共に終日、防空砲台として応戦し、多数の戦死者を出してその命脈を断ったのである。「利根」は左に21度傾斜し、江田内沿岸に大破したので、残務を処理するため、江田島佐伯小学校に移り、終戦を迎えた。 
軍艦利根庶務事務室先伍下士  海軍上等主計兵曹

古鷹の 雲の峰へと紅蓮炎

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引用元**「昭和万葉俳句前集」」      「高木二朗様」

終戦前 いかに米英の物量の大きさに今となれば、驚くばかしです、その攻撃に立ち向かった人達の気持を思い亡くなられて多くの人達にご冥福を祈り、感謝の気持を持ち続ける事を誓います。